「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら生きるに値しない」
さきごろレイモンド・チャンドラーの長編7作を完訳し終えた村上春樹の『プレイバック』の訳文である。原文では、フィリップ・マーロウは次のように言っている。
“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.”
「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている意味がない」。私の若いころにはそんな言い回しで流行った。ハードボイルド小説の美学だった。村上春樹氏も訳書『プレイバック』(早川書店、2016年)巻末の訳者あとがきで、マーロウのこの決め台詞の過去の訳文を詳細に解説している。
「個人と国家はともに、たとえば自由のような普遍的な道義原則によって政治行動を判断しなければならない。ところが、個人はこのような道義原則を擁護するために自己を犠牲にする道義的権利を持っているが、国家は、自由の侵害に道義的非難を加えて政治行動の成功――このこと自体が、国家生存という道義原則によって導かれているのだが――をおぼつかなくするような権利は何らもっていない。……抽象レヴェルの倫理は、行動をそれが道徳律に従っているかどうかによって判断する。政治的倫理は、行動をその政治的結果如何によって判断する」
ハンス・モーゲンソーの有名な『国際政治(第5版)』(福村出版、1998年)の1節である。
2017年のノーベル平和賞受賞団体・「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長が1月16日、衆院第1議員会館で、国会議員と討論した。
フィン事務局長は、核の抑止力は神話にすぎず、日本は核兵器廃絶に向けたリーダーになれる、と呼びかけた。『ハフィントン・ポスト』によると、佐藤正久・外務副大臣が、「日本を取り巻く安全保障環境は戦後最も厳しいと言っても過言ではない。核兵器禁止条約は現実の安全保証の観点を踏まえていないため、署名することはできない」と発言した。
フィン事務局長が、①アメリカや世界にある核兵器は北朝鮮の核開発を押しとどめる抑止力として役に立たなかった。核の抑止力は神話である②むしろ核開発を煽ってきた③北朝鮮が核兵器を持つことに不安を感じるのは、核兵器が平和と安定をもたらさないことをだれもが知っているからだ、と主張した。
これに対して、佐藤外務副大臣は①核兵器禁止条約の目指す核廃絶というゴールは共有している②北朝鮮の核は差し迫った脅威である③日本国民の命と責任を預かる政府としては、米国の抑止力が必要だ、と反論した。
フィン事務局長は安倍首相との面会を日本政府に求めたが日程の都合により実現できないと断られた。
安倍首相は去年8月9日、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長に「あなたはどこの国の総理ですか。今こそあなたが世界の核兵器廃絶の先頭に立つべきです」といわれたことがあった(東京新聞)。
安倍首相を頭に日本政府の面々はその行動規範として、モーゲンソーのいう道徳律よりも政治倫理を優先させるリアリストであり、レイモンド・チャンドラーのいうhard と gentleの二項対立のhard面に固執する。
「核の抑止力は神話である」とするICAN事務局長・ベアトリス・フィン氏と、北朝鮮の核の脅威を喧伝し、米国の核を至上の安全保障政策とする日本国総理大臣・安倍晋三氏と間の火を吹くような討論を見たかった。米露英仏中印パの核の抑止力があって世界の平和が守られているのか、北朝鮮の核だけが平和の攪乱要素なのか、核抑止力というのは幻想であって、実際は核の不安定なゲームが繰り広げられたにもかかわらず、幸運にも世界は何とか破局を免れて来たのか、安倍首相の深い洞察力を誰もが知りたがっている。
安倍首相は2016年9月の第71回国連総会で次のように演説した。
「議長、北朝鮮は今や、平和に対する公然たる脅威としてわれわれの正面に現れました。これに対して何ができるか。今まさに、国連の存在意義が問われています。北朝鮮は、SLBMを発射しました。その直後には、弾道ミサイル3発を同時に放ち、いずれも1000キロメートルを飛翔させ、我が国排他的経済水域に着弾させました。このとき民間航空機や船舶に被害がなかったのは、単にまったくの偶然に過ぎません。北朝鮮は本年だけで、計21発の弾道ミサイルを飛ばしました。加えてこのたび9月9日には、核弾頭の爆発実験に成功したと宣言しています。核爆発実験は、今年の1月に次ぐものでした。しかし一連のミサイル発射と核弾頭の爆発は、景色を一変させるものです。北朝鮮による核開発は、累次に及ぶ弾道ミサイル発射と表裏一体のものです。北朝鮮は、疑問をはさむ余地のない計画を、我々の前で実行しているのです。今やその脅威は、これまでとおよそ異なる次元に達したと言うほかありません」
フィン事務局長が上記の安倍・国連演説を引合いに出し、安倍首相自ら核の抑止力の破綻を認めているではありませんか、と詰め寄った時、安倍首相がなんと応じるか、興味があったのだが……。
(2018.1.20 花崎泰雄)