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news commentary

むち打ち刑

2011-09-29 10:36:43 | Weblog


9月28日夜9時のNHKニュースが、サウジアラビアで自動車を運転した女性がむち打ち10回の刑の判決を受けたと伝えていた。

むち打ち10回の刑と、サウジアラビアでは女性が自動車の運転を認められていないということの、いずれが「おや、おや」にあたいするのだろうか?

サウジアラビアなどのイスラム国では、姦通の罪には石打ちの刑(既婚者)と鞭打ちの刑(未婚者)が適用される。飲酒はむち打ち。盗みの場合、初犯は右手、再犯は左足、3度目になると左手、4度目で残る右足が切り落とされるので、ダルマ状態になる。

学校の日本史で「ちじょうずるし」という言葉を習った。「笞・杖・徒・流・死」。日本がその昔、中国・唐の刑をまねて作った制度だが、いま日本では身体刑は死刑だけになっている。

百科事典によると、昔の日本では鋸の刑というものがあり、ドイツでは、絞首、逆吊り、斬首、四つ裂き、生埋め、昏殺、焚殺、釜茹、手・指・耳・舌・鼻の切断,両眼摘出、去勢、むち打ち、頭髪切除、烙印などの刑があった。

現代国家では身体刑では死刑だけを残している国が多い。むち打ちの刑を残しているのは非イスラム国では、植民地時代のイギリスの刑の痕跡を残すシンガポールくらいだ。

究極の身体刑である死刑を廃止する国家も増えた。EU諸国は死刑を廃止し、死刑廃止をEU加盟の条件の一つにしている。トルコはイスラム教徒の多い国だが、EU加盟を希望しているため、この9月上旬、国会で死刑廃止を決めたばかりだ。一方、日本、アメリカ合衆国、中国などは死刑の制度を残している。

究極の身体刑である死刑を廃止するか、残すかについて、これだけの姿勢の違いがあるわけだから、むち打ち刑を残しているからといって、残虐だと叫ぶのは、少々ナイーヴに過ぎるだろう。

むしろ、女性の社会的行動には男性の保護が必要であり、したがって車の一人運転はイスラムの教えに反するということの方が驚くに値する。世界で最大のイスラム人口を抱えるインドネシアでは女性の自動車運転は自由である。したがって、女性の自動車運転をとがめるのは、イスラム共通の問題意識によるものではなく、サウジアラビアの個別の事情によるものであろう。

サウジアラビアの裁判所がむち打ち判決を出す2日前、アブドッラー・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウード国王が、女性の参政権を2015年から認めると発表していた。

アブドゥラ国王の声明は、国政レベルでは同国の諮問評議会へ女性が評議会議員として参加できるようにし、地方議会選挙でも女性の参政権を認めるという内容。諮問評議会は国王が選ぶ男性150人で構成されている(最近、女性が顧問の資格で参加している)。地方選挙は、投票権は21歳以上、被選挙権は25歳以上の男性だけに認められている。

女性が車を運転したのはWomen2Driveという女性抑圧への抵抗キャンペーンだ。中東地域の民主化の波がサウジアラビアにも押し寄せている。国王が女性参政権でガス抜きを図ったところ、それに批判的な守旧派勢力が巻き返しに出て、このむち打ち判決になったといわれている。せいぜい数日の拘留ですむはずの自動車の運転で、むち打ち10回は重過ぎる。判決の背後になんらかの政治的意図があるというのが推測の理由だ。

むち打ち判決が出されると間髪を入れずアブドゥラ国王がその判決を覆した。男性の保護なしでは女性の社会的活動が認められないとすれば、女性の参政権に何の意味があるのか、という問題につきあたる。むち打ち判決を国王は自分の決定に対する批判とみなしたわけだ。


(花崎泰雄 2011.9.29)

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ブルハヌディン・ラバニ 1940-2011

2011-09-22 12:44:55 | Weblog

タリバーンとの和解をめざすアフガニスタンの高等和平協議会議長ブルハヌディン・ラバニがカブールでタリバーン側の和平交渉代表を装った男に暗殺された。暗殺犯は頭に巻いたターバンの中に爆発物を隠してラバニに接近、自爆した。

ラバニは1940年生まれ。カイロのアズ・アルハル大学でイスラム哲学の修士号を取ったイスラム宗教学者で、ソ連と戦ったムジャーヒーディンや、タリバーン政権と対抗した北部同盟の指導者でもあった。1992年には短期間だがアフガニスタン大統領だった。

このところアフガニスタンでは暗殺・テロ行為が増えている。9月13日にはカブールのアメリカ大使館などが襲撃された。西部のヘラート州オベで8月18日、爆弾テロでミニバスの30人以上が死傷した。東部のパルワン州のチャリカルでは8月14日、タリバーンの武装集団が州知事庁舎を襲った。警官や市民ら50人が死傷した。同じ日に、東部のパクティア州のガルデズの米軍主体の地域復興チーム駐屯地で、爆発物を積んだトラックが自爆テロ攻撃を行い、警備のアフガン兵2人が死亡した。南部のウルズガン州タリンコットでは7月28日、武装集団が州知事庁舎や警察本部などを襲撃した。60人近くが死傷した。同月17日にはカブールでカルザイ大統領の側近と国会議員がタリバーンに暗殺された。7月12日には、カルザイ大統領の弟で南部カンダハル州議会のアフマド・ワリ・カルザイ議長が、州都カンダハルの自宅で護衛に射殺された。

これはイスラムにおけるアサッシンの伝説がなせるわざなのだろうか?

シーア派イスラムの一派イスマーイール派のそのまた一派ニザール派は、ハサン・サッバーフが11世紀末に創始した。絶対的権威への服従を説き、強固な教団組織と特異な暗殺戦術でスンナ派体制に対抗してニザール派の宗教運動をつづけた。

このハサン・サッバーフの暗殺戦術が十字軍やマルコ・ポーロの噂や旅行記によって、山の老人の楽園で育てられ大麻を吸って要人暗殺に送り出される若者の伝説としてヨーロッパにもたらされた。時代が下って、現代のオサマ・ビン・ラーデンが率いたアルカーイダのテロ戦術も、宗教的熱情と神秘主義と暴力の甘美な混合物であるこのアサッシンの伝統の延長線上にあるという説が出されたこともあった。

こうした文化史の文脈から現在のアフガニスタンの暗殺・テロによる流血を解釈すれば、それはそれで小説風の趣きがあるのだが、現実で妥当な解釈はもっと味気ない無味乾燥な物理的なものだ。無味乾燥ではあるが強固な社会構造が作り出したものだけに、簡単な解決法は見当たらない。


アフガニスタンは北でトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンと境を接し、西でイラン,東と南でパキスタン、北東で中国と隣接する内陸の国だ。人口約3000万の半数を占めるパシュトゥーン族(パキスタンの北西部にも住んでいる)のほか、タジク族、ウズベク族、トルクメン族、ハザーラ族などで構成される多民族国家だ。さらに、これらの民族がそれぞれに武装組織を持つ部族軍閥国家でもある。

アフガニスタンは歴史の奔流に洗われて続けてきた。紀元前6世紀ころはアケメネス朝ペルシアの属領で、アレクサンドロス大王の東方遠征によってギリシア・ヘレニズム文化の影響をうけた。さらにバクトリア、クシャーナ、ササン朝の支配下にあった

7世紀後半にはイスラムが入ってきた――などと、アフガニスタン略史をくどくど説明するのが本稿の目的ではないので、一言でいえば、19世紀ごろまでアフガニスタンは国としての領域がはっきりしない部族が割拠する地域だった。

19世紀にアフガニスタンは、インドを植民地にしていたイギリスと、南へ向かって拡張政策をとるロシアのせめぎあい、いわゆるグレート・ゲームの舞台になった。南下するロシアからインドを守るためにイギリスは19世紀に2度にわたってアフガニスタンに兵を送った。アフガニスタンはイギリスと3次にわたって戦い、その戦いの中で近代国家の形成を始めた。

ザーヒル・シャーが国王だった1933-1973年が現代アフガニスタンにとって最も平穏な時代だった。とはいっても、イギリスが定めたアフガニスタン・パキスタン国境のパキスタン側に多数のパシュトゥーン族が住んでいることからアフガニスタンはこの国境線を認めず、隣国パキスタンと対立した。
 
1973年のクーデターで王政が廃止され、内輪の勢力争い、79年のソ連軍のアフガニスタン侵攻、ムジャーヒーディンの対ソ連ジハード、ソ連軍の撤退、軍閥による内戦、パキスタンが後押しするタリバーンの台頭、タリバーンと北部同盟の争い、タリバーン・オサマ連合、アメリカを中心にした多国籍軍と北部同盟によるタリバーン駆逐。さらには、アメリカが用意したカルザイ政権の無能とタリバーン蘇生による内戦状態の再現。

険しい山岳の多い内陸国アフガニスタンには、細々とした農業・牧畜以外にこれといった産業がない。くわえて、内憂外患続きの歴史ゆえに、安定した政府、領域全体に行き渡る権力が存在してこなかった。アフガニスタンに住む各部族はそれぞれの言語を持ち、それぞれのルールで暮らしてきている。

アフガニスタンにおいては、ホッブス流に言えば、国家としての領域は持っているが、領域内の人々すべてを畏怖させるだけの権力装置が存在したことがない。軍閥が割拠してきたアフガニスタンでは、各人の各人に対する戦争状態が続いている。ホッブスが説いたところによると、こうした戦争状態では、共通の法が存在せず、正邪・正義不正義の観念はなく、力と欺瞞が主要な美徳となる世界である。部族社会アフガニスタンは日本でいえば戦国時代に似た状況下にある。流血の暗殺・テロは異常事態ではなく、日常茶飯なのである。

はて、どうしたものか?

(2011.9.22 花崎泰雄)
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