Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

沖縄戦跡「チビチリガマ」損壊事件の背景は・・

2017-10-07 10:21:09 | 社会・経済

先月の事だが、沖縄・読谷(よみたん)の洞窟戦跡「チビチリガマ」内部が大きく荒らされ、集団自決を余儀なくされたと言われる、犠牲各位の遺品や、慰霊の千羽鶴、メッセージなどが大損壊される事件があった。実行犯とされる容疑者は、いずれも十代の地元未成年男子四名で、全員が逮捕容疑を認め、全てか否かは不明も、多くが重要戦跡の事情を知らず、一部で話題の、心霊スポットに該当とかで、肝試しのつもりで立入り、揚句、内部の遺構遺品などを、悪ふざけの勢いで損壊に及んだとされる。容疑者全員が、沖縄県下の那覇家裁送致となった件。この事を、少し見て参りたいと思う。

当該史跡 チビチリガマは、沖縄県読谷村(よみたんそん)の「ガマ」と呼ばれる自然洞窟。1945=昭和20年春の日米沖縄戦の際、当時の住民約 140人が避難も、米合衆国軍 沖縄本島上陸翌日の 4/2、内 83人が「集団自決」をしたとされる。毛布などに着火「地獄絵図さながらの惨状」になったとされる。遺族各位は、長年に亘り多くを語らず、戦後 38年の、昭和末期に至って真相が明らかになった。1987=昭和62年、遺族各位により入口に「世代を結ぶ平和の像」が建立(こんりゅう)も、同年、国粋系運動員によるとされる損壊事件が発生。同年の、沖縄国民体育大会 読谷村会場で掲揚の国旗「日の丸」が、一部村民に毀損された行動への報復意図からと言われる。同像は 1995=平成7年に再建。

本件の報に接して、拙者は、平和学習の場としても重視される、この史跡の損壊事件が、昨今特に問題視される、健全な歴史教育の不在が生じた、との想いを強くするものだ。確かに、昭和末期の「世代を結ぶ平和の像」損壊の時と異なり、踏み込んだ政治思想の背景がなかったとは言え、事前の教育が、地元地域に徹底しておれば、防げた可能性が大きくある。拙者の地元やその郊外の、名古屋・熱田空襲、そして同じく空襲の標的となった、豊川海軍工廠跡などは、共に犠牲多数を生じるも、戦跡として、今日まで適正に管理され、当時の惨状を今に伝える、重い歴史資料となっている。実行犯とされる若者達の、刑事問責は当然行われるべきとして、戦中の我国本土への不信や反感が払拭とは行かず、又、駐留する米合衆国軍基地への芳しくない感情も根強い沖縄で、何故この様な事件が生じたかを、教育関係各位は重く受け止め、真摯に謙虚に総括し、振り返る必要がありはしないか。

反基地闘争の地元住民を支援するとされる左派野党や日教組の勢力は、この様な事件を、よもや見過ごし放置する事はあるまいと思うが「案外」と言う可能性もある。地元自治体は、この事件を機に、こうした被害に遭う可能性ある戦跡を、学習目的の見学などに限定し、立入に当たっては、そうした目的を有する人々だけにする様、一定の規制を設けるのもやむを得ない気もするのだが。自称リベラル、実は左派の諸勢力が、最早聞き飽きる程に口走る「自由と平和」とか「人類の理想」とか言う空虚な言葉だが、それがもう通用しない事を、本件は実証している。

或る地元の方は「戦後長く続いた『平和ボケ』が事件の根底にある様に感じる」と語られていたが、拙者も同感だ。異なる分野で恐縮だが、対人、そして家族の事共の思考に欠かせない性教育同様、若い世代向けの戦史の教育も、同様かそれ以上に必要ではないのか。「二度と戦争を繰り返さない!」とか、お題目(スローガン)を繰り返すだけでなく、こうした戦跡が、戦争と向き合う大切な場である事を、幼時から、若い内から正しく教え、地道に指導する努力を継続して行わない限り、同様の不祥事は繰り返される様に思う。今回画像は、今世紀初め、父の故郷・長崎近郊を訪ねた折、足を延ばした島原半島 南島原市・口之津漁港近くを行く、島原鉄道南線の様子。「平和の風景」そのもののこの辺りも、訪問後間もなく 鉄道線廃止(島原外港以北のみ現存)。様変わりしてしまった様です。

コメント (2)
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