今日の天声人語にはムカついた。
http://www.asahi.com/paper/column20110520.html
いつもと違って、前段に余計な前置きがなく、何だか綺麗にまとめているような流れだったのだが・・・
最後の文章で、目がテンになった。
『2011年春、万の人口が瞬時に失われた。喪に服す列島がにわかに放つ結婚熱は、欠けた命を補う営みにも見える。種族の本能といえば大仰だが、少子化に一矢報いるべく、慶弔が攻守ところを変えるなら喜ばしい。この国はまだ生きている』
一般的に、震災によって一人でいることに不安を感じるようになった人たちが、結婚に走ることは、別におかしなことではない。
むしろ、喜ばしいことだ。
しかし、「欠けた命を補う営み」とは、どういう意味だ?
「慶弔が攻守ところを変えるなら喜ばしい」とは、震災で多くの人が亡くなったけれど、一方で新しい命が生まれるからいいじゃないか、ということなのか?
言うまでもないことだが、震災でなくなった人たちは、いわゆる「高齢=寿命」で亡くなった人ではない。
不慮の天災・事故(一部は人災)により、不幸にして亡くなった人たちである。
そういう人たちにとって、新しい命がどうのこうのなどということは関係ない。
「家族を返してくれ!」と思っているに違いないのに、この天声人語子は、そんな人たちに冷や水を浴びせるつもりか?
それに、この際結婚に走る人たちだって「震災で亡くなった人の分、私たちが補ってあげる」などと思っている人など、一人もいないだろう。
つまり、震災で亡くなった人たちと、今結婚に走っている人たちとは、本来関連がないはずだ。
にもかかわらず、無理やり結びつける、この感性。
自分では、「うまいことを言った」つもりでいるのだろうか。
お前は、震災で家族をなくした人たちに向かって「慶弔が攻守ところを変えるなら喜ばしいじゃないですか」などと言えるのか?
新たに子供をもうけようとしている人たちに向かって「震災で、たくさんの人が亡くなっているのだから、お前らがんばれ!」と言えるのか?
今日のコラムは、震災で家族を失った人にも、新たに家族を作ろうとしている人たちにも、双方に対して失礼なものではなかろうか。
これって、考えすぎですか?
http://www.asahi.com/paper/column20110520.html
いつもと違って、前段に余計な前置きがなく、何だか綺麗にまとめているような流れだったのだが・・・
最後の文章で、目がテンになった。
『2011年春、万の人口が瞬時に失われた。喪に服す列島がにわかに放つ結婚熱は、欠けた命を補う営みにも見える。種族の本能といえば大仰だが、少子化に一矢報いるべく、慶弔が攻守ところを変えるなら喜ばしい。この国はまだ生きている』
一般的に、震災によって一人でいることに不安を感じるようになった人たちが、結婚に走ることは、別におかしなことではない。
むしろ、喜ばしいことだ。
しかし、「欠けた命を補う営み」とは、どういう意味だ?
「慶弔が攻守ところを変えるなら喜ばしい」とは、震災で多くの人が亡くなったけれど、一方で新しい命が生まれるからいいじゃないか、ということなのか?
言うまでもないことだが、震災でなくなった人たちは、いわゆる「高齢=寿命」で亡くなった人ではない。
不慮の天災・事故(一部は人災)により、不幸にして亡くなった人たちである。
そういう人たちにとって、新しい命がどうのこうのなどということは関係ない。
「家族を返してくれ!」と思っているに違いないのに、この天声人語子は、そんな人たちに冷や水を浴びせるつもりか?
それに、この際結婚に走る人たちだって「震災で亡くなった人の分、私たちが補ってあげる」などと思っている人など、一人もいないだろう。
つまり、震災で亡くなった人たちと、今結婚に走っている人たちとは、本来関連がないはずだ。
にもかかわらず、無理やり結びつける、この感性。
自分では、「うまいことを言った」つもりでいるのだろうか。
お前は、震災で家族をなくした人たちに向かって「慶弔が攻守ところを変えるなら喜ばしいじゃないですか」などと言えるのか?
新たに子供をもうけようとしている人たちに向かって「震災で、たくさんの人が亡くなっているのだから、お前らがんばれ!」と言えるのか?
今日のコラムは、震災で家族を失った人にも、新たに家族を作ろうとしている人たちにも、双方に対して失礼なものではなかろうか。
これって、考えすぎですか?
だとしたら、やはり軽率だと思いますが。
ニューヨークの大停電の時のように、死者がいない、というわけではないのですから。