ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

台風「早く過ぎて」雨横殴り 各地で浸水

2011年08月07日 01時45分48秒 | 障害者の自立
 30時間以上にわたり本島全域を暴風域に巻き込む台風9号は5日夜、猛烈な風と横殴りの雨で、県内各地に大きな被害をもらたしている。長引く停電や通信障害、浸水被害のほか、交通機関は完全にまひし、県民生活を直撃。けが人も多数出ているほか、浸水や土砂崩れなどの不安から自主避難した世帯も。吹き荒れる風の音と消防車のサイレンが各地で鳴り響いた。本島が暴風域から抜けるのは6日明け方の見通しで、ノロノロ台風の被害拡大が心配されている。

■道路冠水

 沖縄市泡瀬では満潮時の午後10時20分すぎから、マックスバリュ泡瀬店前などで道路が冠水した。6日午前0時現在、床上浸水の可能性もあるとして消防署員らが警戒にあたっている。北中城村の渡口交差点から同市の県総合運動公園にかけて道路冠水で、車数台が立ち往生している。

 沖縄市役所には8世帯12人が自主避難した(午後9時現在)。沖縄市知花の男性(85)は夫婦で避難、「比謝川下流近くに住んでいるので川のはんらんが怖かった。今回の台風はあきれるほど時間が長い。早く過ぎてほしい」と疲れた表情を見せた。

 宜野湾市役所では、高さ約2メートルのブロック塀上部が崩れた。読谷村高志保の集合住宅の駐車場では敷地内のガジュマルが倒木し、車3台が下敷きになった。

■信号消え

 那覇市内では午前5時ごろから県庁北口交差点の信号機が約5時間にわたり消えて作動せず、警察官が手信号で車を誘導した。普段は観光客でにぎわう国際通りは、商店や飲食店が軒並み閉店。強風でシャッターが激しく揺れた。

 那覇市牧志の「島唄居酒屋きらら」は、年中無休がうたい文句だが「これだけひどい台風だと、営業は難しい」と閉店。店長の西信行さん(39)は「客層の9割以上を占める観光客も訪れない。かきいれ時の週末は天候が回復してほしい」と願っていた。

■野菜被害

 糸満市では、台風2号で倒壊した平張りハウスを建て直したばかりの島袋輝雄さん(47)が「今回の台風は長すぎる。露地栽培の夏野菜は壊滅的な被害を受けるかも」と不安をあらわにした。

 南城市内の海岸沿いでは高潮による浸水を警戒し消防隊員らが巡視。同市玉城の奥武島では午前10時半ごろ、海水が漁港の岸壁を乗り越えた。与那原町板良敷の海岸でも大波が打ち寄せ道路へと流れ込んだ。

■屋根飛ぶ

 沖縄本島北部地域では強風で家屋の屋根が吹き飛ばされたり、窓ガラスが割れる被害が出た。降り続く雨で道路冠水、土砂崩れも相次いだ。

 名護市許田では土砂崩れで赤嶺常康さん(77)らが近くの公民館に避難。「木の倒れた方向が悪ければ家ごとつぶれていた。運がよかった」と安堵(あんど)していた。

■76人避難

 県警や県などによると、台風9号による影響で、6日午前1時現在、29人が重軽傷を負った。名護市や宜野座村などで、建物の窓ガラスが割れたりトタンがはがれるなどの一部損壊は13件、沖縄市桃原の民家で床上浸水があった。同日午後9時現在、県内17市町村で40世帯76人が自主避難した。各地の道路で通行止めなどがあった。

 南城市佐敷では5日午前4時ごろ、新聞配達員の男性(73)が強風にあおられ転倒し右足大腿(だいたい)部を骨折。うるま市石川では同日午後3時すぎ、買い物に出た女性(72)が強風にあおられて転び、右足首を骨折するなど男女計6人が重傷。23人が打撲や擦過傷などの軽傷を負った。

 沖縄自動車道の全線と那覇空港自動車道の西原JCT―南風原北IC間で終日通行止めとなったほか、県内21カ所の県道や市道などが通行止めとなった。同規制は、暴風警報解除などを受け、道路管理者が解除を判断する。

 一方、停電や漏電などの影響で、県内各地の26カ所の信号機が消えた。中城村奥間で信号機が落下、那覇市や浦添市、中城村など3市1村で信号機の脱落や電球が切れる被害が出た。

沖縄タイムス

轍の叫び:交通事故の現場から/5 車椅子ではねられ、搬送2時間半 /埼玉

2011年08月07日 01時39分52秒 | 障害者の自立
 ◇轍(わだち)の叫び 目指そう安全、快適

 ◇妹の死、無駄にしないで

 さいたま市で6月、車椅子に乗っていた星野美穂さん(当時38歳)が乗用車にはねられ、死亡した。救急車が現場に到着したものの、延べ11病院に受け入れを拒まれた結果、搬送されるまで2時間半がかかった。「搬送が早ければ死なずに済んだのではないか」。遺族はやり場のない怒りを抱えている。【飼手勇介】

 星野さんは6月29日午後10時15分ごろ、同市南区の市道を車椅子で横断中、男性(73)の乗用車にはねられた。兄正樹さん(41)に救急隊から電話が入ったのはその直後だった。「『命に別条はない。お尻が痛いと話している』とのことだった」

 それからも何度か、搬送先の病院が決まらないとの電話があったが、「軽傷と思いあまり心配はしていなかった」。やっと決まった病院に駆けつけると「検査中」と待たされ、朝方になって突然「心肺停止状態で運ばれて意識不明です」と告げられた。

 「どうしたらいいか分からず、妹の手を握り、名前を呼び、ただ泣き続けました」。翌日午後2時8分、骨盤骨折による出血性ショックで亡くなった。

 「幼いころの事故で車椅子になったが、健常者以上に行動的で物おじしない性格。おまけに話し好き。バスでも電車でも乗ってどこにでも出かけていた」

 兄と妹の2人暮らし。家計は正樹さんのトラック運転手の給料でまかない、星野さんの老後に備えて障害年金には1円も手を付けずに貯金してきた。

 「妹の将来を何とかしないといけない。思えばそれが生きがいだった。今は何もする気にならない」

 事故現場で何があったのか--。

 さいたま市消防局によると、星野さんは頭と腰を負傷していたため、救急隊が搬送する病院を探したが、「脳外科と整形外科の一方の専門医しかいない」などを理由に延べ11病院から受け入れを拒まれたという。

 正樹さんは、怒りのやり場が見つからない。「救急隊員は一生懸命やってくれたし、病院だって専門医がいないのに受け入れたら、今の時代は何でも訴訟にされる。リスクを負いたくない気持ちは分かる。運が悪かったと思うしかないのか……」

 市消防局は7月、「収容先を迅速に決める体制が不十分だった」などとする検証結果を公表。再発防止策として、現場の救急隊員だけでなく同局の指令課も連携して搬送先を探すことや、まずは医師による診察のみを受け、別の搬送先を探す仕組みを強化する方針を示した。昨年の救急搬送者4万4638人のうち5回以上医療機関に受け入れを断られた人数は1836人。

 「5年、10年かかってもいい。妹の死が無駄にならないように、少しでも(医療・救急)体制を整えてほしい。妹が生まれ変わった時にまた同じ目に遭わないように」

毎日新聞 2011年8月6日 地方版


66年目のヒバク:/下 県被団協会長・中村明さん(80)宇都宮市 /栃木

2011年08月07日 01時35分06秒 | 障害者の自立
 ◇正当な評価の調査急いで 「いつか症状が出てきた時、仕打ちを繰り返すな」

 県原爆被害者協議会(県被団協)会長の中村明さん(80)=宇都宮市=は、一昨年、原因不明の眼底出血におそわれた。視力のほとんどを失い、文字を書いたり読んだりすることすらできない。

 14歳のとき、爆心地から1・2キロの勤務先、長崎市内の三菱製鋼所で被爆した。医師の診断は「原爆との関連は否定できない」。昨年6月、国に原爆症認定申請をしたが、12月に却下処分となった。

 原爆症認定をめぐっては、集団訴訟などで国の放射線の影響に対する調査不足や、過小評価を指摘する判決が下され、見直しが進んでいる。

 中村さんも自身の却下処分には納得がいかない。会の中にも却下処分を受けたり、申請自体をためらう人が多いことを知っている。「放射線の影響はまだ解明されていない部分が多い。だからといって切り捨てるのか。国には償いをしてほしいのです」

 県被団協では、昨秋、会長だった諏訪巌さん(当時84歳)、副会長だった鈴木定夫さん(当時83歳)が相次いで亡くなった。高齢化により、被爆者は減り続けている。当時、県被団協で被爆者の役員は10人。一度に2人も失い、解散の危機に追い込まれた。

 視力を失い、生きる気力を失っていた中村さん。しかし、「被爆者を守る人がいなくなってしまう」と、会長を引き受けた。

 中村さんは原爆により、30トンクレーンの下敷きになり、右の大腿(だいたい)骨を骨折。意識不明で担架に乗せられたまま、防空壕(ごう)にも入れず、15日ほどを野外で過ごしたという。急性障害で体中に斑点ができ、歯茎から血を垂れ流したことからも、大量の放射線を浴びたことは間違いない。

 被爆から約2カ月後、海軍病院を訪れたときには、すでに足は手術できない状態だった。両足の長さが違うため歩行障害があり、今も腰に痛みが残る。が、これも原爆症とは認められない。

 国の冷たい扱いを受け続けた被爆者たち。仲間たちの姿に、十分な手助けを受けていない福島第1原発事故の避難者らの現状が重なって見える。

 「福島でも、これから何十年先、疑わしい症状が出てくるかもしれない。その時、国は被爆者にしたような仕打ちを繰り返してはならない」。新たな「ヒバクシャ」たちの未来のためにも、広島・長崎の被爆者を正当に評価するための調査を急いでほしいと訴えている。

毎日新聞 2011年8月6日 地方版


西田隆維のマラソン見聞録 第7話「無駄のない走り方」

2011年08月07日 01時26分34秒 | 障害者の自立
 今の季節、天気予報を見ていて必ず出てくるのが「熱中症情報」。最近では気温35度を超える日は、「運動を控える」という警報が気象庁から発令されるほど、身近な症例になっている。

 ところが、市民ランナーはというと「夏こそ走り込みの季節」とばかり、気温30度を超える炎天下の中でも汗だくになり、激走している。
 果たしてそれは正しいのであろうか--。

 熱中症を例えにするならば、確かに猛暑の中、気分を害して倒れるケースはままある。が、夏を越し、ようやく涼しく、凌ぎ易い季節になった時、夏の疲れが出て昏倒。死に至らしめるケースも起こるものだ。
 要はこの暑い時期、無理して走ったところで、いつかはその“ツケ”が現れる。それが市民ランナーにとってオンシーズンである秋から冬にかけて現れたら、彼らはどうするのであろうか。間違いなく、「疲労」という認識は無く「調子が悪い」と考え、さらにキツイ練習を課すだろう。結果、故障につながり、今シーズン棒にする…。

 ランニング雑誌や(市民ランナーを指導する)ランニングクラブが、根拠のない夏の走り込みを推奨するばかりに、その影響を受けた市民ランナーが勘違いして「無駄な激走」を好んで実践するようになったと感じる。
 7~8月の時期、ランニング雑誌、ランニングクラブの合言葉は「合宿」。実業団選手が6月頃から9月若しくは10月頃まで長期遠征に出る事から、市民ランナーの間でも「夏は合宿」が合言葉になったのかは分からないが、市民ランナーの合宿と実業団のそれとは「天と地ほど異なる」と僕は思う。

 市民ランナーの合宿は「クロスカントリーコースを使って3日で60キロ走破」「朝、昼、夜の3部練習で1日50キロ目標」…このようなメニューだと聞く。僕に言わせれば、「単に漠然と走っているだけ。距離を踏む(走る)事で満足しているマスターベーション」。「指導者は本当に長距離の事を勉強しているのか」と疑いたくなる。

 実業団選手の合宿は選手個々の種目に応じて練習メニューが異なるモノだ。トラック(5000メートル、1万メートル、障害)がメーンの選手は長い距離は走らず、夏の間に開催されているトラック大会にベースを置く練習。マラソン選手は秋、冬の国際大会に向けて夏は土台作り。(1)刺激走(スピード練習)は重要視せず、長い距離をややゆっくりめで走る練習であったり(2)(距離を踏まず)短い距離を速めで走る練習であったり…と、人によって練習方法が違っている。
 僕はというと、夏は全く走れないので大学の時はBかCチームに合流して自分のペースでの調整。社会人時代は、これまでに溜まった疲労を抜き、一度リセットさせる事を主眼に置いて走っていた。

 実業団選手ですら、このように様々な調整をおこなっているというのに、市民ランナーはこれまでと同様(つまり365日同じ練習という事)かそれ以上のキツイ練習を実践している。これでは疲労が溜まるばかりだ。お気の毒にも、詰め込む練習しかしていない市民ランナーはごく稀に「疲労」を感じる(大半の人は前述のとおり「調子が悪い」と思っている)人はいるが、それを「抜く」作業は行わない…いや、「疲労の抜き方が分からない」のである。
 結果、本来状態が上がってくる秋冬シーズンであっても、今一つ記録が付いてこない、という現象に陥る。これは、蓄積疲労が原因なのだが、残念なことに指導者が原因を理解していない事が多く、ランナーはオーバーワークになり、最悪は潰れてしまう…。

 ランニング雑誌やランニングクラブは読者、会員が金銭を払って購読若しくは参加するので、夏の猛暑時であっても「走り」を目玉に持ってくるのであろう。
 だが、これはおかしい。夏は市民ランナーにとって休養の時期。「夏をしっかり休んだ人が秋にベストパフォーマンスが出来る」を前面に掲げる雑誌、クラブが“本物の”市民ランナー育成につながるのではなかろうか。

 僕の1つ先輩・藤田敦史さんは今年2月に『別府大分毎日マラソン』を2時間12分26秒で完走した後、十分休養し、7月の『札幌国際ハーフマラソン』に挑んだ。記録は1時間5分13秒という平凡なものであったが、敦史さんの大会参加課題は「マラソン後、十分な休養が取れていたかどうかの確認」。マラソンから4カ月も経ったのに、である。
 あくまで私見だが、1時間5分台の記録であると、「まだ疲れが抜けきっていなかったな。後、1週間休養してもよかったかも」と思った。当然、敦史さんも省みている筈だ。
 人は加齢と共に疲労回復には日数を要す様になる。敦史さんは、その事を把握し、今夏は秋、冬シーズンに向けて最高のパフォーマンスを披露出来る様、調整に余念がないだろう。

 「無駄のない走り方」--ベストパフォーマンスをするには至極当たり前の事だが、多くのランナーと指導者がその当たり前のことに気づいていない。何とも嘆かわしい話である。

写真:09年、現役を辞めた直後(横の女性は北川弘美さん 雑誌「エンジョイランニングVOL.1」より)

<プロフィール>
西田隆維【にしだ たかゆき】1977年4月26日生 180センチ 60.5キロ
陸上超距離選手として駒澤大→エスビー食品→JALグランドサービスで活躍。駒大時代は4年連続「箱根駅伝」に出場、4年時の00年には9区で区間新を樹立。駒大初優勝に大きく貢献する。01年、別府大分毎日マラソンで優勝、同年開催された『エドモントン世界陸上』日本代表に選出される(結果は9位)。09年2月、現役を引退、俳優に転向する。

リアルライブ

有森さんピースラン熱走

2011年08月07日 01時24分39秒 | 障害者の自立
 広島―長崎間の440キロを走るピースランが6日、広島市中区の原爆ドーム前を出発した。岡山市北区出身でバルセロナ五輪女子マラソン銀メダリストの有森裕子さん(44)が第1走者を務め、平和の尊さをアピールした。

 午前7時、有森さんはハンドサイクル(手こぎ自転車)に乗った障害者アスリートの永野明さん(36)=東京都=と勢いよくスタート。沿道の声援に手を振って応えながら、平和大通りを通って佐伯区隅の浜まで約12キロを1時間半かけて走った。たすきは東区出身の歌手玉城ちはるさん(31)が引き継いだ。

 有森さんは「広島の原爆の日を忘れたことはない。広島の地で走る姿を見てもらい、一緒に平和を考えてもらえたらうれしい」と話していた。


【写真説明】原爆ドーム前を出発する有森さん(手前左)と永野さん(同右)

中国新聞