ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

アジアでのパラスポーツを観戦しよう!

2014年10月20日 01時44分39秒 | 障害者の自立

10月17日、夕方。市庁舎に近いアートカルチャーセンターでは、トーチセレモニーが行なわれていた。来ていたのは、地元の人々で約700名ほど。障がいのある参加者もいた。韓国語のみのイベントで、残念ながら、海外からの参加者はほとんどいなかったようだ。視覚障害のシンガーが歌を披露し、多くの人が夜遅くまでステージを楽しんでいた。

パラフォトは、2000年シドニーパラリンピックで初めて車いすバスケットと陸上を取材した。当時のパラフォト取材チームが撮影したビデオには、必ずといっていいほど自分たちの応援の叫び声が混じっていた。シュートシーンでプレス席からきゃあきゃあという黄色い声がしたら、今ならつまみ出されることだろう。そもそもスチールカメラマンのパスで、ビデオが持ち込めない。ファンは観客席にいるものだ。しかし、フォトエリアから振り返る観客席にも人はまばらだった。
もう10年以上たち、情報がすぐに伝わる時代、アジアパラリンピックもパラリンピックのエリート競技の影響をうけて進化してきた。会場には観客が3分の2以上はいる。当たり前だが、応援やもちろん取材のマナーもきちんとしている。

2002年に冬季ソルトレーク大会の取材を終え、その年から夏冬のジャパンパラリンピック、スペシャルオリンピックス、INAS-FID知的障害者サッカーワールドカップなどさまざまなパラスポーツを取材した。障がい者のスポーツといっても、障がいも種目もさまざまなバリエーションに満ちていた。なのに、情報はかなり最近まで「障がい者の社会参加」「リハビリの延長」というステレオタイプな見方を裏付けるような伝え方でしかなかった。それが徐々に変わり、むしろさまざまな障がいで、スタイルで楽しめるというスポーツそのものの広がりや意義を感じた。それは、人間そのもののへの可能性の広がりで、どう伝えたらいいか、取り組むことにも興味が湧いてきた。今のアジアパラは、大会も情報もエリートスポーツ中心になった。

フェスピック・釜山大会で・・
日本やアジアの障がい者の競技スポーツは、1970年に大分の中村裕博士が提唱して、貧しい地域や国々でも障がいのある人が楽しくスポーツをすることを目標にはじまった「フェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会を意味する英語名称、Far East and South Pacific Games for the Disabled の頭文字)」。
そのフェスピックは、2006年・マレーシア大会を最後に、現在の「アジアパラ競技大会」となり、事務局も大分からマレーシアに移った。

アジアでも、日本でも最近はロンドンパラリンピックが話題になって、パラスポーツもエリートスポーツのイメージが強くなってきていると思う。
フェスピックには、もともと「3分の1」というルールがあって、それは、アジアの現状にあわせていく紳士協定だった。トップの選手だけではなく、初出場の選手を優遇して出場させていた。フェスピックには、ヨーロッパやアメリカで始まった障がい者のエリートスポーツというイメージはなかった。代わりに、みたこともないような旧式の車いすレーサーや、木製のクラッチや生活用の義足で走る選手もいた。車いすバスケの車いすも、日本人選手がクルクルとあたり前に使っているようなものばかりではなく、病院や日常生活で使用する車いすで参加しているような国もまだまだあった。

2003年にフェスピック釜山大会(韓国)を取材した。空港からタクシーで予約した安いホテルにチェックイン。陸上競技を中心に取材。陸上会場に併設された小さなメディアセンターへの毎日の行き来はタクシーだった。私たちの取材チームには車いすの記者が1名いたが、メディアセンターは階段の下にあり、エレベーターがなかった。マレーシアのメディアにも車いすの記者がいた。選手だけでなくメディアにだって、障がいのある人がいるのは何ら不思議のことはない。障がいのある取材者がプレスルームを出入りするのに4人掛かりで担いで階段を上ったり降りたりしなければならなかった。そんなとき、韓国の人々はイヤな顔はせず、むしろ我先にと階段に駆けつけてサポートしていた。釜山大会での韓国人の印象は、「親切で、意地っ張り」だ。

パラスポーツをリードする中国
世界で、レクリエーションと競技スポーツがはっきりわかれたのは、2008年北京パラリンピックだと感じる。しかし、同じアジアで、障がい者のスポーツは多くの場合普及、その工夫が課題となっていることを忘れてはならないと思う。また、知的障害の競技は長野パラリンピックから開催され、パラリンピックでは一部の競技のみ開催されているが、アジアパラへは多くの種目で知的障害の選手が活躍している。ちなみに、中国は、今年からINAS-FID(国際知的障害者スポーツ連盟)に加盟し、知的障害のスポーツにも取り組んで行くという。

これまでいろいろ取材してみて、この仁川にも来て、まだ1日と少しだが、2003年に取材した「フェスピック(アジアパラの前身)釜山大会(韓国)」は、その後のパラスポーツのアイデンティティを考える今の取材につながっているとあらためて感じている。2020年にむけ、アジアの一員として日本人はどんなパラリンピックを思い描けばいいだろうか。

2014年10月18日 at 11:22 AM     パラフォト


障害リハビリ患者の「ありがとう」で奮い立った21歳が原点 作業療法士

2014年10月20日 01時36分10秒 | 障害者の自立

 和歌山県立医大付属病院(和歌山市紀三井寺)のリハビリテーション部で勤務3年目を迎え、新人の指導係を担うようになった作業療法士、宮村佳澄さん(24)。

 障害者授産施設を運営する社会福祉法人に勤めていた親戚がいたこともあって、幼いころから施設の祭りやイベントなどに参加していた。当時から人に頼られるのが好きで、「障害をもった子供と関わりたい」という思いが強くなっていったという。そんな中、病気や事故で心身に障害を持つ人のリハビリを助ける作業療法士の仕事を母、三(みつ)美(み)さん(49)が教えてくれた。

 作業療法士は、編み物や折り紙など趣味活動を通じてリハビリを行うこともある。宮村さん自身、編み物、折り紙ともに大好きで、魅力を感じた。

 作業療法士を目指すため、高校卒業後の平成21年に大阪市淀川区の大阪医療福祉専門学校作業療法士学科に入学。「高校時代、勉強が苦手だった」という宮村さんにとって、専門学校の課題は大変だった。

 特に、病院などの現場を回り実際にリハビリに取り組む実習では毎回、リポートをまとめるのに苦労した。「教科書で学んだことと実際は違うことがたくさんあり、頭の整理がつかなかった。リハビリって何だろう、と考え込んでしまった」と振り返る。「私は向いてないなと感じたことや、なんで作業療法士になりたいのか分からなくなったこともあった」とも。投げ出したくなったが、リハビリを施した患者から言われた「ありがとう」の一言で奮い立ったという。

 実習は、現在の職場である県立医大付属病院でも行った。宮村さんの上司、上西啓(ひろ)裕(やす)療法士長(54)は「実習のとき熱心で有能で、印象に残った。この子と一緒に働きたいなと思っていた」と思い起こす。

 実習で障害と懸命に向き合う患者たちの姿を見てつらくなり、患者の気持ちがわからなくなったこともあった。でも専門学校の講師から「患者さんは一生懸命に生きているんだから、支えてあげなくちゃ」と励まされ、再び寄り添うようになった。こうした専門学校での経験、勉強が実り、平成24年に作業療法士の国家試験に合格した。

 現在は、リハビリテーション部で多忙な毎日を過ごす一方、学会でも積極的に研究発表し、職場で高い評価を受けている。

 プライベートでは毎月、大阪市内で、専門学校時代の友人らと集まり、食事を楽しむなどしている。当時の友人たちはよき相談相手なのだという。卒業して3年目。みな作業療法士としてそれぞれの現場で後輩を指導する立場になり、理解し合える部分が多い。

 「まだまだ勉強不足。患者さんとより良い信頼関係をつくれるよう頑張りたい」と宮村さん。患者のために日々全力を尽くす。

(池田美緒) ■作業療法士になるには 国家試験を受験し、合格する必要がある。受験資格を得るには、高校卒業後、国の指定する専門学校や大学、短大などの作業療法士養成課程で3年以上学び、在学中に現場実習を経験するなど必要な知識を身につけなければいけない。養成校は全国に181校あり、これまでに7万675人が合格している。

折り紙をするリハビリを行う宮村佳澄さん。学生時代、患者から言われた「ありがとう」の一言で奮い立ったという=和歌山市

2014.10.19 11:00       産経ニュース