2022年9月11日、沖縄県知事選挙で玉城デニー知事が再選された。沖縄の施政権返還から半世紀にあたる年の知事選挙だった。
玉城氏の勝利は、辺野古の新基地建設反対の民意が変わっていないことを示しており、日本政府は新基地建設を断念すべきだ、と『琉球新報』(9月12日)社説は主張した。松野内閣官房長官は「辺野古移設が唯一の解決策と考えている」とにべもなかった。東京の毎日新聞は、振興予算などを使って辺野古移設受け入れを迫るような「アメとムチ」の手法をやめるように日本政府に忠告した。
政府は金にものを言わせて沖縄の有権者の心変わりをしぶとく待つ。沖縄の有権者は激しい怒りを中央政府にぶつける。この構図は長い間変わっていない。日本と米国は沖縄が安全保障のコーナーストーン(要石)であると認識し、沖縄住民は、日本政府が沖縄を本土の安全保障のための捨て石と考えているという、腹に据えかねる怒りを持ち続けている。この亀裂はどこから生まれたのだろうか。
宮内庁『昭和天皇実録 第十』(東京書籍、2017年)の1947年9月19日の記録には以下のような記述がある。
「午前、内廷庁舎御政務室において宮内府御用掛寺崎英成の拝謁をお受けになる。この日午後、寺崎は対日理事会議長兼連合国最高司令部外交局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問する。シーボルトは、この時寺崎から聞いた内容を連合国軍最高司令官(20日付覚書)及び米国国務長官(22日付書簡)に報告する。この報告には、天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである旨、さらに、米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに基づくものである旨などが記される」
シーボルトの報告書は国際政治学者・進藤榮一教授が米国の国立公文書館で見つけ、『世界』1979年4月号で公にしていた。文書のコピーは沖縄県公文書館にも保存されている。次のURLで読むことができる。https://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392 この文書は国際政治学者・進藤榮一教授が米国の国立公文書館で見つけ、『世界』1979年4月号で公にした。文書のコピーは沖縄県公文書館にも保存されている。また、進藤教授の『世界』掲載論文は進藤榮一『分割された領土』(岩波現代文庫)に収められている。
昭和天皇が寺崎に会った。同じ日に寺崎がシーボルトに会った。シーボルトが寺崎から聞いた天皇のメッセージを本国に連絡した。この3つの事実を並列させ、その間の脈絡を消し去ることで、昭和天皇と沖縄の米軍基地化の関係を薄めようとした宮内庁の作為がにおう。ちなみに、『実録』の同じ日の記事に、昭和天皇が外務大臣芦田均と会ったと書かれている。芦田は天皇に「日本の安全保障を米国に依頼する代わりに、日本本土の一部を米国に軍事基地として提供する」と米国に通知したと語った。こちらの方は誰が何をしたかがはっきりと書かれている。
1947年5月3日に施行された日本国憲法で天皇の国事行為はすでに厳しく限定されていた。にもかかわらず、戦後の混乱期とはいえ、政府とは別のルートで天皇が直接米国に占領政策を語りかけ、沖縄を米国に差し出す姿は異様である。進藤榮一『分割された領土』が言うように「日本保守派が、宮廷をひとつの核として、反ソ、反共主義を説き、米日軍事提携のなかに復権のための外交政策を見いだした」とする見立てに説得力がある。敗戦と戦後改革の中で旧保守派は政治的復権と国体護持を目指して、米国の知日派に応援を求めていたと、進藤教授は書いている。
また、1951年初頭、吉田茂首相は講和条約交渉で東京に来ていた米特使ダレスに対し、講和後の沖縄の取り扱いについて租借方式を提案し「バミューダ方式(99年間の租借)」でどうかと言った。昭和天皇もシーボルトに25年から50年、いやそれ以上の租借を提案していた。吉田の99年租借案はダレスに拒否された。吉田は99年租借案を本気で言ったのか、アイロニーだったのか、いずれにせよ、沖縄の人にとっては不快きわまる発言である。
サンフランシスコ講和条約が発効し、アメリカの沖縄直接統治が始まった4月28日は沖縄の人々にとっては「屈辱の日」である。2021年4月28日付『琉球新報』は沖縄の屈辱の源流には天皇メッセージと吉田茂の99年租借発言があると社説で指摘した。
沖縄を軽んじる態度は、日本の権力者にとりついた病である。矢部貞治『近衛文麿』(読売新聞社)によると、戦争末期、袋小路に追い詰められていた天皇とそのグループはソ連に戦争終結の仲介を依頼しようとした。昭和天皇が直接近衛に特使の役目を依頼した。近衛は周辺に「自分一身はどうなっても構わぬが、ただ皇室だけは安泰にしたい」と漏らしていたという。
近衛は「和平交渉の要綱」を作成、その中に①国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること②国土についてはなるべく他日の再起に便なることに努むるも、止むを得ざれば固有本土をもって満足す――の2点を書き込んだ。近衛は「国体」とは「皇統を確保し天皇政治を行う」こと、「固有本土」とは「最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度」と説明した。天皇政治維持のためなら沖縄は切り捨てても構わないというのが昭和天皇との近衛の考え方だった。
しかし、終戦工作は失敗に終わる。1945年2月のヤルタ会談で、ソ連はサハリン南部、クリル諸島が引き渡されることを条件に、日本と開戦することをすでに米英に約束していた。近衛特使の終戦工作については1945年7月13日、日本は近衛派遣を申し入れたが、18日にソ連が受け入れを断った。7月のポツダム会談で、スターリンが近衛特使の件を情報として米英の首脳に披露しが、ポツダム会談のメンバーは日本の和平工作に関心を示さなかった(茂田宏他編訳『戦後の誕生――テヘラン・ヤルタ・ポツダム会談全議事録』中央公論新社、2022年)。
スターリン この(申し入れ)文書に新しい点はない。日本は我々に協力を提案している。我々は過去にそうしたと同じような精神で回答することを考えている。
トルーマン 我々は反対しない。
アトリー首相 我々は同意する。
スターリン 私の情報は終わりである。
(2022.9.15 花崎泰雄)