64年大会に車いすバスケットボールなどで出場した須崎氏。20歳でバイク事故により脊椎を損傷し「障害者が自力で外出することも不可能だった時代。スポーツなんて考えもしなかった」と絶望していたときに出会ったのが、転院先の大分・国立別府病院の整形外科科長、中村医師だった。
中村医師は障害者スポーツ発祥の地、英ストーク・マンデビル病院を視察。60年のローマ五輪後に「第9回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会」を開いたルートビヒ・グットマン医師から、次回64年東京五輪の後にも同大会の開催を要請された。
中村医師は実現に奔走。「第13回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会」という長い正式名称を「東京パラリンピック」という通称で定着させたほか、22歳だった須崎氏ら病院の脊椎損傷患者に「やりよるか?」と声をかけて回った。
五輪閉幕後の11月8日、五輪選手村の練習場で開会式を迎えた。「皇太子ご夫妻がいらっしゃられて緊張した」と須崎氏。選手団団長の中村医師の姿を探すと、スタンドで顔を伏せたまま。涙で顔を上げられなかったのだという。
迎えた大会は、自軍のゴールにシュートを放つなどで全敗。しかし須崎氏が衝撃を受けたのは、海外選手との実力差ではなかった。
「彼らは全員、仕事を持った社会人だった。『仕事を探し、働きたい』と強烈に思った」
恩人である中村医師の思い出を語る須崎氏。74歳になった今も定期的に車いすで8キロを走っている
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