ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

障害者五輪水泳応援Tシャツ 代表チーム監督作る

2012年07月20日 02時29分31秒 | 障害者の自立
 ロンドンパラリンピック(8月29日~9月9日)に出場する水泳の日本代表チームの寺田雅裕監督(48)(神戸市立工業高専教授)が、チームの応援Tシャツを作った。インターネットで販売し、収益金を選手の活動資金に充てる。

 寺田監督によると、パラリンピックの選手はスポンサーが見つからず、活動資金に苦しむケースが多い。海外遠征や合宿など活動費はほとんど自己負担で、多い選手は年間150万円以上を出費しているという。

 応援Tシャツを製作するのはアテネ以来3回目で、今回は選手の活躍と東日本大震災被災地の復興を祈って「夢はまっすぐ ともに前へ!」とプリントした。1枚2000円で、寺田監督は「選手を世界に送り出す1枚になれば」と支援を呼びかけている。問い合わせは、制作元のカッティング工房やっち(078・582・5725)。


寺田監督(右)が発案したパラリンピック水泳日本代表の応援Tシャツ(神戸市中央区で)

(2012年7月19日 読売新聞)

照葉輝く~綾ユネスコエコパーク

2012年07月20日 01時54分50秒 | 障害者の自立
■ブランド確立に期待

 「綾からですか。おめでとうございます」。綾町南俣の障害者通所福祉施設「あや作業所」で管理責任者を務める松本和子さん(64)は、宮崎市のデパートで無農薬栽培のハーブティーの販売中に声を掛けられた。国連教育科学文化機関(ユネスコ)のユネスコエコパーク(生物圏保存地域)登録が決まってから3日後。「早速認知度が上がったと実感した」と喜ぶ。

 エコパーク登録により、綾町が取り組んできた自然と共生する活動に弾みがつく。町は現在、野菜が対象となっている有機農業の認証制度とは別に、農畜産物や加工品、工芸品の統一ブランドを確立するための組織づくりに入っている。ロゴマークもできる予定で「自然の下で商品を作っているというアピールポイントになるのでは」と松本さんは期待を寄せる。

  ◇     ◇

 屋久島(鹿児島県)など国内4カ所の32年前のエコパーク登録は政府主導で行われ、地元への周知や体制づくりが十分とは言い難い。綾町は海外のエコパークの先進事例を学び、国内でのフロントランナーを目指す。

 ドイツのエコパーク「レーンBR」は、制度の運営会社が商品を審査して品質を保証する活動で知られる。ロゴマークを使って地域の生産物をブランド化。年間90~2160ユーロの使用料が掛かるものの、醸造所やパン屋など203事業所が参加するまでに成長した。

 「会社は品質審査だけでなく、物産展や料理大会を開き積極的にブランド価値を高め、地域振興の核となっている。多くのアイデアが出るようボトムアップの組織づくりに力を入れている」と、日本MAB(人間と生物圏)計画委員会副委員長で横浜国立大の酒井暁子准教授(植物生態学)は評価する。

  ◇     ◇

 観光客増加も期待できるが、自然保護と背中合わせの側面がある。縄文杉などで有名な屋久島では、観光客による自然破壊が問題になっている。

 日本山岳会自然保護委員会の山川陽一さん(73)は「土壌の踏み荒らしやトイレ不足など明らかにオーバーユース(使い過ぎ)の状態」と指摘。「経済が観光に依存すると、後からのルール作りは困難になる。綾町は、今のうちから問題が発生した場合に備えて準備してほしい」と呼び掛ける。

 エコパークの経済効果を受けつつ、自然を守り続けるにはどうすればいいのか。環境政策が専門の東京大の田中俊徳特任助教はこう訴える。「価値を保存する世界遺産と異なり、エコパークには価値を創造するという概念がある。地域性にあった制度や組織づくりを住民主体で行う必要がある」


【写真】綾手づくりほんものセンターにずらりと並ぶ町内産の野菜。エコパークを生かした綾ブランドの確立が期待される

住民の協力欠かせず



 「生まれた時からそこにある森の価値が認められた」。綾町の上畑自治公民館長、小西俊一さん(57)は、同町を中心とする一帯が国連教育科学文化機関(ユネスコ)のユネスコエコパーク(生物圏保存地域)に登録された喜びをかみしめる。

 1984(昭和59)年、奥山に照葉大吊橋が完成して観光地になったことで、国内最大級の照葉樹林を「すごい所」と実感。以来、大学の調査を手伝ったり、ユネスコ本部も含めた視察の案内をしたりしてきた。

 シイやカシに代表される照葉樹林はかつて西日本一帯に広く分布していた。しかし、生活圏の広がりや戦後の国による拡大造林で、森から種の多様性は奪われていった。

 綾の照葉樹林は、自然林の価値を訴えた前町長の郷田実さん(2000年に死去)が中心となり断固反対したことで伐採を免れた。高度経済成長の時代に、オンリーワンの輝きを磨いていった。「魅力をもっと広めていきたい」。小西さんは意気込む。

  ◇     ◇

 綾地域の取り組みは今後、ユネスコから世界に発信される。そのメリットは大きいが、調査保全活動の責任も強まると、町照葉樹林文化推進専門監の河野耕三さん(64)は気を引き締める。特に、生活と結び付きがあり独自の生態系を持つ里山について、未知の部分が多いという。

 河野さんは1月、町内で里山独自の豊かな生態系が広がる湿地を発見した。ぬかるみに足を取られながら、短時間でタニヘゴなど約10種類もの絶滅危惧種を確認。「本県初確認となる植物も2種類あった。もっと調査しなければ」との思いを強める。

 同町は4月に綾生物多様性協議会を設置。14年度までに保全のための計画を策定する予定だが、里山や中心街を含む町内全域で動植物を調査するには、マンパワーが必要となる。

  ◇     ◇

 日本自然保護協会によると、オーストリアでは、ブドウ畑に自生する希少種のランを、それぞれの農家が調査する活動に取り組む地域がある。賛同する農家はランを調査して個体数をデータ化。分布の状況が広範囲で分かるほか、生産するワインに付加価値を付けている。

 河野さんは、この取り組みについて「住民が調査と保護に参加し、さらにその成果が住民に還元されている」と評価。「綾町でも行政が行っている調査保護活動に、住民の積極的な参加が必要。その先に、真の自然との共生があるはずだ」と力を込める。

   ×   ×

 エコパーク登録の喜びに包まれる綾町。輝きを増す照葉をまちづくりにどう生かせばいいのか探った。(東諸支局長・成田和実)


【写真】1月に発見した湿地を調査する河野耕三さん。里山の調査と保全を訴える=7日午後3時40分、綾町

宮崎日日新聞 - (2012年7月17日付)

「美い舎」が開所/ふれあいの里 障害者の就労を支援

2012年07月20日 01時45分08秒 | 障害者の自立
 社会福祉法人ムサアザ福祉会(池村幸理事長)が運営する「ふれあいの里」に、障害者の就労支援事業所「美(か)い舎」が開所した。定員10人に、利用者は知的障害者6人、発達障害者1人の計7人。開所式には、利用者の家族や行政、福祉事業所の関係者らが出席し、障害者福祉の向上を祈念した。

 美い舎の事業は、「就労継続支援B型」に分類され、職業技能や日常、社会生活に必要な能力を身に付ける訓練を行う。
 美い舎では、野菜の苗や草花を栽培し、培養土も作り販売。利用者には、工賃を支給する。

 開所式で池村理事長(代読)は「利用者と働くことを一緒に考え、本人の夢を実現できる事業所として、機能することを目指す」と式辞を述べた。

 國仲清正市福祉保健部長(代読)と、ふれあいの里親の会の黒島良雄会長が、来賓祝辞。宮古地区手をつなぐ育成会の山里秀夫会長が、乾杯の音頭を取った。


大勢の関係者が集い開所を祝った=18日、ふれあいの里

宮古毎日新聞 - 2012年7月19日(木) 9:09 

犯罪容疑者の貧困指摘も 知的・発達障害テーマに講演会 市川

2012年07月20日 01時37分24秒 | 障害者の自立
 犯罪や非行防止のための「社会を明るくする運動」月間に合わせ、市川市の市文化会館で、知的障害者や発達障害者らへの理解を深める講演会が開かれ、保護司や民生委員ら約150人が参加した。

 障害者や高齢者ら社会的弱者の救済に取り組む弁護士の副島洋明さんが「知的・発達障害者の犯罪の現状と支援はどうなっているか」と題して持論を展開。大阪府で6月に発生した通り魔事件や、2006年に発生した知的障害のあるホームレスによる下関駅舎放火事件などに共通する背景として、容疑者の貧困を指摘した。


知的・発達障害者をテーマに講演する副島弁護士=市川市大和田1の市文化会館

千葉日報 -2012年07月19日 15:07

3日徹夜当たり前のデザイナーが「過労うつ」に精神疾患を抱える生活保護受給者の自立へのジレンマ

2012年07月20日 01時19分39秒 | 障害者の自立
傷病や障害によって働くことができなくなる可能性は、年齢や職業に関係なく、誰にでもある。生活保護受給者の約35%を占める傷病者・障害者の年齢やバックグラウンドは、実にさまざまだ。今回は、精神疾患によって生活保護を受給している35歳の女性の、生活保護受給までの経緯・現在の生活・自立への歩みを紹介する。

希望は、納税者になること

「将来の夢は、人より多く税金を納めることです。今、生活保護のお世話になっている分を、そうやって返したいです。そのためには働ける身体になりたいから、今はしっかり治療をしたい。でも、時間がかかっています。『開き直って、治療に専念していいんだ』 と自分に言い聞かせているんですけど、開き直るのはなかなか難しいです」

 こう語るのは、高野さとみさん(仮名・35歳)だ。細面で、くっきりした目鼻立ちが印象的な高野さんは、大きめの身振り手振りを交え、はきはきした口調で話す。何の予備知識も持たずに出会う人は、「仕事のできそうな聡明で積極的な女性」という印象を受けるだろう。しかし現在の高野さんは、うつ病・パニック障害などの精神疾患を抱えており、生活保護を受給しながら療養生活を送っている。発病のきっかけは、最初の勤務先での過労だった。

 今、高野さんが自分自身に課している課題は、

「昼夜逆転を治すこと」

 である。夜、全く眠れなくても、朝は6時には起きて朝食の支度をはじめる。炊飯器と電子レンジしかない台所で工夫をし、野菜・キノコを中心とし、肉か魚どちらか少しだけを添えた食事を作る。買い物に出かけられるコンディションの時に、「もやし2袋50円」「鶏胸肉100グラム38円」といったものを買い、調理して冷凍しておく。

 朝7時に朝食を食べた後、どうしても眠くなることはあるけれど、なるべく外に出て起き続ける。夜は、日付が変わったら横になる。

 2年ほど前の高野さんは、ほとんど寝たきりのような生活をしていたそうだ。食事らしい食事は摂れず、乾パンとスキムミルクだけで生き延びていたという。現在までの堅実な進歩の延長線上には、年単位の時間はかかっても、きっと生活保護からの自立と納税があるだろう。インタビューしながら、私は確信した。今は、根拠らしい根拠はないけれども。

自立を強く意識していた少女時代
 高野さんは、1977年に四国地方で生まれ、短大卒業までを地元で過ごした。幼少期の記憶に残っているのは「とにかく家にお金がない」ことだという。着るもの・食べるものに不自由するほどではないが、住まいは長屋。

「みんなが持っているものを自分だけ持っていないことは、よくありました。リカちゃん人形とか、ファミコンとか。最初から、おねだりを遠慮しちゃうんですよ」

 父と母は、高野さんが物心ついたときには別居していた。父の母である祖母と母の折り合いが悪く、同じ家に住むことができなかったからだ。その父親も、高野さんが中学1年の時に病死した。

 生活を主に支えていたのは、母親だった。母親は、共働き夫妻の家政婦・保険の外交・クラブの賄いなどの職業を掛け持ちしながら、高野さん姉妹を育てた。高野さんは、

「母には、どれだけ感謝してもしきれないです」

 と言う。

 進学校の高3になった高野さんの夢は、デザイナーになることだった。しかし、大学進学に積極的にはなれなかった。母親に学費を負担させることを考えると、気が重い。わざとセンター試験を受験せず、学費がほとんど不要な地元の職業訓練学校に進学した。

 高野さんは、その学校でデザインやCAD(コンピュータを用いた設計)の基本について学び、卒業後は希望通り、東京・新宿のデザイン事務所に就職した。1998年、就職氷河期のことだった。

熱心で真面目なゆえの「過労うつ」

 デザイン事務所など「クリエイティブ系」の職場の労働条件は、極めて劣悪な場合が多い。

 希望通りに、デザイナーとして広告部門に配属された高野さんは、

「3日徹夜とか、土日出勤とか当たり前なんですよ。平日も、1日14時間労働が当たり前。短い日で12時間くらい」

 という社会人生活をスタートさせた。

 給料は、1年目は手取り月給16万円、ボーナスは年間合計で2.5ヵ月分だったという。残業手当を除くと、手取り年収は230万円ほど。給料は少しずつ上がったが、3年目でも手取り年収は300万円に満たなかった。そんな中で、能力を伸ばして技術を磨こうと、必死で努力していた。

 収入には特に不満を持っていなかった高野さんだが、年々、労働条件は過酷になっていった。不況とDTP化(パソコンを使った出版物制作)の影響が職場を襲い、売上が落ちた。しかし、雑用を含めた仕事の総量は増えるばかりだった。

 そのうちに、心身に変調が現れてきた。打ち合わせで外に出ると、なんとなく会社に戻りたくない。仕事の能率が上がらなくなり、徹夜も増える。高野さんは、眠気覚ましにディバイダーの針で手を刺し、カッターで手を引っ掻いた。さらに、リストカットを繰り返すようになった。

 高野さんは当時について、

「仕事のためなら生活は犠牲にすべきだと思っていたんですけど、一方で、『自分の状態はおかしいんじゃないか』という自覚もありました」

 と語る。

 疲れているのに眠ることもできなくなり、1999年、高野さんはメンタルクリニックに行ってみた。「うつ状態」と診断され、軽い精神安定剤と抗鬱剤を処方された。すると、薬の副作用で眠くなってしまい、徹夜での仕事は困難になった。

 ある夜、疲れていた高野さんは発作的にオーバードーズ(薬物過剰摂取)をしてしまった。飲んだ薬はそれほど大量ではなかったが、目が覚めたら夕方。とても会社には行けない。このことをきっかけとして、高野さんは2000年末に退職した。

 その後は社会保険の傷病手当金を受け取りながら、1年半の療養生活を送った。高野さんは、

「そんなに余裕があるわけではない会社が、社会保険を払ってくれていたことに感謝しています」

 と言う。そうでなければ、傷病手当金は受け取れなかった。

居男性とその両親による精神的DVから
ネットカフェ難民に


 傷病手当金の受給期間が満了した後、高野さんはすぐに仕事を探した。見つかった仕事は、個人指導の学習塾や広告制作会社。時給換算で760円~900円程度だった。最低賃金より少し高い程度の時給である。それでも、会社員の男性と同居していて内縁関係にあったので、なんとか暮らしてゆけた。しかし、半年ほどでまた倒れてしまう。

 回復すると、すぐに派遣会社に登録。コンベヤでの軽作業で体調を崩して「誰でもできることができないなんて」と落ち込んでいた時に、東京都内の印刷会社の仕事を紹介された。待遇は、正社員だった。

「『仕事には向き不向きがあるんだ』と立ち直れました」(高野さん)

 しかし、フルタイム勤務を始めてみると、体調面で無理が大きかった。勤務先に退職を申し出たところ、

「半日だけでもいいから来て」

 と頼まれ、午後だけのアルバイトとして勤務を続けることになった。高野さんは、当時の仕事ぶりに関して

「てきぱきやれてました。重宝されていたと思います」という。

 そのころ、同居していた会社員の男性が、ボーナスを全額カットされることになった。家賃が払えなくなり、2人で男性の実家に引っ越した。神奈川県小田原市。通勤に時間がかかりすぎるので、勤務は辞めざるを得なかった。

 この時期に関して、高野さんの口は重い。都心から、田んぼの真ん中にある男性の実家へ。それだけでも大きなカルチャーショックだったようだ。

 昼間は、男性の両親と3人で家にいた。男性の母親は、掃除などを理由として、悪気なく高野さんのプライバシーを侵食してきた。精神症状は悪化し、家の中での移動もやっとという状態になった。オーバードーズをして意識不明の状態で、30時間ほども眠り続けることもあった。適切な治療を受けることは困難だった。男性は基本的に高野さんに無関心で、オーバードーズをして昏々と眠り続ける高野さんを見ても、救急車を呼ぶこともしない。一方で、性的関係は要求しつづける。高野さんは「この時に生活保護を知っていたら」と後悔している。

 ある日、用事のために辛うじて家を出た高野さんは、そのまま帰らなかった。そして、趣味で勉強していたアロマセラピーなどを生かし、人脈をたどり、雑誌記事のライティングやイベント出演の仕事を探した。熱心な仕事ぶりが評価され、固定したクライアントも持てるようになった。しかし収入は安定しない。ネットカフェに宿泊し、クリーニング屋をクローゼット代わりに利用し、時に昼間のカラオケボックスで仮眠する日々。無理な生活は長続きしない。高野さんは、雑誌記事の原稿がどうしても書けなくなり、収入を失った。

抵抗はあったけれど、生活保護を申請
 高野さんは22歳の時、最初に「うつ状態」と診断されてからずっと、

「私、本当は働けるんじゃないか、怠け病なんじゃないか」

 と思っていた。しかし、選択の余地はない。友人や医師たちも、生活保護を勧める。

 2008年、31歳の高野さんは、現在住む東京都内の自治体で、生活保護を申請した。受給と同時に東京都の女性保護施設に入居。施設といっても、ごく普通のアパートであり、入居者のプライバシーは保たれていた。家電製品は備え付けられており、新しい布団があった。高野さんは、

「施設で、久しぶりにTVを見たのを覚えている」

 と語る。長い間、TVを安心して見られる環境とは無縁だったのだ。

 自立生活や仕事探しを焦る高野さんを、女性保護施設のカウンセラーは、

「まず落ち着くように」

 と説得した。ここで3ヵ月と少し過ごした後、アパートを見つけて転居し、現在に至る。

緩やかでも、確実な回復を目指して

 高野さんの生活保護受給は、そろそろ4年半になる。

 福祉事務所のケースワーカーは、高野さんの精神状態の安定と好転を最優先している。現在、精神科への通院の他に、1ヵ月に1回、保健センターでカウンセリングを受けている。ケースワーカーの指示によるものだ。

 現在は心身とも、まだ「健康」と呼ぶには程遠い状態だ。2008年にアパートに引っ越してきた時の荷物は、今も片付けられていない。それでも、生活に少しずつリズムやメリハリが生まれてきた。

 今は、

「焦ってもしかたないと痛感しています。開き直って、焦らないことにしています」

 という。精神症状が治っていない状態で無理に働いても、結局は倒れて迷惑をかけてしまう。それは避けたい。

 現在、主治医とともに設定しているゴールは、

「2年くらい後に、向精神薬を飲まずにいられること」

 である。現在使っている向精神薬は、主に眠前のマイナー・トランキライザーと短時間型の睡眠導入剤。最も精神症状が重かった時に比べると、薬の量は半分になっている。

 向精神薬を全く飲まないでいられるようになったら、少しずつ仕事を始めようと考え、いろいろな可能性を漠然と思い描いている。過去に経験した数多くの仕事を振り返り、好きだった部分・得意だった部分を生かして、自営での自立につなげる。それが、高野さんの現在のライフプランだ。

生活保護受給者のカラオケ、勉強はゼイタク?
自立へのステップとジレンマ
「焦らないことにしています」と言いながら、高野さんはやはり焦っている。大きな気がかりは、もうすぐ80歳の母親のことだ。年金で1人暮らしをしている母親に、今は心配をかけるばかりだ。仕送りができるようになりたい。

 しかし現在は、「昼夜逆転を治して、昼間起きていられるようにする」が精一杯だ。将来に向けた勉強も、できる時にしかできない。望むほどには進まない。

 そんな時、深刻な希死念慮が襲ってくる。高野さんは今でも、

「自分の価値の源は仕事」

 だと思っている。ふだんは、

「絶対に病気を治して、税金を納める側になる」

 と強気でいるが、時々

「このままずっと働けなかったらどうしよう?」

 という考えで頭が一杯になってしまう。

 働けない自分は、価値がない。価値がない自分は、呼吸するだけ無駄。そんなことを考えているうちに、パニック発作を起こしてしまう。救急搬送されることもある。

 今、必要なのは、とにかく健康になることだ。自分でもそう思う。しかし、そのための努力の1つ1つが、心の中で

「生活保護なのに? どう思われているんだろう?」

 という悩みの元になる。健康になるための努力はしたい。生活保護受給者にふさわしくないと思われるようなことはしたくない。ジレンマだ。

 今の高野さんは、医師をはじめとする医療関係者・ケースワーカー・仲間など、周辺の人間関係には非常に恵まれている。それでも悩みは多い。

「調剤薬局の薬剤師さんが、患者の様子をとても気にかけてくれる人なんですよ。『自律神経の調子が良くないので運動したいんだけど、外出が難しい精神状態が続いている時に部屋の中で運動するのは難しくて』と相談したら、『だったらカラオケは? 大声を出すだけでも効果ありますよ』とアドバイスしてくれたんです。それで、月に1回は昼間に1人カラオケに行くようにしているんですけど、罪悪感を感じるんです。『生活保護なのに?』って。1回1000円くらいだから、ゼイタクのうちには入らないとは思うんですけどね」

 また、好きで得意なことを将来の仕事にしようと思っている高野さんは、そのための勉強に対して、自分でも

「これは仕事? 趣味? 趣味だったらゼイタクなんじゃないの?」

 と悩んでしまう。オンとオフ、仕事と趣味の間に明確な線を引ける仕事を目指しているわけではないのに、1つ1つ、「生活保護なのに?」という気分になってしまうそうだ。

 そんな話を聞きながら、筆者は思う。その人に適した生活の形は、人の数だけあるはずだ。自立とは、生身の多様な人間を鋳型にはめることではないはずだ。生活保護受給者らしい生活や、生活保護受給者にふさわしい自立の形などというものは、あるのだろうか?

 次回は、稼働年齢層の健康な生活保護受給者を紹介する。老化とも傷病とも障害とも無縁でも、生活保護を必要とする場面はありうる。そこに「近未来の自分の姿かもしれない」と想像力を働かせてみよう。

ダイヤモンド・オンライン - 2012年7月20日