2007年8月6日の朝は、広島の原爆死没者慰霊式・平和記念式をテレビで見ていた。ふと気がついて、興味深かったのは以下の点だ。
冒頭にスピーチに立った秋葉忠利・広島市長はその「平和宣言」を「2007年、平成19年、8月6日」という日付で結んだ。秋葉市長の次にメッセージを朗読した児童2人は末尾の日付を「平成19年、2007年、8月6日」と読んだ。その次の安倍晋三・日本国首相はその挨拶の日付を「平成19年8月6日」とし、西暦は使わなかった。
確かに秋葉市長の宣言は日本から世界に向けたメッセージとしての性格があり、日付は西暦が相応しかった。逆に、安倍首相の挨拶は被爆者とヒロシマの人々に対するお見舞いの言葉のニュアンスが濃く、「平成」という内向きの日付が似合っていた。
興味深いのは2人の児童が読み上げた「平成19年、2007年」であった。秋葉市長は西暦のあとに日本の元号を添えた。児童は元号のあとに西暦を添えた。児童の朗読を聞いていて、子ども離れしたレトリックがいくつかあることに気がついた。大人の手が入っていたのだろう。ひょっとして平成の元号を西暦より先に出したあたりにも、大人の指導だったのかもしれない。まあ、子ども知恵ではない。
日本には1979年にできた元号法というものがあって、①元号は政令で定める②元号は皇位の継承があった場合に限り改める、ことを決めている。日本では西暦、元号の双方をそれぞれの慣習に従って適当に使ってよいということになっている。というよりも過去のしがらみもあって元号からふっ切れないでいるのである。
神戸の埋め立て地ポートアイランドにコンピューター制御の無人電車が走り始めた昔むかしのことである。ある朝突然、始発電車以降、一切の電車が動かなる騒ぎがあった。調べてみると、オペレーターがコンピューターに日付を入力するさい、西暦で入力すべきところを、勘違いして昭和で入力したものだから、コンピューターのセキュリティーが作動してしまったということだった。
西暦と元号の二重使用は厄介なものだ。タイでは仏暦と西暦を二重使用している。領収書の日付をすらすらと仏暦で書いてくれたりする。中国は西暦一本やりだが、台湾では民国○○年という呼び方が非公式な元号になっていた。インドネシアでは西暦が主流だが、宗教的色彩の濃い行事ではイスラム暦を使う。
戦前の日本軍政下のインドネシアでは「皇紀」が使われた。インドネシア人の指導者たちは不覚にも、短期間のうちにすっかり皇紀になじんでしまったらしい。日本が無条件降伏した1945年8月15日の2日後、8月17日にインドネシア共和国は独立を宣言したのであるが、宣言文の日付をあろうことか ‘hari 17 bulan 8 tahun 05’としてしまったのである。「(26)05年8月17日」である。1945年は「皇紀2605年」にあたった。これはインドネシア・ナショナリズムとってバツの悪い事となった。後に学校の歴史教科書などの印刷物では1945と書き換えたが、国の宝物である歴史的文書、独立宣言だけは書き換えるわけにはいかなかった。
1990年代、インドネシアの最高額紙幣は5万ルピアで、スハルト大統領(当時)の肖像が使われていた。スハルト政権崩壊後、最高額紙幣は10万ルピアになった。10万ルピア札には、初代正副大統領のスカルノとハッタの肖像が使われ、歴史的文書独立宣言の文言と、スカルノとハッタの署名が挿入された。日付は当然、hari 17 bulan 8 tahun 05 のままだった。お札が出てしばらくの間、「国辱ものだ」という憤慨の投書が新聞を賑わせた。
年号の使い方が、ときに、面倒を発生させることもあるのだ。
(2007.8.6 花崎泰雄)