ゴエモンのつぶやき

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東京)国立のチームの2人、身障者野球世界大会へ

2014年10月29日 01時52分29秒 | 障害者の自立

 11月1、2日に兵庫県で開かれる身体障害者野球の世界大会に、「東京ブルーサンダース」(国立市)の田中寿明選手(26)=千葉県柏市=と山崎晃裕選手(18)=埼玉県鶴ケ島市=が出場する。2人とも生まれつき右手首から先がなく、高校時代には野球部で健常者とともにプレーした経験を持つ。

 右打席の山崎さんが、ほぼ左腕一本でたたいた打球は、2打席続けてフェンスを越えていった。

 26日、埼玉県所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターのグラウンドであった練習試合。昨年秋の全日本選手権で準優勝した東京ブルーサンダースの相手は都内の健常者チーム。4対5の惜敗だった。

 「高校球児としてプレーしたことが今の自信につながっている」と山崎さん。山村国際高(埼玉県坂戸市)野球部出身。バットを左手で握り、右手首を添える打法だ。寝るのも惜しんで素振りをするときもあった。3年生だった昨夏の埼玉大会で背番号「7」をつかむ。控えに回ったが、3回戦の7回、代打で逆転の2点二塁打を放った。

 健常者との野球に区切りをつけて、身体障害者野球世界大会を目指すことを決めていた。東京国際大でスポーツ科学を学びながら、個人トレーナーを雇って体づくりに励む。ベンチプレス80キロ、スクワット180キロを誇る肉体で長打を量産する。世界大会では1番打者として期待され、「フルスイングでチームに勢いをつけたい」。障害者野球を広く知ってもらうことや、障害者に勇気や希望をもってほしいという願いを込めている。

 会社員の田中さんは神奈川県平塚市生まれ。8年前の夏、神田(現平塚湘風)の投手として神奈川大会で1勝を挙げた。

 投げるときはグラブを右わきの下に挟み、投げ終わるや左手に持ち替える。ストレートは132キロを記録したこともある。

 健常者と野球をするときに、片腕だからと特別扱いをされたことはない。「障害者野球に物足りなさが全くないわけではない」と明かす。だが、選手たちの夢をあきらめない姿に共感を覚える。「日の丸をつけてプレーできることは誇りに思う」

 どのチームでプレーしても投手が一番やりがいがあるという。「試合をつくる役割に責任感を覚える」。初めての世界大会の目標は「第一に優勝。第二に楽しんでやること」という。先発を任せられる予定だ。

 〈身体障害者野球〉 1993年に日本連盟が設立され、同年から全国大会がほぼ毎年行われている。今年3月現在で全国で33チーム、876人が登録する。足が不自由で走れない打者には打った直後から代走が許されるなど、特別ルールがある。

 世界大会は日本の呼びかけで始まり、2006年、10年と日本が連覇。第3回は兵庫県豊岡市但馬ドームであり、日本、米国、プエルトリコ、韓国、台湾が総当たりで争う。

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練習試合で登板した田中寿明選手=埼玉県所沢市

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 11月1、2日に兵庫県で開かれる身体障害者野球の世界大会に、「東京ブルーサンダース」(国立市)の田中寿明選手(26)=千葉県柏市=と山崎晃裕選手(18)=埼玉県鶴ケ島市=が出場する。2人とも生まれつき右手首から先がなく、高校時代には野球部で健常者とともにプレーした経験を持つ。

 右打席の山崎さんが、ほぼ左腕一本でたたいた打球は、2打席続けてフェンスを越えていった。

 26日、埼玉県所沢市の国立障害者リハビリテーション

2014年10月28日03時00分    朝日新聞

 


パラリンピックを知ろう(2)幾多の障害乗り越えてきた

2014年10月29日 01時42分30秒 | 障害者の自立

 10月18日に始まった仁川アジア・パラリンピック競技大会が24日、閉幕した。圧倒的な強さで今季4大大会制覇に続く優勝を遂げた男子車いすテニスの国枝慎吾の見事な技に見ほれ、男子陸上100メートル(切断など)で2010年広州大会に次いで連覇した山本篤の力強い走りに身を乗り出していた。

 中継ではなくニュース映像だったが、競技性が強く伝わった。新聞は限られた紙面で地味な扱いに終わった。ただ長崎国体とほぼ同じスペースで運動面を占めたことは少しだけ進歩である。

 パラリンピックは、イングランドにあるストーク・マンデビル病院で1948年に開催された院内の車いす患者を集めたアーチェリー大会が発祥である。この病院は第二次大戦で脊髄を損傷する兵士が増加することを見越し、治療と社会復帰のための施設として開設された。当時、脊髄損傷は手術し寝ていることだけが治療だったという。

 しかし、初代脊髄損傷科長の医師ルードウィッヒ・グッドマンは、手術をできるだけ避けてスポーツをリハビリの中心に据え、患者の早期回復、社会復帰にめざましい効果をあげた。

 「失われたものを数えるのではなく、残された機能を最大限に生かそう」

 グッドマンは車いす患者にスポーツを奨励。52年にはオランダからの参加を得て「国際ストーク・マンデビル競技大会」に発展し、60年ローマでの初のパラリンピック開催に至る。

 以上、日本パラリンピック委員会企画部、井田朋宏の論文『障がい者スポーツの50年』を参照した。

 今では当たり前になったリハビリでのスポーツの活用は、導入までに幾多の障害があったと想像に難くない。まして競技大会開催なら…。

 グッドマンがパラリンピックの父ならば、日本の障害者スポーツ生みの親は国立別府病院整形外科部長の中村裕。ローマ大会直前にストーク・マンデビル病院を視察、グッドマンから啓示を受けた中村は61年、地元大分で身体障害者体育大会を開く。当時障害者は体を動かさず、人目に触れさせずが風潮。「見せ物にする気か」と周囲の医師やマスコミなどから強い非難を受けての船出だった。

 50年の歳月を経て「こんなにも変わるとは…」と井田は書き記す。6年後の日本社会はもっと変わっていなければならない。仁川での選手の活躍を見ていて心底そう思った。        =敬称略

仁川アジア・パラリンピックの車いすテニス男子シングルスで優勝した国枝慎吾選手=仁川

2014.10.28 08:50    産経ニュース