ここのところ食品の虚偽表示問題が大きく取り上げられている。
私なんぞは、「高い!」と思ったら、たとえ本物の食材であっても食べる気がしないので、それなりの価格が表示されている時点で敬遠してしまう。
という以前に、ホントは単に「本物の味」自体が理解できないだけなんだけど・・・
しかし、世の中には「本物の味」なんかわからないくせに、価格を聞いただけで「いやあ、さすが○○、美味しいわい」などと絶賛する人が確かに存在する。
そんな人がいる限り、虚偽表示なんてなくならないだろう。
ただ「希少価値がある」というだけで、たいして美味くもないのに価格が跳ね上がっているモノが結構あると思っているのだけど、そんなものより、わたしゃその辺の鶏肉や豚肉で十分!
さて、「虚偽」と言えば朝日新聞だけど、そんな朝日新聞の看板コラムが、大胆にも「ウソ」について講釈をタレている。
例によって全文引用する。
<11月7日の天声人語>
ウソという言葉を、もっと大切に保存しておきたい。そういったのは民俗学の柳田国男である(「ウソと子供」)。「歴史のある佳(よ)い言葉」だからだ。かつて上手なウソには笑いが伴った。戯れのような面があった▼秀吉が酒を禁じていた時、ある家来が真っ赤な顔で御前に出た。寒いので焚(た)き火に当たっていたとの言い分。嗅いでみると樽柿(たるがき)臭い。飲んだに相違ないと迫るが、答えていわく、柿の木を焚いておりました。太閤(たいこう)は笑っただろうと柳田はいう▼ウソらしきウソはつくとも、誠らしきウソはつくな。柳田によれば、本当でないとすぐわかるのがウソであり、「相手を視(み)て常にその智力(ちりょく)相応に」繰り出すのが本来である。ここには作法があり、身につけるには修行が必要なのだった▼食の偽装の際限ない広がりにはあきれる。しかし、これをウソつきとなじるのは柳田流にいえばウソに失礼ということになる。調理された「芝エビ」を本物でないと見破るのは私たちには不可能に近い▼どうせ味はわかるまいと客を見くびっていたのだろう。偽るとは真実を隠し人をだますことだが、欺くという言葉もある。嘲笑(あざわら)うにも通じるらしく、相手を馬鹿にして操るという意味が加わる。今回、嫌な感じがするのはまさにこの点だ▼ちなみに柳田は幼児のウソを「いたいけな智慧(ちえ)の冒険」と慈しんでいる。叱るでなく、信じた顔をするでなく、興ざめするでもなく、存分に笑うのがよいという。そうすれば明るく元気に育つだろう、と
新聞という公器でウソばかりをタレ流してきた朝日新聞が、まさか「ウソ」というテーマでコラムを書くとは思わなかったのだが、そこは「いくらウソだと指摘されてもゼッタイに訂正・謝罪しなかった新聞」だけのことはある。
だから「誠らしきウソはつくな」というのも、「真実と称してウソをついている」朝日新聞にとっては、皮肉にはならないのだろう。
そんな朝日新聞が「智力」とか「作法」とか「修行」とか、よく言えたものだと思う。
『調理された「芝エビ」を本物でないと見破るのは私たちには不可能に近い』というのは、つまり「オレたちがついているウソを、お前ら庶民に見破ることは不可能だよ」という意味なんだろうか。
そう考えると、最後の一文『叱るでなく、信じた顔をするでなく、興ざめするでもなく、存分に笑うのがよいという。そうすれば明るく元気に育つだろう』というのは、何が言いたいのか意味がわからない。
オレたちに文句言うなよ、ということなのか?
私なんぞは、「高い!」と思ったら、たとえ本物の食材であっても食べる気がしないので、それなりの価格が表示されている時点で敬遠してしまう。
という以前に、ホントは単に「本物の味」自体が理解できないだけなんだけど・・・
しかし、世の中には「本物の味」なんかわからないくせに、価格を聞いただけで「いやあ、さすが○○、美味しいわい」などと絶賛する人が確かに存在する。
そんな人がいる限り、虚偽表示なんてなくならないだろう。
ただ「希少価値がある」というだけで、たいして美味くもないのに価格が跳ね上がっているモノが結構あると思っているのだけど、そんなものより、わたしゃその辺の鶏肉や豚肉で十分!
さて、「虚偽」と言えば朝日新聞だけど、そんな朝日新聞の看板コラムが、大胆にも「ウソ」について講釈をタレている。
例によって全文引用する。
<11月7日の天声人語>
ウソという言葉を、もっと大切に保存しておきたい。そういったのは民俗学の柳田国男である(「ウソと子供」)。「歴史のある佳(よ)い言葉」だからだ。かつて上手なウソには笑いが伴った。戯れのような面があった▼秀吉が酒を禁じていた時、ある家来が真っ赤な顔で御前に出た。寒いので焚(た)き火に当たっていたとの言い分。嗅いでみると樽柿(たるがき)臭い。飲んだに相違ないと迫るが、答えていわく、柿の木を焚いておりました。太閤(たいこう)は笑っただろうと柳田はいう▼ウソらしきウソはつくとも、誠らしきウソはつくな。柳田によれば、本当でないとすぐわかるのがウソであり、「相手を視(み)て常にその智力(ちりょく)相応に」繰り出すのが本来である。ここには作法があり、身につけるには修行が必要なのだった▼食の偽装の際限ない広がりにはあきれる。しかし、これをウソつきとなじるのは柳田流にいえばウソに失礼ということになる。調理された「芝エビ」を本物でないと見破るのは私たちには不可能に近い▼どうせ味はわかるまいと客を見くびっていたのだろう。偽るとは真実を隠し人をだますことだが、欺くという言葉もある。嘲笑(あざわら)うにも通じるらしく、相手を馬鹿にして操るという意味が加わる。今回、嫌な感じがするのはまさにこの点だ▼ちなみに柳田は幼児のウソを「いたいけな智慧(ちえ)の冒険」と慈しんでいる。叱るでなく、信じた顔をするでなく、興ざめするでもなく、存分に笑うのがよいという。そうすれば明るく元気に育つだろう、と
新聞という公器でウソばかりをタレ流してきた朝日新聞が、まさか「ウソ」というテーマでコラムを書くとは思わなかったのだが、そこは「いくらウソだと指摘されてもゼッタイに訂正・謝罪しなかった新聞」だけのことはある。
だから「誠らしきウソはつくな」というのも、「真実と称してウソをついている」朝日新聞にとっては、皮肉にはならないのだろう。
そんな朝日新聞が「智力」とか「作法」とか「修行」とか、よく言えたものだと思う。
『調理された「芝エビ」を本物でないと見破るのは私たちには不可能に近い』というのは、つまり「オレたちがついているウソを、お前ら庶民に見破ることは不可能だよ」という意味なんだろうか。
そう考えると、最後の一文『叱るでなく、信じた顔をするでなく、興ざめするでもなく、存分に笑うのがよいという。そうすれば明るく元気に育つだろう』というのは、何が言いたいのか意味がわからない。
オレたちに文句言うなよ、ということなのか?
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