読売新聞の「四季」欄に、瀬戸内寂聴さんの句が10間にわたり載っていた。
昔、昔もう50年も前。
寂聴さんが、瀬戸内晴美さんを名乗っていた頃の事。
まだ学生だった私は、彼女の講演を聴きに行ったことがある。
その頃、文芸春秋社の後援事業だったと思うだけれど、全国を著名な作家や文化人が 、講演をして回っていた。
瀬戸内晴美さんの講演を街の文化センターに聴きに行った。前列の席に陣取っていた私。
瀬戸内晴美さんを見たとたん
(なんて 美しい人なのだろう)と魅せられてしまった。
顔の美醜を云えば、美しい人は沢山いる。
しかし内からあふれでている、そう内面の美しさが滲み出て光輝いている女性を始めて見たと感じた。
今も覚えている。紅型模様の着物に空色の帯を締めていた。ひっつめた髪を後ろでひとつに結っていた。
人間の美しさを考えるようになったのはその頃から。
出家をして、髪を落とし、寂聴を名乗り、今も活躍をしている。
先だって、山尾志桜里さんが、不倫をした時、肯定的な意見を言っていた。
相手の弁護士が、離婚をした。
誰かが、不幸になった。。。。と思っている。
詳しいことは所詮ニュース記事にすぎず、プライバシーもあることだし他人が何をしようが構わないが。ああーあ!
寂聴さんも、奥様のいる方との長いお付き合い。家を出た時のいきさつ、みんな承知の事実である。
今思えば、あの充実した女の美しさは、恋の真っ最中の時期と符合をする。
恋は結構なことです。
☆ 羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
寂聴さんの波乱万丈の人生。その一瞬の女として照り映えていた頃に講演会で見た彼女を美しいと感じた記憶が甦った、昨日今日である。
人を悲します恋は、私はいくら寂聴さんの意見でも否定をする。
「四季」の句は枯れた人間の悟りの句である。清々しい童女になるまで、、、
白い雪を染めるような赤い血を幾たび流したか、雪こんこんと唄っている老女がそこにいる。