枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

団地・年末の掃除

2015年12月06日 | Weblog

 落葉くらい、各家庭で掃きたい。毎朝すれば、健康のためにもいいし、何よりもダイエットが出来る。毎日続けることが大切であり、遣っている内に、清々しい心になる。地球に語りかけることで、グッドタイミングが訪れる。その内に応えがあるだろう。

 今朝は、早朝に起きて自宅の周りを掃き、40分ほど加わって引き上げた。勤務なのだ。弁当も作らねば、と蓮根の素揚げと、ピーマンもする。やっぱり泥付きは、軟らかくて美味しいね。死ぬまでに食べておきたい物も、こんなふうな天然の物が良。

 真冬でもないのに、暖房温度が高過ぎる。ちょっと動くと汗ばむようでは、点け過ぎだ。どうにも人工的な暖かさは苦手だ。冬は、寒いのが当たり前、動いてこそ温かくしたい。身体が冷えてくるようになったら、塩でよく揉むのがいい。血行もよくなる。

 塩の作用を信じていない方には、無理のない話しだが、身体に効くとは想ってもみなかった。以前には、束子で全身を擦ったりもしていたが、踵の罅割れが良くならない。ストッキングが穿けない。見えないところを綺麗には、試行錯誤を繰り返した。

 枇杷湯に浸かるのも、身体が温まるからだが、それだってあまり改善にはならなかった。それが塩で擦ることをしてから、冷えないのが解かった。足の裏がひんやりしないのは、実際あり難いもの。冬にスカートを穿くことは少ないが、画期的なことよ。

 機械にばかり頼っていると、地震が起きた時には、避難できない。自然にある物を上手く使って、生活する手立てがない。それでは生きていけない。物資が無くても、当座を凌げる術を知っておきたい。むろんのことには、生きる気力も大切な要素だ。

 夜のしじまの庭から、宇宙を観上げる。星の煌めき、さんざめく光の中で、彼方に誘う神秘な闇。

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忘年会・・・

2015年12月05日 | Weblog

 小規模多機能型の施設で、忘年会を計画し、家族の方達との交流も含めて、大勢が参加して開催された。と言っても、規模自体が小さいので、こじんまりと和やかだ。昼食を作るのも、普段とは違う家族の応援もあって、何かしら期待も掛かる。工夫を凝らしての演出。

 フラダンスも入って、ダンスも踊って、ハンドベル演奏も何とかさまになって、無事に終了した。刻み食やら、トロミ付にと、裏方は大忙しである。昨年までは、息を切らせて動いていたが、今年は若い人等に任せる。目立たない場所での見守りに撤し、話易い状況を促す。

 皆、言うに云えない思いを抱えている。その本音を、誰かに聴いてもらいたい。でも、言うべきタイミングが、上手く見つからない。そういった時の、何でもない話にも、耳を傾けてくれる職員が居れば、この施設でよかったと思わない?認知症の人口は増加を辿るのです。

 ところで、主婦と言うのも個人差のあることに。お粥が糊になっている!こんなお粥では美味しくも、なんともないでしょう。本来は、米を研いだのをするが、捨てるに忍ばない故、冷凍ご飯を使っているが、それにしても障子張りができる按配に、冗談かしらと唖然となる。

 個々の性格の違いからくるのだと思うが、台所を拡げまわる人は、片付けができない。どんなに素晴しいシステムキッチンも、一日でゴミの山。素材を生かした料理と、手早い後片付けを同時にしたいもの。ゴミを出さない工夫も必要。家事も仕事ですから、テキパキとね。

 枇杷葉の生葉は、木から外したら、焼酎に漬けるか、ナイロン袋に入れて冷蔵庫に。焼酎に漬けたのは、エキスが摘出され始めたら使えます。冷蔵庫に入れたのは、枇杷葉温圧療法での治療で使います。枇杷葉茶に用いるのは、寒中に採取します。小寒以後でね。

 夜更かしをしていて、風邪を引きそうになる。予感が当っても困るので、通草酒を飲み布団に潜った。頭痛が止まってほっとする。胃の調子がイマイチなので、鉈豆酒を舐めておく。熱の曄が消えないが、口内炎は抑えられる。良く噛んでの食事に気をつけたく反省する。

 金星の輝きには、人間の心を駆り立てる意識が働く。まるで手招くように、彼方の宇宙から光を投げる。

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天気ではあるが・・・

2015年12月04日 | Weblog

 雲の多い一日であった。風も冷たいし、気温も上がらない寒い日だった。遂に、ストーブを出して点ける。片付けもしながら、掃除を終える。窓の結露に、雑巾掛けをして、次に床を拭く。そろそろ掃除を考えて遣っていかないと、押し迫って慌てることに。

 昨夜の読書が深夜に及んで、起きたのは9時過ぎだった。そこから布団を干し、洗濯機を回して、朝食を摂った。サンタさんからの、珈琲豆を挽いて淹れるのは、究極の贅沢である。この味に慣れてきたので他所では飲めないです。新幹線は不味いよ。

 コンビニの味にも、好みがあるらしいが、どうしてもの時以外は、我慢して自宅まで帰る。所要時間が1時間以上には、枇杷葉茶を持参する。冬の季節には、冷たい物で良いが、個人的には凍りつく。湯気の立つ飲み物に、ホットするが、過剰な甘味苦手。

 夏でも、冷たい物は極力避けている。とどの詰りは、枇杷葉茶以外は、あまり口にしない。胃腸が荒れれば、ドクダミ茶か鉈豆茶にしている。自然に生えているのを活用し、保存には焼酎を用いる。その他には、塩やお酢もいい。塩は、粗塩に限りますね。

 庭木の根元に塩を入れておく。ミネラルのたっぷりある、粗塩を使用して、適度に歩いて振った。薔薇や百日紅にも、球根やクリスマスローズにも入れた。冬の間にじんわりと効いて、春になったらと心が弾む。枇杷葉に話しかけ、生葉を採り焼酎に漬ける。

 午後も可なり過ぎて、散らし寿しに取り掛かる。蓮根・牛蒡を下準備する。蓮根は、泥付きをもらっていたが、中々調理できなかった。青空市で買うので、牛蒡は柔らかく美味しい。包丁を研いでおいて、漬物を切っていく。この作業に、何時もは手間取る。

 洗濯物を仕舞ってから、荷物を持って勤務先に行く。小分けにした散らし寿しを、其々に渡して、明日の様子を垣間見て帰宅。風はなかったが寒い。冬至までは日が暮れるのも早い。雨露を凌げる、我が家があることに感謝だ。残しておいた寿しを頬張る。

 最初は、これがうっそうと繁る様を想像して、楽しみにしていた。年々、勢いを増す状況にも楽観していたが・・・

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南半球では。下弦・小潮

2015年12月03日 | Weblog

 星座の位置が、変わってきており、冬の星座が煌めく。北半球の星座は、オリオン、大犬、小犬、昴と天空に広がるが、南半球の方では、夏になっていくらしく、枇杷葉も熟してくると言う。尤も外国では、果物で売られており、あまり美味しくないようだが。

 日本人のように、薬としては使われていないそう。京都で暮すベニシアさんほど、自然からの恩恵を大事には思っていない。ハーブとして興味を惹いても、殊薬草に関しては祖先代々、受け継がれているとは思えないからね。即ち、民間療法としてです。

 リエさんが小さい頃は、蒟蒻閻魔さまによく、お参りしていたそうだ。蒟蒻での枇杷葉温圧療法を話したら、それなら行ったことがあるよ。と連れて行ってくれた。残っているんですねぇ。ブラタモリの影響は大きいですなぁ。あ、ここは紹介されていませんよ。

 高齢者の方が、冬の時期になると、皮膚障害を起こします。肌着を脱いだら、白い皮膚の粉が舞いますね。加えて、痒みが生じます。これには、柚や柑橘類の皮を、浴槽に入れて浸かればいいこともあり、或いは更に酷くなることにも。自分に合う方法で。

 明日は、急遽散らし寿しを作ることになった。休日を読書で過す予定が、大幅に変更である。蓮根と、牛蒡も使うかな。それにしても、材料を用意してからとも、内心は思うが、手弁当の持ち出しである。お返しをするからと言うが、ちょっと違うなぁ・・・嘆息。

 幸せ度というのは、一体に何を指して言うのだろう。青い鳥はどこにいるかと、探しに行くのかしら?清貧な暮らしながら、精神的なことで云えば、98%は幸せだ。これ以上の充実した毎日はない。これで、介護の仕事への報酬額がアップになれば100%だ。

 枇杷葉での日々の暮らしで、節約・倹約をしつつ、自然からの恩恵を感謝して、生かされていることは、どんなもの以上に有難い。健康であることにも、たくさんのことを学べることにも、神の力を想う。宇宙の森羅万象に、深い畏怖の念を抱く。感謝するばかり。

 一番最初に、花芽がついた枇杷葉。何と、4年目に実がなったのだが、生憎気づかなかった。花芽の匂いはしていたが・・・

 

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神無月・八せん始め

2015年12月02日 | Weblog

 八せんとは、旧暦の神無月、壬子の日から癸亥の日までの十二日間の内、壬子、甲寅、乙卯、丁己、己未、庚申、辛酉、癸亥の八日のことで、一年に六回ある。この日は法事、供養などの仏事、破壊的な物事の着手や、嫁取りなどには凶日とされる。

 暦の通りにはいかないこともあるが、家屋の建て替えや、取り壊し等には気をつけたい。古来、日本にはそういった慣習があり、特に大工の棟梁などには、慎重の上にも源を担いでいたものだ。祖母など、三隣亡には山には入らず、家内作業であった。

 人間の身勝手を自然から諌められ、納得して共存してきたものを、土日に集中して、作業をしたり、娯楽の祭典を催す。事故が起きれば、収拾がつかなくなるのも、当たり前と言えば、そういった背景がある。今は殊更、無茶苦茶な計画が多くある。

 旧暦での暮らしをし始めて、心に落ちてくるものがある。言葉でもなく、形のあるものではないが、すっきり溶け合う。早く、速くと急かさないで、あるがままの自分で過すことも大切。人間以外のたくさんの命を戴くことは、感謝と祈りが存在しているんだ。

 枇杷葉の花芽の下に居ると、実に不可思議な体験をする。類似体験とも言う、一種異様なことを感じる。でも、実際に起きてみると、やはりそうなのかとも想える。何故なのかが解からないからこそ、無限に広がる宇宙を観られる。これからの季節には。

 自分のような力は、誰でもが持っており、知っているか、使ってみるかで違うだけだ。魔法ではないから、自由にはならないし、修行を積んでも、然したる差はない。ご先祖さまに感謝し、生まれた意味を考え、人生の指針にできれば、旧極の幸である。

 枇杷葉と出遭えたことは、画期的なことと感じている。それも、淡路島まで枇杷狩りに行けたのも、何とも不思議でならない。古事記や日本書紀では、神が最初に創った島とある。書籍の中でも、そういった記述には酷く惹かれる。日本人でよかった。

 春の名残の、朧月夜。源氏物語の、朧月夜を思い、月のかぐやや、嫦娥姫を連想する。覚も美しき天女も。

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視えていること・・・

2015年12月01日 | Weblog

 う~ん。何と言うのだろうか?見えるっていうのをね。然し、今朝の某新聞にある句を見つけ、思わず頷く。枝ごとに弥陀仏御座し枇杷の花。日ざし来て仏偲べと枇杷の花。作者は永井東門居とある。昨日のは、枇杷の花立ち寄り難き家ながら。渡辺純枝。

 この季節になると、枇杷の花のことを詠った句を載せてくれる選者に、敬意を表する。暫し、というか時を忘れてさえ、佇んでいたい想いが募る。そういった感慨を超えて尚、信じ難いものが視えることもある。強ち幻でもないのだ。自然からの最大の恩恵。

 住居は、団地の一角だが、枇杷葉を植えてから、と言うよりは、淡路島に行ってから、我が家の様子が変化した。言葉にはできないことでもあり、説明は困難だが、確かに違うのだ。枇杷葉を植えたのは、此処に越して来て直ぐである。早10年以上前だ。

 全く以って、植えたことすら忘れていた。花芽がついたのさえ、気づかなかった。それは詰り、心が慌ただしくて、辺りのことや、当たり前のことへの感謝の念を忘れていたからだ。母が逝き父が亡くなって、やっと分ったことでもある。遅きに失しであること。

 草木を愛でる、命をいとおしむ心になれなければ、気づかないことでもあろう。自分だけの命ではなく、たくさんの生命体の共存で、この世は成立っている。感謝の想いに、祖先を敬い偲ぶことをしなくて、今の自分は有り得ない。そういうことにやっと気づく。

 そうすることに依って、現実には見えないものが、感じられるのだ。心が感知するのだろうか?然し幻でもないようにも。困った時には、文殊さまが知恵を授けてくれ、怒りに化す時には、仁王さまがお聴きくださる。見えない物を視させてくれるのもお蔭様。

 人生の愉しみ方は、実に様々なやり方があるが、自分の閃きや感性だけは、失いたくない。志麻半島殺人事件を読み終える。人を殺すのはいけないが、この作品を読んでいて、物哀しさを覚えてしまった。でも、だからといって殺していいことでもないが。

 春も遅くなってくると、初夏への移り変わりに転じてしまう。涼しげで買ったが、幾らでもランナーで増える。

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