暑い日々が続きます。先月貴女のHPに書き込んだ通りの気候です。連日の熱帯夜、空調は夜も欠かせずビールなどの冷たい飲料がとに角恋しいです。そうそう!夜の蝉共の合唱会も連日大盛況です。この事で「困った」と申した時貴女は「蝉の声の聞こえない季節はもっと寂しい。今は我慢を」との返信をされた様に記憶しています。その通りであり、騒音と思ってはいけない訳ですね。そう言う理解をしなければならないなと改めて思います。暦では間もなく秋ですが、盆明けまではこんな気候でしょうか。貴女は今日髪型を変えられた様ですが、私も何か涼しくなる方法を考えてみますね。では又。
台風一過、ご無事の様で何よりです。ご家族ご親族方はお変わりなかったでしょうか。御住いに損害はなかったでしょうか。今日の当地は災害地に申し訳ないほどの晴天でした。岐阜の友人と寒天で有名な岐阜東部へ出掛けました。長閑な風景は愛知の奥三河同様、ゆっくり写し込みたい所ですが他に目的があり、又の機会に譲りました。赤トンボの姿も見られ、秋への季節の移ろいを感じました。今は満月ではないものの美しい月が顔を見せています。この連載、勝手ながら今暫くの延長をお許し下さいませ。以上、空に願いを込めて・・・
まず余談から。今朝台風10号が東海地方を駆け抜けました。一服の涼ではありましたが、人的被害もあり喜んではいられません。貴女の居られる北日本へは今夜最接近の模様。念の為ご注意下さい。 今日8月9日は父の故郷長崎の58回目の原爆忌です。1945=昭和20年の同日午前11時過ぎ、米軍により投下された1発の新型爆弾の為、一瞬で数万の方々が落命され、長崎市街が灰燼に帰したのはご存知ですね。当時10代だった父は救援の為、被爆数日後に長崎入りしています。その時の惨状はここでお話するのが憚られる程である事だけ今は申しておきます。まだ放射能が残る中での労務。思えば私はあと少しで被爆2世となる所でした。もう一つ、以前の勤務先の元上司の事も触れさせて下さい。1942=昭和17年頃徴兵により中国北方の旧満州へ送られたこの方は、凄絶な戦闘と労役の果て、中ソ国境近くで終戦を迎えられた由です。今回は重い話題で恐縮なのですが、こうした親しい人々の戦時体験の話とは縁の切れない私の8月です。願わくば各国が同じ過ちを繰り替えさず、たとえ貧しくとも平和の続く状況で有り続けて欲しいものです。
ミーSAN今晩は。昨日の花火大会中止、本当に残念でしたね。大人も心躍るのに、子供達の落胆は如何ばかりでしょうか。お変わりない様なのは何よりです。あの閉鎖以来、貴女のサイトへ日参しています。もう閉ざされてしまった画面の前に立つと、そのすぐ向うに今なお開けているであろう夢世界が想起され、無念の思いを新たにしています。貴女の佳作も良きファン達の名文も、最早目にする事は叶いません。救いは日記帳が引き続き読める事。ざっと通読させて頂いたのですが、やはり7月の母上の命日の記事が一番心に残ります。いずれは私も直面する親との永の別れ。その時きちんと対処できるか些か不安ですが「避けられない運命には従う他ない(米国の教育者D.カーネギー博士)」そうですので、せめて心の準備だけでもと今は思っております。では又次回。
先日、北海道の魅力的なHP「夜空の下で」が突然閉鎖されました。理由は不明で詮索するべきではありませんが、写真や投稿詩のコーナー等が充実し、短い会話も楽しめただけに何としても惜しまれる所です。そこで今月はHPの主、ミーSANを称え、その労をねぎらう意味で5回シリーズの予定で記そうと思います。尚サブタイトル使用は予めご本人の了解を得ております。8/1(金)夜、異変に気づきましたが、既に先週末の写真のタイトルに「最後」の字句が現れており、この時点で閉鎖近しに気がついてなかった私は迂闊の謗りを免れないかも知れません。又サイトなるものはなくなる時はなくなるもの、との自覚を持って普段から大切に接するべき所、その心得も不足だったかも。便利さの死角ですね。次回以降もそうした点も交えて書いて行こうと思います。今夜はこれにて。