昨日は少し足を伸ばして、弘法様が杖を叩くとそこから水がわき出したという伝説が残っている場所まで登って行った。
日照りで水が枯れてもここ「加持水」と名付けられた泉はいつもこんこんと水が湧き出ている。
石佛が坐しており朱い真っ新の毛糸の帽子がどなたかによってかぶせられていた。
屋島寺へ登る遍路道はいくつかあって、以前からここもその遍路道だと気づいていたが登るのは初めて。
なだらかな勾配を行く。両脇は猪垣が巡らされている。
途中には蜜柑畑もある。遍路道とはいえ、私有地を貫いてい、綺麗に整備されている道を、屋島寺を目指して行く。
最近、白洲正子の「ほんもの」という随筆集を読んでいる。
世の中にはこんな「有閑マダム」もいたのだ。
本人は有閑マダムとは思っていないし、云われるのも心外らしい。
しかし、少し毒気のある、(毒気など無い。下々庶民の貧しい生活は興味なく、いわゆる本人の云う世間見ずが鼻につく)文才もある、骨董やお能が趣味の有閑マダムにしか私には思えない。良し悪いで言っているのではなく、羨ましく生活の為に働いたことも無い幸福な上流階級の住人には違いない。
以前に読んだ「青山二郎」の事を書いた本。
彼女は「青山学院」の後期の塾生?で骨董から文芸から彼の薫陶なしでは語れない存在だ。
『青山二郎とは、とは - 1901年-1979年。古陶磁器研究家、装丁家、評論家。東京市麻布区(東京都港区)の大地主の家に生まれる。生家は徳川家に重臣として仕えた青山明治34年東京都麻布区の資産家の家に生まれた。幼い頃から絵画や映画に興味を持ち、自らも画才を発揮した。
「俺は日本の文化を生きているのだ」が口癖だった男。あまりにも純粋な眼で、本物を見抜いた男。永井龍男、河上徹太郎、大岡昇平といった錚々たる昭和の文士たちの精神的支柱として「青山学院」と呼ばれた男。あいつだけは天才だ、と小林.』
ああそうですか。青山二郎がよく登場しますね。それに小林秀雄。一流の方々とのお付き合いで培われた日常生活をくまなく描いている。
白洲正子を読んでいると自分が小さい小さい人間で、はてさて同じ人間に生まれながら、環境によっては人間にこんな「差」がつくのかと思う。
白洲正子の言葉で「世間見ず」と自分の事を書いている。我々庶民は大きな世界を知らぬ「世間知らず」と表現をする。
あああ、、、どうでも良い。
私の(ほんもの)は弘法大師さまにすがって、安寧なひと時を自然の中でしずかに過ごす極上の幸せな空間が傍に転がっていて、いつでも接することが叶う。
「ほんもの」があるではないかと歩きながら考えた。
そんな昨日の屋島散歩だった。
野良に餌やりに通ふ師走半