ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

なら犯罪被害者支援センター副理事長 島本 郁子さん

2011年08月15日 01時41分15秒 | 障害者の自立
 今年10周年を迎えた「なら犯罪被害者支援センター」。副理事長の島本郁子さんは、長年にわたって犯罪被害者の支援に関わってきた。活動の原点は、産婦人科医としての経験にあるという。被害者に対する社会の無関心や無知をただそうと、奔走し続けたエネルギーの源は何か。島本さんに聞いた。

 Q 産婦人科医をされていますが、医師を志すきっかけは。

 実家が祖父の代からの産婦人科医だったのもありますが、幼少期に体験した戦争の影響が大きいです。父が軍医として召集されたため、戦時中は母の実家がある大和郡山に住んでました。

 住んでいた街は空襲に遭いませんでしたが、大阪から焼け出された人たちが、着の身着のままで避難してきました。そのあまりに気の毒な姿を見て、「お金やモノは残らない。最後に残るのは身に着けた技術だけ」と悟りました。産婦人科医になったのは、女の私なら女性の悩みを聞くこともできると思いました。

 Q 犯罪被害者の支援に関わるようになったのは?

 1979年から勤めていた県立医大の外来は、公立病院ということもあり、県警が捜査する性犯罪被害者の多くを診察しました。その中で、被害者に対する社会の無知や無関心に気付いたんです。

 当時は被害者に対する公的援助はありませんでした。警察官が被害者を診察してくれる病院を一晩中歩いて探したり、犯行時に金銭を奪われた被害者のため、捜査員が診察費を立て替えたりすることも頻繁にありました。

 「こんなのは、絶対におかしい」と2001年、仲間の法律家や医師、自治体の担当者の力を借りて「なら犯罪被害者支援センター」を作り、無料で受診できる産婦人科の整備を含め、被害者の回復を助ける環境づくりに取り組みました。被害者から電話で相談を受けたり、裁判に付き添いサポートをしたり。小さな事務所で始めた活動でしたが、周囲の協力で現在、スタッフ約70人の組織に発展しました。

 Q 今後の目標は。

 05年、県立医大に女性専用の外来を作り、更年期障害や家庭の問題からうつ症状になった女性の相談に応じています。カウンセリングの方法を身に着けようと、最新の精神医学について70歳から学び直し、今では、奈良大で講義を受け持つほどになりました。継続は力、技術は最後まで残る。これからも、女性の健康を守るための勉強を続けます。

 【取材後記】

 島本さんとお会いして、その若々しいたたずまいが印象的でした。柔和な笑顔にピンと伸びた背筋。明るい青色のワンピースがとても似合ってました。一方で、話題が犯罪のことに及ぶと、「あまりにも理不尽な現実を、変えていきたい」と力強いまなざしで語りました。被害者に寄り添い、見えてきた不条理な社会に向けた「怒り」を原動力に、情熱を燃やすこと。それが島本さんの原点なのだと感じました。

 しまもと・いくこ 大和郡山市出身。1965年に県立医大大学院を卒業し、大阪大微生物研究所助手や米・テキサス州立大産婦人科学客員教授を経て、79年、県立医大産婦人科学助教授、96年に同大看護短期大教授。2001年に、なら犯罪被害者支援センター運営委員となり、09年から同副理事長。

(2011年8月14日 読売新聞)

登別アマチュア無線クラブが災害時に情報を受発信

2011年08月15日 01時38分27秒 | 障害者の自立
 登別アマチュア無線クラブ(石利仍会長)は、登別市札内町に無線基地を開設した。災害時には情報を受発信する拠点として活用するほか、他のクラブにも貸し出すなど、無線を通じて地域へ協力していく方針だ。

 基地は同町にある「サンチャイルド」の敷地を借用し、建物部分は4トントラックのコンテナ部分を改造した。警備上の観点から、交信に必要な機材は基地を利用するときに持ち込む方式としている。

 海が見える高台に位置し、電波の障害となるものがないため「電話よりよく聞こえる」(石会長)のが特徴。6日の開設初日はメンバーが泊まり込み、東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方の仲間と交信し、交流を深めながら犠牲者の冥福と早期復興を祈った。

 石会長は「普段は会の拠点施設として使い、有事の際は情報の受発信に当たりたい。地域のために使っていきたいので、胆振地方にこのような場所があることを知ってもらえれば。各地の無線クラブで利用したい人がいればお貸しします」と話している。

 利用に関する問い合わせはシステム通信(電話0143・86局6760番)へ。

室蘭民報

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2011年08月15日 01時36分08秒 | 障害者の自立
 神奈川県警中原署が7月、川崎市中原区で起きた交通事故の現場で、当事者の聴覚障害者の女性(48)が手話通訳の派遣を要請したのに受け入れず、実況見分を行っていたことが13日分かった。

 手話通訳の派遣は県警の制度にもあり、女性は同署に抗議文を提出。同署は「配慮に欠けていた」と謝罪した。

 同署などによると、事故は7月11日午後、同区の県道で発生し、女性の乗用車に対向車線からはみ出した同市高津区の男性(71)の車が衝突。女性は聴覚障害者向けの「メール110番」で通報した際、手話通訳を要請し、駆け付けた同署員3人にも筆談で求めたが、派遣してもらえなかったという。事故は物損事故として処理された。

 県警は2008年、事故現場などに手話通訳を派遣する制度を設けたが、現場にいた署員は制度を知らなかったという。

 対応に不満を持った女性は、同市ろう者協会に相談し、同署を訪れて対応の経緯を説明。その後、女性が首などに軽傷を負っていたことが分かり、同署は同27日に、人身事故として再度、手話通訳を交えて実況見分し、男性を自動車運転過失傷害容疑で横浜地検川崎支部に書類送検した。

 今月12日、女性と同協会の理事長らは同署に対し、事実経過の説明や手話通訳制度の周知を求める抗議文を提出した。女性は「現場では、自分が説明しようとすると警察官に威圧的な態度を取られた。二度と同じことが起きないようにしてほしい」と話している。

(2011年8月14日20時47分 読売新聞)

京都平野百景:行橋、みやこの風物描く 脳出血後遺症抱える後藤さん、挑戦中 /福岡

2011年08月15日 01時33分56秒 | 障害者の自立
 ◇23日から中間報告展--苅田町立図書館とギャラリーみちくさ
 脳出血の後遺症を抱える小倉南区の元茶販売店経営、後藤秀紀さん(61)が、機能が残る右手を使って行橋市、京都郡の100カ所の風物を描く「京都平野百景」に挑戦している。23~30日には苅田町立図書館と同町京町のギャラリーみちくさで中間報告展「みやこ平野を描く」を開く。

 後藤さんは旧黒木町(現八女市)出身。中学・高校で美術部に所属し、行橋市の茶販売店に就職後も美術サークルで絵を楽しんだ。

 しかし56歳だった06年6月、車を運転中に脳出血を発症。命は取り留めたが左半身のまひなど後遺症が残った。落ち込んでいた時、医師からリハビリを兼ねて絵を描くことを勧められた。「絵を描く気分ではなかったが、描いてみたらやっぱり楽しくて……。右手が残ったことへの感謝が込み上げた」と話す。

 4カ月後に退院し、バスや電車でスケッチハイクに出かけ、書きためた作品で09年8月、行橋市で初の個展を開いた際、知人から京都平野百景挑戦を勧められたという。

 英彦山のふもとから周防灘に向けて広がる京都地域。描くのは山川の自然や祇園、山笠など四季の風物詩から商店街の表情に至るまでさまざま。仕事を失い、障害者年金で生計を立てながら描き続け、2年間で73点を完成させた。

 新たな生きがいを見つけた後藤さんは「絵がなかったら絶望したまま家に引きこもっていた。百景が完成したら絵はがきにして、自然や史跡に恵まれた京都地域をPRしたい」と話している。

〔京築版〕毎日新聞 2011年8月14日 地方版




車いす小6、ご来光感激…17人の手で富士登頂

2011年08月15日 01時32分15秒 | 障害者の自立
 ガンの影響で生まれてすぐに脊椎の一部を摘出したため、車いす生活を送る大阪市天王寺区、小学6年安達敏音(はやと)君(11)が11日午前4時52分、車いすに乗ったまま富士山頂に到達した。

 ご来光に感激した敏音君は「あきらめなければ、目標の達成に障害は関係ない。将来は車いすに乗ったまま世界を一周したい」と夢を語った。

 敏音君が乗る車いすは、軽量化して容易に持ち上げられる前輪に、左右2つずつの後輪を配したアウトドア仕様。父で会社員の武敏さん(40)やNPO法人のスタッフら計17人の手を借りて2日がかりで登頂した。

 登山は、車いすの前輪に結びつけたロープを引っぱって後輪を転がし、座ったままの敏音君を引き上げるという気の遠くなる作業。タイヤが石を踏むたびに車いすが左右に大きく揺れ、バランスを崩して転倒しそうになることも。スタッフから「隊長」と呼ばれる敏音君がタイミング良く「がんばれ」と声をかけると、「おーう」と威勢のいい声が登山道にこだました。

 この登山を企画したのは、京都市のNPO法人「ユニバーサルフィールドインターナショナル」(小泉二郎代表理事)。「障害者やその家族は、挑戦すればできるかもしれないのに、障害者ができる範囲を無意識のうちに狭めて考えてしまうことが多い」(小泉代表理事)との考えで、2009年から毎年、車いす登山の手助けをしている。この活動をテレビのニュースで知った敏音君が「自分もやりたい」と志願した。

 一行は10日朝に富士宮口5合目を出発し、9合目の山小屋で宿泊。満天の星々が輝く11日午前3時、山小屋を出発した。

 山頂に到着すると、スタッフの目には光るものが。車いす登山は今年で3回目だが、09年は悪天候で登頂を断念、10年は登頂できたものの、荒天でご来光は拝めなかったという。小泉代表理事は「あきらめずに頑張ったからできたこと」と感無量の様子だった。

 敏音君は「こんなにきれいなご来光をプレゼントしてもらいうれしい。みんなのお陰」と笑顔を見せ、武敏さんは「敏音とスタッフの笑顔を見ていると、障害が絆を生むこともあると感じた。これからもどんどん挑戦してほしい」と感激していた。

(2011年8月14日19時12分 読売新聞)