昨日、Netflixでドキュメンタリー作品「ポップスが最高に輝いた夜」を見た。
https://www.webvanda.com/2024/04/we-are-wolrdthe-greatest-night-in-pop.html
1985年に世界的に大ヒットしたあの名作「ウィ・アー・ザ・ワールド」の制作舞台裏を振り返るドキュメンタリーだ。
主にライオネル・リッチーが中心となって、当時の様子を振り返っていた。
この曲は、レコードも持っていて何度も何度も聞いているし、当時のレコーディングの様子を記録したビデオも見たことがある。
私の理解では、先にイギリスでボブ・ゲルドフというアーティストが、「Do They Know It’s Christmas」というチャリティソングの制作を提唱し、イギリスの主だったアーティストが参加して先陣を切ったこと。
その後、ボブがアメリカに渡り、ライオネル・リッチーに話をして「アメリカでも同じようなことをしよう」と提案したことが発端、だと思っていた。
ところが、今回私の理解が一部間違えていたことがわかり、これまで知らなかったことが結構でてきた。
まず、発端は「バナナボート」で有名なハリー・ベラフォンテが、敏腕プロデューサーであるケン・クラーゲンに電話をして、「アフリカ飢餓救済の力を貸してほしいと」いう依頼したことだという。
その理由は、「黒人を救う白人はいるが、黒人を救う黒人はいない。問題だ。私たちが救わないと」ということであり、実際イギリスの「Do They Know It’s Christmas」の場合、参加したアーティストは大半が白人だった。
その後、依頼を受けたケン・クラーゲンは、すぐに当時すでに大物のアーティスト・プロデューサーとして名声を馳せていたクインシー・ジョーンズに話を持っていく。
クインシーは、この作曲をライオネル・リッチーとスティーヴィー・ワンダーに依頼しようとしたが、スティーヴィーはいくら連絡しても捕まらないため、ライオネル・リッチーの提案でマイケル・ジャクソンとともに作ることに決定。
以下、主なエピソードを箇条書きにしてみる。
・曲が出来上がったのはレコーディングの8日前。その後参加メンバーに招待状とともにデモテープを送った。
・レコーディングは1月28日の一日で完成させた。
⇒有名なアーティストほどスケジュールは数か月先もパンパンに埋まっているため、確保することが難しく、結局アメリカン・ミュージック・アワード(AMA)という一大イベントが開催される当日の夜から録音を開始することに決定。中には、ブルース・スプリングスティーンみたいに、全米ツアーが終わった後、会場まで駆け付けたアーティストも何人かいた。
・当時の大物アーティストのうち、招待されたけど来なかったのはプリンス、招待そのものがされなかったのはマドンナ(プロデューサーがシンディ・ローパー派だったから?)
・集まったのは大物ばかりで、ポール・サイモンが「ここに爆弾が落ちたらチャートが変わる」と言ったそうだが、それくらいビルボードチャートの上位を占める面々が集まったわけだ。
・ただし、メンバーの中で要注意人物として警戒されていたのがシンディ・ローパーとスティーヴィー・ワンダー。理由は何を言い出すか、何をしだすかわからないから。
・実際コーラス録音時に、スティーヴィー・ワンダーがスワヒリ語を入れたいと勝手に歌い出すというひと悶着があったが、レイ・チャールズの「さあ、やろうぜ」の一言でその場が落ち着いた。
・上述のようにちょっと重苦しい雰囲気があったのだが、コーラスの合間の休憩時間にシンディ・ローパーが楽譜を持ってダリル・ホールのところに行ったので、何をするのかと思っていたら「私、あなたのファンなの。サインを頂戴」だった。これをきっかけに、参加メンバーによるサイン交換会(?)があちこちで行われて、一気に場の雰囲気が和んだという。型破りなシンディの行動が、ここではいい方向に出たらしい。
・ソロパートの録音に入った時、それまで来ると信じていたプリンスが結局来ないとわかったため、彼のパートとして用意されていた部分はヒューイ・ルイスが代わりに歌うこととなった。理由は、音域が似ているから。帰ろうとしていたヒューイ・ルイスは「ものすごく緊張した」と言っていた。
・ソロパートで一番大変だったのが、ボブ・ディランのパート。彼は普通(?)に歌えないため、本人も相当混乱していたのだが、そこに登場するのがスティーヴィー・ワンダー。天性の耳の良さでボブ・ディランの歌いまわしをその場で真似てみせながら、彼が歌いやすいようなメロディーに替えた。だから、ボブ・ディランの部分だけ本来のメロディーではないわけだ。
https://note.com/otatsu_69na8s/n/nde533a1cdb67
これ以外にもたくさんのエピソードがあり、いずれにしても大変な一日だったようだけど、この一大イベントを仕切ったのがクインシー・ジョーンズであり、彼は仲間と相談しながら、各アーティストの立ち位置やソロパートの順番・組み合わせまで、すべて事細かに決めている。
しかも、よく言えば個性豊かな、悪く言えばわがままなアーティスト達をちゃんとまとめ上げたのだから、「お見事!」とか言いようがない。
なお、この時のチャリティは、現在でも継続されていて、2024年のこの段階で、寄付金は約1億6000万ドルにも及び、今もその寄付は増え続けているそうだ。
もう二度と実現できそうにない大イベントの裏側を見て、あらためて感動してしまいました。
余談だけど、イギリス版の方は、それほど話題にならず、たいした成功を収められなかった。
それは、ボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)やボノ(U2)、ジョージ・マイケル(ワム)、ポール・ヤングなど結構なメンバーが揃っているものの、超大物アーティストのうち、ポール・マッカートニーはコメントだけの参加だし、エルトン・ジョンやクイーンのフレディ・マーキュリーなどは参加していない上に、そもそも歌がクリスマスソングだったことにあると思っている。
ただ、このバンドエイドを提唱したボブ・ゲルドフやハリー・ベラフォンテにはホントに敬意を表します。
ついでに言うと、この「ウィ・アー・ザ・ワールド」の成功を受けて、実はヘビメタ・ハードロック界でも、同様のイベントが開催されている。
それが「ヒア・アンド・エイド(Hear 'n Aid)」であり、こちらの方はDIOというグループのメンバーだったヴィヴィアン・キャンベルとジミー・ベインが提案し、それをリーダーのロニー・ジェームス・ディオがまとめ上げたものだ。
こちらも、モトリー・クルー、アイアン・メイデン、ジューダス・プリースト、クワイエット・ライオット、ドッケンなど、錚々たるメンバーが揃っている。
こちらもファンとっては必見です。
https://www.webvanda.com/2024/04/we-are-wolrdthe-greatest-night-in-pop.html
1985年に世界的に大ヒットしたあの名作「ウィ・アー・ザ・ワールド」の制作舞台裏を振り返るドキュメンタリーだ。
主にライオネル・リッチーが中心となって、当時の様子を振り返っていた。
この曲は、レコードも持っていて何度も何度も聞いているし、当時のレコーディングの様子を記録したビデオも見たことがある。
私の理解では、先にイギリスでボブ・ゲルドフというアーティストが、「Do They Know It’s Christmas」というチャリティソングの制作を提唱し、イギリスの主だったアーティストが参加して先陣を切ったこと。
その後、ボブがアメリカに渡り、ライオネル・リッチーに話をして「アメリカでも同じようなことをしよう」と提案したことが発端、だと思っていた。
ところが、今回私の理解が一部間違えていたことがわかり、これまで知らなかったことが結構でてきた。
まず、発端は「バナナボート」で有名なハリー・ベラフォンテが、敏腕プロデューサーであるケン・クラーゲンに電話をして、「アフリカ飢餓救済の力を貸してほしいと」いう依頼したことだという。
その理由は、「黒人を救う白人はいるが、黒人を救う黒人はいない。問題だ。私たちが救わないと」ということであり、実際イギリスの「Do They Know It’s Christmas」の場合、参加したアーティストは大半が白人だった。
その後、依頼を受けたケン・クラーゲンは、すぐに当時すでに大物のアーティスト・プロデューサーとして名声を馳せていたクインシー・ジョーンズに話を持っていく。
クインシーは、この作曲をライオネル・リッチーとスティーヴィー・ワンダーに依頼しようとしたが、スティーヴィーはいくら連絡しても捕まらないため、ライオネル・リッチーの提案でマイケル・ジャクソンとともに作ることに決定。
以下、主なエピソードを箇条書きにしてみる。
・曲が出来上がったのはレコーディングの8日前。その後参加メンバーに招待状とともにデモテープを送った。
・レコーディングは1月28日の一日で完成させた。
⇒有名なアーティストほどスケジュールは数か月先もパンパンに埋まっているため、確保することが難しく、結局アメリカン・ミュージック・アワード(AMA)という一大イベントが開催される当日の夜から録音を開始することに決定。中には、ブルース・スプリングスティーンみたいに、全米ツアーが終わった後、会場まで駆け付けたアーティストも何人かいた。
・当時の大物アーティストのうち、招待されたけど来なかったのはプリンス、招待そのものがされなかったのはマドンナ(プロデューサーがシンディ・ローパー派だったから?)
・集まったのは大物ばかりで、ポール・サイモンが「ここに爆弾が落ちたらチャートが変わる」と言ったそうだが、それくらいビルボードチャートの上位を占める面々が集まったわけだ。
・ただし、メンバーの中で要注意人物として警戒されていたのがシンディ・ローパーとスティーヴィー・ワンダー。理由は何を言い出すか、何をしだすかわからないから。
・実際コーラス録音時に、スティーヴィー・ワンダーがスワヒリ語を入れたいと勝手に歌い出すというひと悶着があったが、レイ・チャールズの「さあ、やろうぜ」の一言でその場が落ち着いた。
・上述のようにちょっと重苦しい雰囲気があったのだが、コーラスの合間の休憩時間にシンディ・ローパーが楽譜を持ってダリル・ホールのところに行ったので、何をするのかと思っていたら「私、あなたのファンなの。サインを頂戴」だった。これをきっかけに、参加メンバーによるサイン交換会(?)があちこちで行われて、一気に場の雰囲気が和んだという。型破りなシンディの行動が、ここではいい方向に出たらしい。
・ソロパートの録音に入った時、それまで来ると信じていたプリンスが結局来ないとわかったため、彼のパートとして用意されていた部分はヒューイ・ルイスが代わりに歌うこととなった。理由は、音域が似ているから。帰ろうとしていたヒューイ・ルイスは「ものすごく緊張した」と言っていた。
・ソロパートで一番大変だったのが、ボブ・ディランのパート。彼は普通(?)に歌えないため、本人も相当混乱していたのだが、そこに登場するのがスティーヴィー・ワンダー。天性の耳の良さでボブ・ディランの歌いまわしをその場で真似てみせながら、彼が歌いやすいようなメロディーに替えた。だから、ボブ・ディランの部分だけ本来のメロディーではないわけだ。
https://note.com/otatsu_69na8s/n/nde533a1cdb67
これ以外にもたくさんのエピソードがあり、いずれにしても大変な一日だったようだけど、この一大イベントを仕切ったのがクインシー・ジョーンズであり、彼は仲間と相談しながら、各アーティストの立ち位置やソロパートの順番・組み合わせまで、すべて事細かに決めている。
しかも、よく言えば個性豊かな、悪く言えばわがままなアーティスト達をちゃんとまとめ上げたのだから、「お見事!」とか言いようがない。
なお、この時のチャリティは、現在でも継続されていて、2024年のこの段階で、寄付金は約1億6000万ドルにも及び、今もその寄付は増え続けているそうだ。
もう二度と実現できそうにない大イベントの裏側を見て、あらためて感動してしまいました。
余談だけど、イギリス版の方は、それほど話題にならず、たいした成功を収められなかった。
それは、ボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)やボノ(U2)、ジョージ・マイケル(ワム)、ポール・ヤングなど結構なメンバーが揃っているものの、超大物アーティストのうち、ポール・マッカートニーはコメントだけの参加だし、エルトン・ジョンやクイーンのフレディ・マーキュリーなどは参加していない上に、そもそも歌がクリスマスソングだったことにあると思っている。
ただ、このバンドエイドを提唱したボブ・ゲルドフやハリー・ベラフォンテにはホントに敬意を表します。
ついでに言うと、この「ウィ・アー・ザ・ワールド」の成功を受けて、実はヘビメタ・ハードロック界でも、同様のイベントが開催されている。
それが「ヒア・アンド・エイド(Hear 'n Aid)」であり、こちらの方はDIOというグループのメンバーだったヴィヴィアン・キャンベルとジミー・ベインが提案し、それをリーダーのロニー・ジェームス・ディオがまとめ上げたものだ。
こちらも、モトリー・クルー、アイアン・メイデン、ジューダス・プリースト、クワイエット・ライオット、ドッケンなど、錚々たるメンバーが揃っている。
こちらもファンとっては必見です。
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