パリの五輪競技大会と甲子園の高校野球の中継が夏のNHKテレビの番組を埋め尽くしている。そのさなか、スポーツ中継を押しのけて「南海トラフ巨大地震注意」を気象庁が出した。長崎市の平和祈念式典にイスラエルが招待されていないのは政治的な意図によるものだとして、駐日米国大使ら欧米の大使が結束して式典への不参加を表明した。原爆忌にうちあげた三尺玉のようなたいした、びっくり花火だった。
8月6日の広島の式典ではロシアとベラルーシは招待されなかった。イスラエルは招待されたが、パレスチナ自治政府は招かれなかった。式典の主催者である広島市の判断は政治的であるが、駐日アメリカ大使やイスラエル大使は式典に出席した。ロシアは米国と並ぶ核兵器を持つ国家であり、そういう国にこそ祈念式典に参列してもらい、核のない世界への想像力を身に着けるきっかけにしてもらうべきだった、という考え方もありうる。しかし、それは主催者広島市の政治的判断で不可能になった。ロシアが招かれなかったことにロシア大使は不当な政治的判断だと異議を唱えたが、米国大使やイスラエル大使らはなんらコメントしなかった。
9日の長崎の式典ではロシア、ベラルーシ、イスラエルが招待されず、パレスチナ自治区は招待された。平和祈念式典の招待国・地域の選定でこのような違いが出たのは、主催者である広島市と長崎市の政治的判断の違いによるものだ。ロシアやベラルーシと同じようにイスラエルが招かれなかったのは、ウクライナを侵略しているロシアと、ハマスからの攻撃に対して自衛しているイスラエルとを同列に置くことになり、承服できないと米欧の大使たちは出席を見送った。代わりに、駐日米大使、英大使、イスラエル大使の3人が9日東京の増上寺で催された長崎原爆殉難者追悼会に出席する茶番を演じてみせた。
ラーム・エマニュエル駐日米国大使は、イスラエルから米国に移住した医師の息子だ。CNNによると18歳まで米国とイスラエルの2つの国籍を持っていた。とはいえ、エマニュエル駐日米大使がイスラエルの立場を擁護して長崎の平和祈念式典に出席しなかったのは、彼のユダヤ系アメリカ人としての信条・道徳・情緒が影響していると考えるのは短絡である。道徳観が行動の規範になることは、個人の場合は考えられるが、国家はモラルとは関係ないナショナル・インタレストにもとづいて行動する。イスラム世界のまん中にあるイスラエルは、アメリカとそれに与する欧州国家にとって、安全保障の橋頭保であり、核武装を進めるイランをけん制するための武力配備のコーナーストーンである。炭坑の安全を確かめるカナリアのような存在なのだ。イスラエルはアメリカが断固として擁護すべき国であると歴代の米国政府は考えてきた。それをよく知っているから、イスラエルのネタニヤフ政権は米国から軍事援助をうけつつ、米国をいらだたせる身勝手な戦闘行動を行っている。
アメリカ合衆国は国内法(レイヒー法)で、人権侵害に関与している外国の軍隊に対して、合衆国政府が資金援助などを提供することを禁止している。BBCによると、イスラエル軍の部隊で違反行為が見つかったことがあるが、米国政府はその後適切な措置が講じられたとしてイスラエルへの軍事援助を続行している。
ところで、長崎の平和祈念式典をめぐる出来事について岸田首相は、イスラエルを招かなかったのは主催者である長崎市の判断であり日本政府はコメントする立場にない、と表明している。この無気力発言の背後には、平和祈念式典は地方自治体のローカルな催しであるとする矮小化の論理がある。半面、核廃絶は生涯をかけた目標であると岸田首相は公言している。
その一方で、岸田首相は米国の核の傘を何とかもっと確実なものにしようとする拡大抑止の考え方に好意を寄せている。したがって、核兵器禁止条約についは、核兵器のない世界という大きな目標に向け重要な条約だが、アメリカやロシア、中国など、核兵器を保有する国々が参加していないので、日本だけ加わって議論をしても、実際に核廃絶にはつながらないと岸田首相は言う。核廃絶は遠い将来のユートピアンの目標であり、脅しや欺瞞にみち、権力と権力がわたりあう国際政治のジャングルで国家の生き残りを測るには、今後しばらくはリアリストの外交が不可欠であると岸田首相は言う。こうした日本政府のやる気のなさにしびれを切らせて日本のNGOは政府に核禁止条約加盟を迫っている。
日本の自治体が独自に平和祈念式典の招待国を政治的に決めたのは、いわゆる「外交」が政府だけの、外務省だけの専権事項でなくなり始めていることを感じさせる。やがて被爆者追悼・平和祈念式典に日本国首相を招くか招かないかは主催者が政治判断すること――そういう未来を想像すれば、しばしの猛暑しのぎになる。
愚行は時代や場所と関係なく、政治形態とも関係がない。君主政治、寡頭政治、民主政治のいずれも愚行をうんでいる。民族や階級とも関係がない。政治は3000―4000年前からほとんど向上していない。この先も人間は光輝と衰亡、偉大な努力と翳りのまだら模様を縫ってなんとかお茶を濁してやっていけるだけなのかもしれない。そうした人間の悲しさをテーマにしたバーバラ・タックマン『トロイアからヴェトナムまで 愚行の世界史』(大社淑子訳、朝日新聞社、1987年)を拾い読みするお盆(8月盆)が近づいてきた。
(2024.8.10 花崎泰雄)