はなこのアンテナ@無知の知

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いじめ問題について~苦しかったら我慢せずに誰かに助けを求めよう

2015年07月29日 | はなこ的考察―良いこと探し
 いじめが原因による被害者の自殺の報道を目にする度に、どうしてこうも悲劇が繰り返されるのだろうと暗澹たる気持ちになる。

 残念ながら、人間には想像力を働かせたり、未来について考える聡明さを持っている一方で、愚かで精神的に弱い一面がある。

 自分と他人とを比べることで、自分の向上心に繋げる努力家である一方で、他人を意図的に貶めて、相対的に自分が優位に立とうとする狡猾な一面(=他人の弱みに付け込む意地悪な一面)も持っている。

 人間の正の側面が社会の発展を促したのだとすれば、人間社会で一向になくならない差別や争いは人間の負の側面がもたらしたものなのだろう。その両面を以って、人間と言う存在なのだと思う。

 だから、人間が存在する限り、人間の性(さが)として、差別も争いもなくならない。いじめも、それと同一線上にあるものなのだろう。

 だから、それを踏まえて、対処するしかない。対処しなければ、社会から排除されるだけだ。いじめに耐えかねて自ら命を絶つことも、結果的に、弱肉強食的な残酷な一面を持つ人間社会から排除されたことと同じだ。

 そうなる前にどうにかならなかったのか?対処次第では、どうにかなったのではないか?

 なぜ、誰も被害者を救えなかったのか?親は救えなかったのか?もし兄弟姉妹がいるなら、その兄弟姉妹は救えなかったのか?友達は救えなかったのか?教師は救えなかったのか?

 被害者本人は、誰かに助けを求めることはできなかったのか?特に自分を誰よりも心配してくれる親、或いは信頼できる身近な大人に助けを求めなかったのか?優しい子ほど、良い子ほど、親に心配をかけまいと、いじめられてることを親に隠そうとする傾向が強いと聞くが、そのままで良いはずがない。

 それって、良い子であること、優しい子であることの方向性として間違っていないか?優しさは、自分より弱い立場か対等な人に対して向けられるべきものだろう。少なくとも年端の行かない子どもは、親より未熟で無力である。親に保護されるべき存在である。

 だから、自分が追い詰められているのに、親のことを気遣うなんて間違っている。その間違った気遣いで、誰にも、親にさえ助けを求めずに、自分がどうしようもなく追い詰められ、自ら命を絶ったとしたら、それこそ最も望まない形で親を悲しませることになる。最も親不孝な結果になってしまう。

 何が最も親不孝かと言えば、子どもが親より先に死ぬことだ。しかも自ら命を絶つなんて、最もやってはいけないことだ。自ら命を絶つくらいなら、親に助けを求めるべきだ。気力を振り絞って、「お父さん、お母さん、苦しいよ。助けて!」と言えばいいのだ。

 普段から、親もそのことを子どもには何度でも話して、理解させる必要があるのではないか?

 親は親で、どんなに忙しくても、子どもにはしっかり目配りしなければならない。ほんの些細な変化にも気づくようにしなければならない。子どもの兄弟なり、友達なり、友達のお母さんなり、近所のおじさん、おばさんなり、あらゆるアンテナを張り巡らせて、子どもを見守らなければならない。

 子どもを不本意な形で失うぐらいなら、そんなこと何でもないことのはずだ。忙しいなんて言い訳はできないはずだ。


 私の親としての体験はごく個人的なもので、誰にでも役立つ万能な対策とは言えないかもしれないが、ここに記しておきたい。

 一人息子は小学校5年生の時に同じクラスの子からいじめに遭っていた。未だに犯人は確定していないが、目星はついている。意外にも普段は息子と親しくしていた子だ。

 幸か不幸か、当時の息子は幼く、自分がいじめられていると言う自覚はなかったようだ。異変に気づいたのは私の方だった。

 1学期も終わり頃、息子の国語の教科書がなくなった。最初は息子がどこかに忘れたか、なくしたかと思っていたが、暫くして、あり得ない場所で見つかった。

 ほどなくして、また同じ教科書がなくなった。ここで初めて担任の教師に相談した。「教科書がなくなったのはこれで2度目です。しかも短い期間に。おかしくないですか?」結局、この時はとうとう教科書は見つからず、担任教師の予備を譲っていただいた。この時点でも、特にクラスに対して、教師の働きかけはなかった。

 その後、上履きもなくなった。これも後であり得ない場所で見つかった。私はいじめを確信した。

 そしてダメ押しの3度目の国語の教科書の紛失。私はかなり強い調子で「これはいじめではありませんか?クラスに何か問題があるのでは?」と担任に言ったが、教科書を再び融通はしてくれたものの、担任はいじめの存在を認めなかった。

 担任への不信感を募らせたまま、その学年を終えた。

 実は、それ以前から、別のクラスの男子に、息子は蹴られたり、叩かれていたらしい。それを偶々目撃した私の友人が直接注意したところ、いじめっ子は「こいつ、いつもニコニコ笑っているのが気に食わない」と応えたそうだ。その子には後にカッターナイフで机の中にあったお道具箱をズタズタに切り裂かれたりと(目撃者がいた)、執拗な嫌がらせが続いていたし、さすがにカッターの件は学校でも問題となったので、校長先生も巻き込んでのいじめ問題に発展した。

 社会に出ればいろいろな人間がいて、良い人ばかりでもない。その現実を踏まえて、公立校で多様な背景を持つ子ども達の中で揉まれると言う選択肢もあるにはあったが、結局、息子のおっとりした性格や将来の大学進学も考慮して、中学からは全人教育に力を入れている横浜の私立校に入学させた。

 とにかく、親はおかしいと思ったら、早めに動く。担任に相談する。担任が当てにならないなら、学校なんて休ませるか、いざとなったら転校させても良いではないか?環境を変えることで、子どもも気持ちをリセットできるはずだ。そもそも死を考えるまで追い詰められていると言うことは、周りのクラスメイトや友人もわが子の力になれなかったと言うことだ。その程度の関係と言うことだ。そんな環境に執着する必要などないだろう。

 いじめ問題解決の為に教育委員会云々と言う話もあるが、いじめと戦うことにエネルギーを注ぐより、わが子を救うことに意識を集中することの方が大事なのではないか?わが子が心の健康を取り戻せる環境を、新たに探してあげる方がより確実で、解決も早いのではないか?どこかに、わが子の居場所は必ずあるはずだから。

 子どもを失うくらいなら、その前に出来ることが幾らでもあるはずで、他人の無責任な噂なんて気にしなくていい。わが子の人生に深く関わり、その命に責任を持てるのは、結局、親しかいないのだから。

 結果論になるが、その後息子は横浜の学校で、何の問題もなく学校生活を送ることができ、親友と呼べる友人とも出会えた。学校の教育方針も息子の性格には合っていたらしく、息子の長所を伸ばすには適切な環境だったようだ。現在社会人として、自分らしさに自信を持って日々を前向きに生きる心の礎は、この時代に培われたのだと思う。


 今、いじめに苦しんでいる子どもがひとりでも多く、新たな自分の居場所を見つけて救われますように… 
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