1964年の東京パラリンピックを語るうえで忘れてはならないのは皇室の果たした役割だ。なかでも皇太子夫妻だった天皇、皇后両陛下は大会前から強い関心を寄せられ、結果として、まだ黎明(れいめい)期だった日本の障害者スポーツを後押しした。
■パラ出場の卓球選手に勝負挑まれる
まず下の表をみていただきたい。東京パラリンピックを訪れた主な皇族の一覧である。会期は直後に開かれた国内大会と合わせて7日間。そのうち皇太子夫妻の出席は開会式、閉会式を含めて6日間に及んだ。大会の名誉総裁だったとはいえ異例の頻度といえる。
天皇、皇后両陛下に長く仕えた元侍従長の渡辺允は手記のなかで、こんなエピソードを紹介している。
「両殿下(筆者注、皇太子夫妻)は、この競技を是非当時の天皇皇后両陛下に、もしそれがかなわぬのであれば皇后陛下御一行にでもご覧になっていただく可能性がないだろうかと宮内庁長官に相談され、その結果、開催4日目の午後には、両殿下のご案内で香淳皇后がアーチェリーと車いすバスケットを観戦なさっています」
(『若き日の両陛下と東京パラリンピック』文芸春秋2013年2月号)
当時の天皇、皇后両陛下はともに30歳。障害者スポーツのことをできるだけ多くの人に知ってほしいという、若い情熱が伝わってくる。香淳皇后の出席は当初予定されておらず、大会関係者の間でも驚きをもって受け止められたという。
天皇、皇后両陛下は障害者スポーツについて見聞きするだけにとどまらず、生身の障害者のことを知ろうとされていた。テニスと並んで卓球を得意としていた陛下は、パラリンピックの卓球選手と面会するたびに勝負を挑まれたという。
東京パラリンピックの運営を担った「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会」の会長、葛西嘉資(後に厚生事務次官)は皇太子時代の姿を明かす。「選手がなかなか強くて、(中略)皇太子さまが勝たれたのは、コーナーをお上手にパッパッとねらわれるんです。(筆者注、車いすを固定してプレーする選手にとっては)いちばん、つらいところですからね。しかしそれでも苦戦をされたように、わたしは拝見しました」(『時の素顔』週刊朝日1964年10月23日号)
障害の有無にとらわれず、車いすの選手とまっすぐ向き合おうとされている陛下の姿勢がうかがえる。それは子供の教育でも一貫していた。厚生省の職員だった井手精一郎は、東宮御所でこんな場面を目撃した。
「ストーク・マンデビル(筆者注、パラリンピック)に出場した卓球の選手が皇太子殿下(同、天皇陛下)のご子息(現、皇太子殿下)と卓球をしたのですが、車いすの選手に対していい加減なことをやったら悪いと思ったのか、皇太子殿下が浩宮殿下に、しっかり相手をしなさいと言われていました」(『スポーツ歴史の検証』笹川スポーツ財団)
障害のある人はかわいそうだ、守らなければならない――。そんなふうに思われていた時代に、天皇、皇后両陛下は鍛えた能力に限界がないことを身をもって感じられていたのかもしれない。
東京パラリンピックに続いて開かれた国内大会でのあいさつには、そんな陛下の思いがにじんでいる。「この大会が皆さん自身にも、その友人にも必ず大きな自信、勇気、希望を与えることを信じます。同時に我が国ではなお不十分といわれる障害者に対する理解を深め、関心を強めるのに良い機会と思います」(『東京パラリンピック大会報告書』国際身体障害者スポーツ競技会)
■「国内でも毎年、開いてほしい」
天皇、皇后両陛下が障害者スポーツに関心を持ち、常に気にかけておられるという事実は、それに関わる人々を勇気づけ、広く国内の関心を集めてきた。むろん両陛下に特段の権限があるはずはなく、そもそも国政への関与は憲法で禁じられている。だが重要な局面では結果として、何らかの影響を及ぼすことがあった。
たとえば62年8月、まだ東京パラリンピックの開催が正式に決まる前のことだ。皇太子夫妻だった天皇、皇后両陛下はロンドンのパラリンピック(当時の呼称はストーク・マンデビル)に日本人として初めて出場した選手を東宮御所に招かれた。大会の様子に耳を傾けた後、「2年後の東京大会は、ぜひ開催してもらいたい」(『東京パラリンピック大会報告書』)と希望を述べられたという。
当時は、国立別府病院整形外科医長の中村裕らが東京パラリンピックの開催に向けて政官界に働きかけるなど奔走していた。選手との面会の席には中村も同席しており、皇太子の言葉は大きな励ましになったと思われる。
東京パラリンピックの後に開かれた国内大会で、皇太子夫妻はグランドに降りて選手たちを激励した(日本障がい者スポーツ協会提供)
また今でこそ国民体育大会(国体)の後に同じ場所で全国障害者スポーツ大会が開かれているが、その端緒をつくったのも皇太子時代の陛下といわれる。
東京パラリンピックの終了後、陛下は大会の役職員をねぎらったうえで次のように話された。「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたいと思いますし、皆さまもこれから身体障害者の福祉向上のためさらにいっそう努力されることを希望します」
これを受けてパラリンピック運営委員会の会長を務める葛西は「国内大会は今後毎年国体の後を追いかけて開催するようにいたしたいと思っております。今後とも、私どもは皇太子殿下のご趣旨にそいたてまつるよう身障者福祉のため最善を尽くすことをお誓いいたします」と答えたという(『東京パラリンピック大会報告書』)。
そうした経緯もあって65年11月には岐阜国体の後、同県で「第1回全国身体障害者スポーツ大会」が開かれた。「『3~4年前から準備している国体で、1年をきった段階でそんなことを言われてもとても無理だ』と断られたところを、なんとか進めました」(『スポーツ歴史の検証』)と厚生省職員だった井手は振り返る。
東京パラリンピックの衝撃は全国身体障害者スポーツ大会(2001年から全国障害者スポーツ大会と改称)に受け継がれ、日本の障害者スポーツの発展を後押ししてきた。皇太子時代の陛下が74年11月に茨城県の第10回大会に出席された際のあいさつには、ある種の達成感が表れている。
「顧みますと、この10年今もって私の脳裏を去らないのは、岐阜県で開かれた第1回大会の光景であります。秋空の下、大勢の観衆の前を力強く入場する選手の姿がまことに印象的でありました。それから10年、(中略)身体障害者に対する理解と関心には、まだ不十分な面がありますが、今日までの間にずい分と大きく変わったことと思います。発足当時は、選手のほとんどが施設からの参加者でありましたが、回を追うごとに社会人の参加者が増えてまいりました。10年前、日本で開かれたパラリンピックの際、外国選手の多くが社会人であったことを思い合わせると、この間の我が国の歩みを感じるものであります」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)
■出場選手のなかに交じっていた戦傷者
東京パラリンピックに対する皇室のかかわりについて、日本財団パラリンピックサポートセンター理事長の小倉和夫は「第2次世界大戦との関係もあるのではないか」と指摘する。天皇の名のもとで戦い、敗れてからまだ19年。日本には戦地や内地での戦闘、空襲で傷を負った人々がたくさんいた。
出場選手にも戦傷者が交じっていた。国立別府病院整形外科医長の中村裕による外国選手のアンケート調査では、回答した193人のうち27人にのぼった(『中村裕伝』水上勉、井深大ら編)。小倉によれば、日本選手には少なくとも2、3人はいた。東京パラリンピックは結果的に、そうした戦争の傷を癒やした可能性がある。
最後に天皇、皇后両陛下の障害者スポーツに対する思い入れを示すエピソードで、この回を締めくくりたい。76年6月に皇太子夫妻として英国を訪れた際、障害者の治療の拠点でありパラリンピック発祥の地でもあるストーク・マンデビルに足を延ばされた。そこでパラリンピックを提唱した医師のルードイッヒ・グットマンと再会し、東京大会への支援に改めて礼を述べられたという。
元侍従長の渡辺允は当時をこう回想している。「この時まで、ストーク・マンデビルは女王陛下のご訪問をいただいていませんでしたが、後日、両陛下のご視察によって英国女王の初のストーク・マンデビルご訪問への道が開かれたという(筆者注、グットマン)博士からの感謝の伝言が葛西さんの元に届けられました」(『若き日の両陛下と東京パラリンピック』)
(敬称略、次回に続く)
(オリパラ編集長 高橋圭介)