ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

車いす満足 改修甲子園 観戦バスツアー

2011年08月04日 02時42分37秒 | 障害者の自立
 名張市在住の車いす利用者9人を中心とする35人が、車いすごと乗車できるリフト付き大型バスを使って阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)のナイター観戦ツアーに出かけた。2010年に改修が終わった同球場のバリアフリーの改善点を確認するのも目的だ。このツアーに記者も同行した。


 観戦したのは、7月27日の阪神―中日戦。複合福祉施設「はなの里」(名張市西田原)の市障害者相談センター(なびっと)相談員で、市身体障害者互助会長の田中恒紀さんが企画した。06年8月に同様のツアーを実施していて、当時との施設の比較もしたいという。


 一行は、予定通り午後1時半ごろ、前回と同じ球場すぐ近くの路上に一時停車した。記者は、車いすの主婦、田中美江さん=名張市東田原=の介助者として、夫で元農協職員の耕造さん(64)と3人で三塁側内野席の車いす用入り口から入場。女性案内係のエスコートで関係者用エレベーターで3階に上がり、段差のない通路をスタンドの車いすエリアまでスムーズに誘導してもらえた。


 車いすエリアは、11段目の一般席9席分を区切り、車いす2台とそれぞれの介助者計4人が球場備え付けのいすを運んで観戦する。三塁側の最前3列に集中していた改修前よりゆったりしている。12台分から新設されたアルプス席内も含めて31台分と増えた。甲子園球場での観戦は初めてという美江さんは、適度にグラウンドが見渡せる席に「よく見えます」と満足そう。田中恒紀さんは「エレベーターを降りた時点で専用のトイレも使える。入り口からスタンドまで急角度のスロープも解消された」と話した。


 試合は午後9時過ぎに終了。球場付近は観客で混雑するので、大型車両駐車場まで約20分、歩いて向かわざるを得ない。真夏の日中なら車いすの介助者や自分で車輪を回す人には体力的にきつそうだ。田中恒紀さんは「間違いなく改修前よりも大幅に改善されていた。甲子園球場には電車で来る方法もあるが、車いすでは介助者がいないと乗れないし、試合が延びれば時間も気になる。駐車場が遠いのが課題だが、今後も機会があればバスツアーをしたい」と話していた。

朝日新聞

介助犬の役割 児童が学ぶ

2011年08月04日 02時40分41秒 | 障害者の自立
 身体障害者の日常生活をサポートする介助犬の役割を学ぶ講座が3日、岩国市中津町の川下供用会館であった。市内の小学生16人が参加し、介助犬への理解を深めた。

 九州補助犬協会(福岡県)の訓練士今田晶子さんが、訓練中の4歳の雌のラブラドルレトリバー「グレース」を連れて登場。落とした携帯電話を運んできたり、靴を脱がせたりする訓練を実演した。

 今田さんは米国で誕生した介助犬の歴史や、1頭約300万円かかる育成費用が全て寄付金でまかなわれていると紹介。「街で働いている犬を見かけたら、邪魔をしないよう心の中で応援してね」と呼び掛けた。


【写真説明】小学生の前で靴を脱がせる訓練を実演する今田さん(左端)とグレース

中国新聞

ダウン症患者の家族の手記や提言 諫早・むつみの家診療部長が出版

2011年08月04日 02時36分31秒 | 障害者の自立
 小児科医で、諫早市の重症心身障害児・者施設「みさかえの園むつみの家」診療部長を務める近藤達郎さん(52)が、ダウン症患者の家族の手記や専門医としての提言などをまとめた「ダウン症者・家族が幸せに暮らすために」を晃洋書房から出版した。自身が会長を務める染色体障害児・者を支える会(バンビの会)との共編。

 ダウン症は染色体異常による先天性疾患で、発育や発達に遅れが見られる。長年、その診断に携わってきた近藤さんは、高齢出産の増加や医療水準の向上などに伴い、1975年に約930人に1人だった同症の出生率は今年、約340人に1人になると推測。「本書が障害者も地域社会の一員として幸せに暮らしていくにはどうしたらいいかを多くの人が考え、話し合う下地になればうれしい」と話している。

 前半は1歳から58歳までの患者の両親ら21家族24人が実名で寄せた手記を掲載。同症と診断されて動揺しながらも、子どもの笑顔と生命力に勇気づけられ、掛け替えのない存在として受け入れていく心境の変化や、成長の喜び、家族の絆、命の貴さがつづられている。22歳の同症の娘を持つ母親は「結婚できる社会、障がいがあっても就職して、仕事をして、趣味を楽しみ、人生を全うできる社会をつくってやりたい」と多くの家族の思いを“代弁”した。

 後半は、近藤さんが専門医の立場からダウン症の歴史や統計、合併症とその治療・予防、出生から老齢になるまでに直面する問題などを分かりやすく紹介。命の選別につながるとの指摘がある出生前診断の現状にも触れ、「本当にそのこと(出生前診断)が家族の幸せにつながっていくのかをよく考えてみる必要がある」と問題提起している。

 四六判、276ページ。2310円。


ダウン症患者の家族の手記、提言などを本にまとめ出版した近藤さん=諫早市、みさかえの園むつみの家

長崎新聞

特集ワイド:「アオギリの語り部」沼田鈴子さんの死が問うもの 核と人は共存できない

2011年08月04日 02時31分24秒 | 障害者の自立
 松葉づえで1本の足を支え、ヒロシマを語り続けた被爆者の沼田鈴子さんが亡くなった。享年87。被爆66年を迎える今夏の広島原爆の日に「今こそ脱原発を」と訴えるつもりで、集会への参加を呼びかけるメッセージを生前に書いていた。沼田さんの死が問いかける夏を記したい。【広岩近広】

 ◇被爆66年の夏に--
 沼田さんは還暦を前にして、ヒロシマの語り部になった。原爆記録映画「にんげんをかえせ」に登場したとき、既に証言活動をしていた保育園の女性理事長から諭された。「このフィルムは原爆を受けた証しです。あなたには大切な使命がありますよ」。それまで被爆時の記憶は封印し、着物で義足を隠してきたが、被爆者であり、障害者である自身をさらけ出す覚悟を決めた。このとき短大の家政科講師を退職し、母親をみとっていた。父親は既に他界し、1歳下の同じ被爆者の妹が家事を担った。

 沼田さんは反戦・反核と障害者の立場から反差別を語り続けた。編み物や生け花など多彩な趣味を一切捨て、私財を投じた一筋の半生である。

 6年前に広島市南区の介護付き老人ホームに入った。ここから車椅子で平和記念公園に出て証言活動を続けた。少人数の場合、自室で被爆体験を話した。被爆66年の今年も沼田さんの活動予定は埋まっていた。

 そこに東京電力福島第1原子力発電所の大事故が起きた。敷地内の土壌から、原子炉のメルトダウン(炉心溶融)を推量させる放射性物質のプルトニウムの検出が報じられると、沼田さんはショックのあまり眠れない日が続いた。心拍数は高まり、とうとう食事ができなくなった。

 6月1日、広島市内の病院に搬送される。しかし、容体が回復することはなく、力尽きた沼田さんは7月12日朝、心不全で永眠した。

 ところで沼田さんは入院する前に、「核兵器・原発をなくそう」を機軸にした市民団体による「被爆66周年 8・6ヒロシマのつどい」の呼びかけ人の一人として、パンフレットに寄せている。

 <今年は被爆66年ですが、今は本当に平和とは言えません。「原発がいつか爆発するのでは……」と私はずっと心配してきました。においも形もないが、残留放射能がどんなにおそろしいものかしっかり知ってほしいと思います! 核兵器廃絶は口先だけの軽い運動ではありません。命にかかわること、いついかなるときに起こるかわからないことを自覚してほしいと思います。被爆国である日本だからこそ、「核施設のような原発はいらない!」と声をあげていくべきではないでしょうか>(要旨)

      ■

 沼田さんが原発の安全性に疑いの目を向けたのは、1986年4月に起きた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故だった。被爆地・広島から支援の声が上がり、沼田さんは市民団体「ジュノーの会」に入会した。スイス人医師のマルセル・ジュノーは原爆で苦しんでいる広島を救援するため医薬品を携えて45年9月に駆けつけたことで知られる。

 「ジュノーの会」の支援活動は「ヒロシマの医師をチェルノブイリへ・チェルノブイリの子どもたちをヒロシマへ」を柱に、募金による相互交流を進めて成果を上げた。異国の放射線被害者に心を痛めた沼田さんは、チェルノブイリ医療に携わる医師団に自らの体験を伝えている。

 被爆直後に生理でもないのに出血が続いた。79年には子宮と卵巣の摘出手術を受けた。原爆の後(こう)障害に苦しめられた体験を初めて明かし、若い女性は生理について話しづらいと思うので留意してほしいと頼んだ。医師の一人からチェルノブイリでも同じ症例があったと聞くと、ちゃんと確認してくれていたと心の底から安堵(あんど)していた。内部被ばくの怖さを知り尽くしていた沼田さんらしい。

 「核の平和利用」と鼓吹された原発で、放射線の被害者が出ている事実を、沼田さんは厳しく見据える。原発はプルトニウムを生産するのだから、核兵器の原料を作る装置ではないかと考えるようになった。放射線の脅威は核兵器だけでなく、核エネルギーにも潜んでいると、被爆者の目は冷徹だった。

 旧ソ連の大統領だったゴルバチョフ夫妻が92年4月に広島を訪問したとき、沼田さんは被爆者を代表して体験を述べた。このあとゴルバチョフ氏に語りかける。

 「チェルノブイリ原発事故による被害者の放射線後障害が広がっています。この実情を私ども被爆者は大変心配しています。このような恐ろしいことのなかで生きてゆく子どもたちの未来はどうなるのでしょう」

 さらに沼田さんは、哲学者で広島大名誉教授だった故森滝市郎氏の言葉をゴルバチョフ氏に突きつけた。「核と人類は共存できません」。沼田さんは森滝氏の言葉を心に深く刻んでいたのだった。

      ■

 沼田さんの生涯は整形外科病棟への入退院の繰り返しでもあった。「左大腿(だいたい)切断後不良断端」「両手根管開放術」「左手拇指腱鞘(ぼしけんしょう)切開」「変形性頸椎(けいつい)症」「変形性腰椎症」。カルテの一部が、壮絶な日々を物語っている。

 やがて松葉づえを使えるだけの筋力がなくなり、12年前から車椅子に切り替えた。それでも証言活動への意欲は衰えず、むしろ強まり、体力と時間と闘っていた。

 被爆60年を過ぎてから、よく口にしていた。「100歳まで生きるからね。原爆で死んで天国にいる人たちが、まだこちらに来るのは早い、生かされたのだから、核兵器のなくなるまで話し続けなさいって言うのよ」

 このあと、ふふふっと笑ったものだ。元来はユーモアの人である。この気力があるかぎり沼田さんは100歳まで生きられる。老人ホームを訪れる人は信じていた。

 しかし福島第1原発事故は沼田さんを死のふちに突き落とした。沼田さんのなかでは、核兵器と核エネルギーは表裏一体だったので、フクシマ・ショックは想像して余りある。

 沼田さんがメッセージを寄せた「8・6ヒロシマのつどい実行委員会」の追悼文にこうある。<沼田さんの遺志を引き継ぎ、来る66年目の8・6を「反原発・反基地・戦争反対・福島の子どもたちを守れ!」と世界に発信する、歴史的な日にしていきたいと思います>

 被災地を案じていた沼田さんは今、東北の空の上にいるだろう。この地球に「廃核」の日が訪れるまで、沼田鈴子さんは天上から語りかけてくれるにちがいない。

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 ■人物略歴

 ◇ぬまた・すずこ
 1923年大阪市生まれ。5歳のときに家族で広島市に転居する。爆心地から約1・3キロの旧広島逓信局で被爆、がれきの下敷きになり左太ももから下を切断する。証言活動を始めると、原爆に焼かれながら芽吹いた広島平和記念公園の被爆アオギリを分身に見立て、一時は年間180校の修学旅行生に被爆体験を語った。「アオギリの語り部」と呼ばれた。民間の平和大使として21カ国を訪れている。

毎日新聞 2011年8月3日 東京夕刊


車椅子でヤーヤドー バリアフリーねぷた/弘前

2011年08月04日 02時29分10秒 | 障害者の自立
 弘前ねぷたまつりで2日、障害者が車椅子で参加する「バリアフリーねぷた弘前やーやどー会」が、弘前市職員福利厚生会のねぷたに加わり、初陣を飾った。そろいの法被やTシャツを着た参加者たちは、沿道から拍手で迎えられ、手を振り返すなどして交流。「参加して良かった。また来年も参加したい」と、祭りを満喫した。
 バリアフリーねぷたは弘前市社会福祉協議会が主催。県社会福祉協議会の「祭りを通じた高齢者・障がい者等の社会参加支援事業」を活用し、青森ねぶた祭の「ケア付き青森ねぶた“じょっぱり隊”」を参考に、祭りを通して障害者や高齢者の社会参加を促し、地域にノーマライゼーションの理念を普及する試み。この日は県内の14人だけでなく、神奈川県や大阪府からの8人を合わせた22人が参加。ボランティアやスタッフは約50人態勢で、1人の参加者に対し、1人以上のボランティアが付くきめ細かな対応をした。
 市立観光館前で行われた出陣式では、市社協の三上弘文会長が「交流を深めて体験による楽しみを味わって」とあいさつ。ボランティアは弘前さくらまつりで活躍する「車椅子応援隊」が主体で、培った車椅子操作と話術で早速打ち解け、和気あいあいと出発した。
 青森のケア付きねぶたに16年前から毎年参加している川崎市の澤淑子さん(76)は関西出身で本県にゆかりはないが「夏になれば“帰ってくる”」というほどの青森ファン。ただ弘前は今回が初めての訪問といい、街並みを楽しみながら、沿道の市民らに手を振るなどし「今まで来られなかったのが残念。ボランティアも一生懸命で、これからも成長すると思う。また来たい」と笑顔を見せた。
 板柳町から車椅子を利用する息子を連れて参加した長谷川輝明さん(60)は「車椅子で参加できるイベントは県内で少ないから」と話し「手を振り返したり、掛け声を出したり楽しんでいる。連れてきて良かった。来年もぜひ参加したい」と顔をほころばせ「これを機に地元でもっとバリアフリーが広まってほしい」と期待した。
 4日は五所川原立佞武多でも同様の取り組みが行われる。

陸奥新報