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外交は勝ち負けか?

2019年12月02日 12時08分00秒 | Weblog

外交は 勝ち負けか?
(期間限定版の予定です、悪しからず)


熊本にも縁がある漱石先生は
名作「草枕」において
隣近所の付き合いの難しさを
切々と述べておられる

しかし
この作品の冒頭文を
あらためて読み直すと
家だけではなく
国と国とのつきあいも
似たような悩みを生じる

私が物心ついてからも
私の住む国・日本は
近隣の国との関係で
いろいろと苦労している

特に 中国や韓国・北朝鮮
そしてロシアとの外交で
各方面からの課題を
いろいろ抱え込んでいる

どの国も
外交上は手強い国ばかりだが
とりわけ近年は
隣国の韓国と
経済的に急成長中の中国との外交が
喫緊の課題を抱えている

太平洋戦争から幾世代も経た今も
まだ戦後処理や歴史問題を
粘っこく引きずっている韓国

かの国は
メディアも国民も
スポーツも政治も
何かあれば 我が国に
勝った、負けたと
一喜一憂しているように見える

経済的な面で急成長中の中国も
まだ歴史的な課題をしつこく掲げ
近隣の国々を仮想敵と見做し
近隣の領土や民族を侵害し
自国の積年の不満を逸らし
民族の自尊心を必要以上に煽る

この他国を貶め、攻撃する姿勢は
韓国や中国に共通する政策だ

他所や他国を仮想敵にしておけば
少なくとも 自分たちには
不満や敵意などが向かないから
お互いに安泰な時期が続くという
安易で狡猾な政治手段だと思う

また 外交に民意を持ち込むと
さながら人気投票の様相となり
外交上の事実や真実が
ひどくボヤけてしまいがちだし
追及すべき現在と将来の国益は
蔑ろにされてしまう

えてして民意は
短期の損得感情を主にし
自分や周囲のことを中心に考え
物事を広くかつ深く重層的に
捉えることは苦手とする
当面損をして 後で得をするなんて
悠長なことも思いつかないような‥

今の先進国も
かつては民意を大事にするあまり
外交上の軋轢を生んで
お互いに
かなりの国益を損ない
かつ数多くの人命を失ってきた
そんな負の歴史を持つ

民意の扱いは
かように難しい面を持っている

そもそも外交は
上っ面の損得や勝ち負けだけで
行うものではないだろうと思う

2019年11月27日
トランプ大統領が
「香港人権・民主主義法案」に
ようやく署名をして
法案がいよいよ成立した

勝ち負けに固執すると
国同士の難題を解きほぐす術を
見失うこともあるだろう

そもそも政治に勝ち負けは
余り相応しくないのでは と考える

2019.11.25/11.27 草稿 
11.29 /12.2 追記
☆「草枕」の本文とその解釈
(「カキコミタウン ブログより引用)
山道(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智(ち)に働けば角が立つ。情に棹(さお)差せば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
 
理知だけで割り切っていると他人と衝突するし、個人的な感情を優先させれば、足元をすくわれてしまう。
意地を通そうとするとがんじがらめになってしまう。
何にせよ世間は生きづらい。
 
というような意味です。
 
「情に棹差す」の「情」はある人や物に対する特別な感情のこと。
「棹」は、船を進めるためのオールのことです。
川底に棹を差してブレーキをかけるイメージを持つかもしれませんが、
そうではありません。川底に突き立てて、力を入れて進めることを
「棹差す」と表現します。
住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。
人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て(くつろげて)、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。
あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。
画家である主人公の、芸術に対する信頼が伺えます。
人の世って生きにくいよね、ってところで多くの人の共感を得て、この冒頭文は有名になっているのだと思うけど、「生きにくいよね」から「人の心を豊かにする芸術は尊い」という結論に向かう精神がかっこいい。

夏目漱石『草枕』冒頭の勝手な解釈(現代語?訳)①
僕らの住む人の世は窮屈で住みにくい。
よく頭を使ってうまく立ち回ろうとすれば「せこい」とか「ずるい」とか「要領が良いだけ」とか「八方美人」とか「信用できない」とか「自分のことしか考えてない」とか「卑怯」とか言われてしまうし
感情に流されてしまうと反対に騙されたり、人目を気にしすぎてビクビクしてしまったり、自分が良い目にあうことに罪悪感を抱いてしまったり、関わるべきでないことに関わってしまったりして損をしてしまう
じゃあもう良いや自分は自分らしく生きよう、自分はこう思うからこうするんだと言い張って、自分を尊重しようと思ったらヒンシュクを買うばかりでかえって窮屈極まりない。
もぅどないせっちゅうねん…人の世はルールブックの用意されていないゲームで、都度ルールが変わるゲームで、みんな勝ちたくて勝ちたくて仕方ないのに誰も勝っちゃいけないゲームみたいだ。
じゃあそんな煩わしいルールのないところへ行こう。そこにはルールがないから…ああそうか、みんなやりたい放題でやったもん勝ちの弱肉強食の世界だ。
そんな殺伐とした世界よりは、人の世の方がいくらか住みやすいに違いない。
( Kikuko I.info より)
夏目漱石『草枕』の勝手な解釈(現代語?訳)②
人の世が住みにくいと思うなら、人の世が少しでも生きやすいところとなるように工夫しなきゃならないだろう。
僕らはとにかく疲れている。
人同士であることに。
人と人は同じ心を持っていながら分かり合えないという事実に。
人はみんな自分のことしか考えていないという疑心に。
その心を少しでも寛がせるためにも、限られた命を素晴らしい経験にするためにも、芸術というものは必要である。
なぜなら、心がなければ芸術を解することはできず、心があるからこそ生まれ出るものが芸術だから。
我々の心が住みにくさを作っているのであれば、我々の心を肯定する人間が必要で、それが芸術家だろう。
すべての芸術家は、人の心を長閑にして、人の心を豊かにするから尊い。
(カキコミタウン ブログより引用 11.28 )
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地球明かりで本を読む

2019年12月02日 00時09分00秒 | Weblog

地球明かりで 本を読む


月明かりならぬ地球明かりで
一人静かに本を読む

今朝の新聞(11/18)で
俳句欄を見ていたら
「地球明かり」という言葉が
目に入ってきた

えっ、「地球明かり」って?

あっ、そうかあ
「月明かり」のように
月面に立つと「地球明かり」に
なるそうだが その場では
どんな感じになるのだろうか

新聞の記事(俳句撰者)に拠れば
「満月」ならぬ「満地球」のとき
その明るさは
約七十倍にもなるそうだ

その時は
かなり眩しくて
きっと本の活字なんかも
ちゃんと読めるのではなかろうか

晩秋から冬の夜空は
冴え渡っていて
キンキンしてて
寒さは別にして
好きな景色の一つだ

子どもの頃
隣家にテレビを観に行って
その帰りに見た冬の夜空は
キリリとしていて印象的である

ps2019.11.18
近頃 月が
また脚光を浴びている
月の裏側を探査したり
最近は 月での基地づくり
そして 
月の「土地」所有を模索したり
資源さえ探査しようと試みている

月は宇宙全体のものだ

所有したり削り取ろうとしたり
実に情けないことだ
嘆かわしいことだ
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阿蘇は火の山 煙吐く山

2019年12月02日 00時01分00秒 | Weblog
阿蘇は火の山 煙吐く山


僕は 毎日
チャリンポしながら
阿蘇の外輪山を眺める

そして 時々
阿蘇の噴煙を見る

僕はかつて
阿蘇谷に住んでいた
(40年位前のことだ)
転居の直前に
阿蘇山は
中規模の噴火をしていて
上りの道付近は
火山灰だらけだった

阿蘇中岳の火口には
何度も行って
中を覗き込んだこともある
確か柵らしい柵はなくて
とてもスリリングだった

11月の最終日
晩秋の穏やかな晴天

久しぶりに車で
夫婦で阿蘇谷に出かけた

最初は 
西原村の萌の里が
目的地だったが
斜面の草原で弁当を食べたら
もっと阿蘇の先まで
行きたくなったので
二人で相談し
以前よく訪ねていた
白川の水源地辺りまで
行くことにした

車を走らせること約30 分位で
途中の「あそ望の郷くぎの」に寄り
写真を撮ったり
お土産を買ったりして
いよいよ高森町を目指した

だが 途中のリンゴ園が
晩秋のため閉園しているようで
やむなく高森町から引き返し
南阿蘇村の白川水源に向かった

水源地は 直ぐそばで
近くの駐車場に車を停めて
歩いて水源地に行った

熊本地震の影響は
いくらかあったと思うが
三十年前頃の様子と余り変わらずに
透明で綺麗な清水を
コンコンと湧き出している

娘たちと訪ねて
小さな河原に下りて
水遊びをしたのが
ついこの前のようだ‥
(ただ、現在は 河原に下りて
遊んだりするのはできないようだ)

萌の里から外輪山を越え
阿蘇の五岳を眺めたら
濃いグレーの煙が
モクモクと空に昇っていた

あぶく状に段々にモクモクと
上の方に立ち上がっている

それを見ていて 私は
言い知れぬ感慨に襲われた

説明は難しいが
怖いような でも
何だか懐かしいような
畏敬の念を覚えるような
奇妙な変な気分だった

何万年も前から
絶えることなく
噴煙や湯煙を吐き続けている阿蘇山は
見ているこちらの存在なんか
消し粒みたいだなと思った

来年もまた二人で来ようね
って 帰りのドライブで
二人でそう話したことだ



ps2019.11.30 草稿 12.1 追記
10歳の頃 初めて阿蘇を訪れ
秋の草原に感動して
30歳頃に阿蘇に引っ越して
3年間阿蘇で働いた想い出

その後も 夫婦で
初夏や秋に
何度も阿蘇を訪ねた

地元にいると 地元のことを
つい後回しにしがちだが
足元のものこそ
大事にしなければならないと思う
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