石橋をたたいたすえに引き返す転ばぬ先の老いの杖かな
アムステルダム発デトロイト行きノースウエスト航空の機内で2009年12月25日爆破テロ未遂事件が起きたというニュースはソウルで聞いた。韓国テレビドラマ『チャングム』を面白がってみていたつれあいとクリスマスの宮廷料理を食べに行っていた。
爆破未遂事件について、バラク・オバマ米大統領は国土保安システムに重大な齟齬があったと、休暇先のハワイで語った。
米紙の伝えるところでは、アルカイダの一味がナイジェリア人をテロリストに仕立てようとしているという情報が、事件に先立って、イエメンからアメリカ政府に届いていたという。また、テロ容疑者のナイジェリア人の父親は、11月にナイジェリアのアメリカ大使館を訪れ、過激化したすえ姿をくらました息子ウマル・ファルーク・アブドゥルムタラブを探し出して連れ戻すための助力を求めていた。CIAをふくむ大使館の情報・保安関係者が父親から提供された情報を分析し、ワシントンに連絡していた。ワシントンはその情報をもとに、テロと関連のありそうな55万人の名前の入ったデータベースにウマルの名を加えた。だが、彼の名前は搭乗を拒否すべき4,000人のリストや搭乗に先立って精査すべき14,000のリストには加えられなかった。
イエメンの「アラビア半島のアルカイダ」が12月28日、イエメン政府と米国から受けた軍事攻撃に対する報復として米機爆破を計画したとウェッブ上に声明を出した。容疑者が2009年8月から12月上旬までイエメンに滞在していたと、イエメン政府が発表した。
イエメンはアルカイダの総帥オサマ・ビン・ラデンの父親モハメド・アワド・ビン・ラデンの出身地だ。モハメドはイエメン東部のハドラマウト地方の貧しい村に生まれ、この村を出てサウジアラビアに出稼ぎに行った。ついには建設業で大成功して財を築いた。いわゆるハドラミーである。ちなみにドラマウト地方の出身者・ハドラミーはインドネシアにも渡っており、バリ島・クタのナイトクラブ爆弾事件をきっかけにアルカイダとつながる東南アジアのテロ組織だとされたジェマー・イスラミヤのアブ・バカール・バアシールもハドラミーの末裔だ。
オサマ・ビン・ラデンとつながりの強いイエメンはアルカイダの活動が盛んなところである。2000年10月、イエメン・アデン港に停泊していた米海軍ミサイル駆逐艦コール号にアルカイダのボートが体当り自爆攻撃をかけた。17人の乗組員が死んだ。2001年9月11日の世界貿易センターテロ攻撃の1年ほど前のことだ。
イエメンのアルカイダの隠れ家の秘密通信を米国家安全保障局(NSA)が1999年に傍受したことがあった。「ハリド、ナワフらがクアラルンプールへ行く」という内容だった。CIAはその通信内容から、ハリド・アル=ミダルとナワフ・アル=ハズミの2人を割り出し、クアラルンプールまで追跡した。CIAはマレーシア当局の協力を得て、クアラルンプールでミーティングに参加したアル=ミダルらを撮影した。彼らのミーティングの会話そのものについては具体的な情報は得られなかったが、何らかのテロ攻撃計画の打ち合わせであったと推測された。だが、CIAからFBIへの連絡が不十分だったせいで、2人はアメリカに入国してしまった。アル=ミダルもアル=ハズミも当時はアメリカに危害を与える可能性のある要注意人物のリストに入っていなかったからだ。のちにアル=ミダルとアル=ハズミが9.11同時多発テロのさい国防総省へ突っ込んだ航空機の乗っ取り犯だったことが判明した。クアラルンプール・ミーティングで同時多発テロ計画の具体的な計画が練られたにちがいなかったとアメリカ政府はホゾを噛んだ。
米政府は2008年ごろからイエメンにCIA要員や軍の特殊部隊を送り込み、イエメン政府軍に対テロ戦術を教えている。もしデトロイト近くの空で、あのナイジェリア人の若者が股間に隠していた高性能爆薬が爆発していたら、アメリカはアフガニスタン、イラクに続き、イエメンにも軍を送りこまざるをえなくなる可能性もあった。今年はイエメンからキナ臭いテロの匂いが漂ってくるのだろう。
ソウルからの帰りの金浦空港で、私はオーバーコート、ジャケット、財布、時計、ボールペンなどをはずしてトレイにのせてから金属探知機のゲートをくぐったが、警報が鳴った。ベルトのバックルに反応したのだ。同じようにして羽田の金属探知機を通ってきたのだが、そのときは警報音が鳴らなかった。
(2010.1.1 花崎泰雄)
アムステルダム発デトロイト行きノースウエスト航空の機内で2009年12月25日爆破テロ未遂事件が起きたというニュースはソウルで聞いた。韓国テレビドラマ『チャングム』を面白がってみていたつれあいとクリスマスの宮廷料理を食べに行っていた。
爆破未遂事件について、バラク・オバマ米大統領は国土保安システムに重大な齟齬があったと、休暇先のハワイで語った。
米紙の伝えるところでは、アルカイダの一味がナイジェリア人をテロリストに仕立てようとしているという情報が、事件に先立って、イエメンからアメリカ政府に届いていたという。また、テロ容疑者のナイジェリア人の父親は、11月にナイジェリアのアメリカ大使館を訪れ、過激化したすえ姿をくらました息子ウマル・ファルーク・アブドゥルムタラブを探し出して連れ戻すための助力を求めていた。CIAをふくむ大使館の情報・保安関係者が父親から提供された情報を分析し、ワシントンに連絡していた。ワシントンはその情報をもとに、テロと関連のありそうな55万人の名前の入ったデータベースにウマルの名を加えた。だが、彼の名前は搭乗を拒否すべき4,000人のリストや搭乗に先立って精査すべき14,000のリストには加えられなかった。
イエメンの「アラビア半島のアルカイダ」が12月28日、イエメン政府と米国から受けた軍事攻撃に対する報復として米機爆破を計画したとウェッブ上に声明を出した。容疑者が2009年8月から12月上旬までイエメンに滞在していたと、イエメン政府が発表した。
イエメンはアルカイダの総帥オサマ・ビン・ラデンの父親モハメド・アワド・ビン・ラデンの出身地だ。モハメドはイエメン東部のハドラマウト地方の貧しい村に生まれ、この村を出てサウジアラビアに出稼ぎに行った。ついには建設業で大成功して財を築いた。いわゆるハドラミーである。ちなみにドラマウト地方の出身者・ハドラミーはインドネシアにも渡っており、バリ島・クタのナイトクラブ爆弾事件をきっかけにアルカイダとつながる東南アジアのテロ組織だとされたジェマー・イスラミヤのアブ・バカール・バアシールもハドラミーの末裔だ。
オサマ・ビン・ラデンとつながりの強いイエメンはアルカイダの活動が盛んなところである。2000年10月、イエメン・アデン港に停泊していた米海軍ミサイル駆逐艦コール号にアルカイダのボートが体当り自爆攻撃をかけた。17人の乗組員が死んだ。2001年9月11日の世界貿易センターテロ攻撃の1年ほど前のことだ。
イエメンのアルカイダの隠れ家の秘密通信を米国家安全保障局(NSA)が1999年に傍受したことがあった。「ハリド、ナワフらがクアラルンプールへ行く」という内容だった。CIAはその通信内容から、ハリド・アル=ミダルとナワフ・アル=ハズミの2人を割り出し、クアラルンプールまで追跡した。CIAはマレーシア当局の協力を得て、クアラルンプールでミーティングに参加したアル=ミダルらを撮影した。彼らのミーティングの会話そのものについては具体的な情報は得られなかったが、何らかのテロ攻撃計画の打ち合わせであったと推測された。だが、CIAからFBIへの連絡が不十分だったせいで、2人はアメリカに入国してしまった。アル=ミダルもアル=ハズミも当時はアメリカに危害を与える可能性のある要注意人物のリストに入っていなかったからだ。のちにアル=ミダルとアル=ハズミが9.11同時多発テロのさい国防総省へ突っ込んだ航空機の乗っ取り犯だったことが判明した。クアラルンプール・ミーティングで同時多発テロ計画の具体的な計画が練られたにちがいなかったとアメリカ政府はホゾを噛んだ。
米政府は2008年ごろからイエメンにCIA要員や軍の特殊部隊を送り込み、イエメン政府軍に対テロ戦術を教えている。もしデトロイト近くの空で、あのナイジェリア人の若者が股間に隠していた高性能爆薬が爆発していたら、アメリカはアフガニスタン、イラクに続き、イエメンにも軍を送りこまざるをえなくなる可能性もあった。今年はイエメンからキナ臭いテロの匂いが漂ってくるのだろう。
ソウルからの帰りの金浦空港で、私はオーバーコート、ジャケット、財布、時計、ボールペンなどをはずしてトレイにのせてから金属探知機のゲートをくぐったが、警報が鳴った。ベルトのバックルに反応したのだ。同じようにして羽田の金属探知機を通ってきたのだが、そのときは警報音が鳴らなかった。
(2010.1.1 花崎泰雄)