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吉本隆明  1924-2012 その4 決闘者

2012-04-28 22:58:25 | Weblog

吉本隆明と花田清輝の論争をあつかった好村冨士彦の著書は、そのタイトルをズバリ『真昼の決闘』(晶文社、1986年)としている。吉本の死去にあたって、彼に「吉本ばななの父」ではなく、「戦後最大の思想家」「思想界の巨人」「知の巨人」といった尊称をメディアが贈った背後には、次々と論敵を見つけては決闘を挑む西部劇の早打ちガンマンにも似た、吉本の若いころの雄姿の記憶があったためだろう。

名の知れた早撃ちガンマンに挑み、彼を倒すことで名を挙げようとした西部劇のガンマンのように、吉本は花田や武井昭夫、埴谷雄高、鮎川信夫、小浜逸郎といった人々を相手に、時に場外乱闘風に、時に軽いパンチを応酬するスパーリング風に論争した(くわしくは添田馨『吉本隆明 論争のクロニクル』響文社、2010年)。

とくに花田清輝との論争はその筋では、「戦後の思想の歴史において特筆すべき位置にある」(添田、前掲書)とされるが、日本文学史に興味のないこの稿の筆者などには、いまとなっては面白くもおかしくもない退屈な論争としか読めない。これが日本の戦後の思想史において特筆すべき位置にある論争であるとすれば、日本の戦後思想なるものは相当貧弱なしろものだったに違いない。

文学者の戦争責任、転向、擬制としての日本共産党といったテーマをめぐる吉本・花田論争を読んでいると、尊皇、佐幕、攘夷、開国を叫んで刀を振り回していた幕末を思い起こす。鎖国によって自らを海外から切り離していた当時の日本と、世界大戦で孤立した末に敗戦、まだ世界に窓を開ききっていなかった戦後の日本で、井の中の蛙ふうのテーマでカンカンガクガク論じ合われていたのだな、という程度の感慨しかわかない。

論争が行われた1950年代から60年代にかけては、論争の中身は今読むよりもよほどタイムリーなものであったとは想像する。だが、2010年代の今日、論争を読んで感じるのは、むしろ花田、吉本両者が投げあう悪口雑言のヴィヴィドさの方である。

花田が吉本について、戦争中のファシストが自己批判抜きで戦後、自由主義者に転向したもので、反共の一線だけは戦争中から戦後にかけて一応貫いている…土壇場にのぞんでいかなる音をあげるか……いっぺん刑務所の中にたたきこんでやりたい、という風なディスカッションの礼にもとる乱暴な言い方をすれば、売り言葉に買い言葉で、吉本は花田を、東方会の下郎、戦争中の転向ファシスト、戦後の擬制コミュニストと口汚くののしった。

こういった調子でいろんな論敵にたいして吉本は悪態を吐き続けた。

「微視的に個々人を見てみると、こういうラディカルは政治的ラディカルというより、自分の精神に傷を負った心理的ラディカルが多いですね……その心の傷は、……もっと『プレスティジ』のある地位につく能力をもちながら、『しがない』『評論家』や『編集者』になっているという、自信と自己軽蔑の入り混じった心理に発している」という丸山真男の座談会での発言が自分やその周辺の人々に向けられていると感じた吉本は、丸山を「陸軍一等兵として戦争に協力した」と「情況とはなにか」(『吉本隆明著作集 13)で書いた。

花田に「戦争中の転向ファシスト」と悪態をついた吉本は、別のところで、思想の科学研究会の共同研究『転向』(上巻)をとりあげて、転向・非転向の問題を善か悪かという倫理的基準から切り離したところが画期的であった、とほめている。ついでに「わたしもまた『転向論』のなかで、転向を日本の社会構造の総体にたいする認識の錯誤からくる思考変換として意味づけることによって、倫理的基準から切断する方法をもとめた」(「近代批評の展開 2 転向軸の問題 Ⅰ、『吉本隆明著作集 4』所収)と書いた。

吉本は、素面のときは「転向」を倫理的基準から切断するといい、かっとなると「戦時中の転向ファシスト」という具合に倫理基準に密接に絡ませて、悪罵の道具として使うのである。

もともと、吉本は1956年に発表した「『民主主義文学』批判――二段階転向論」では、「プロレタリア文学者の殆んどすべてが、(中野、宮本<百>以外の)たんに権力の弾圧によって転向をよぎなくされたばかりにとどまらず、戦争期において積極的に権力に協力し、理論的、実作的に戦争を合理化した」と、強制による転向と自発的な転向の2つのステップがあった、と考えていた。

それが、すでにこのシリーズ第1回で紹介したように、1958年の「転向論」では、「わたしは弾圧と転向は区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければどのような見解をもつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい。また、日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである」と見方を変えた。

吉本が、二段階転向論から強制による第1段階の転向を消去し、転向を自発的なものとする一段階転向論に転じたのは、どのような理由があってのことだろうか。権力の強制を否定する新しい史料を発見したわけではなかった。

二段階転向論では、権力の強制に抵抗して獄中非転向を貫いた共産党員に、その行為についてそれなりの価値を与えなくてはならなくなる。獄中転向も非転向も同じ穴のムジナであった、という「転向論」の結論へ持ってゆくためには、「権力の強制・圧迫による転向」が邪魔だった。結論の邪魔になる前提を排除したのである。

吉本はこうした強引な論法をためらわず使った。

安保闘争時の全学連幹部が、元日本共産党員で当時は右翼だった田中清玄から闘争資金をもらっていたという報道に対して、安保闘争を主導的にたたかうために必要とされた資金の総体のなかで、「田中清玄から、かれらが引きだしたという金は、(数百万円というのが事実だとしても)小指のさきほどの部分にすぎないことは、常識さえあれば、だれにでも理解できるはずである」(「反安保闘争の悪煽動について」)という非常識かつ強引な論法で元全学連幹部たちをかばった。

また、梅本克己、佐藤昇、丸山真男の3人の座談会で、犯罪者同盟を結成した平岡正明が私有財産否定のデモンストレーションとして、本屋で『悪徳の栄え』を万引きして逮捕されたことを梅本があざわらったとき、吉本は次のように書いた。

「やろうとしても万引ひとつできない半病人が何をほざくのだ……一冊の本を万引するという行為の背後に、いいかえれば一般に卑小な行為の背後に、どんな巨大な思想が存在することもありうるのである」(「情況とはなにか」『吉本隆明著作集 13』)

あの時代、街のあちこちに銭湯があった。湯船の中で戦闘的議論がたたかわされた。それは時代の娯楽であり、快感であった。たかが銭湯論議だったとしても、論争であるかぎり勝たねばならない。勝つためにはまずは気合だ。気合さえあれば、少々の論理的不整合を気にする必要はない。決闘者らしい吉本の態度であった。(このシリーズ終わり)

(2012.4.28 花崎泰雄)




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尖閣買い取り

2012-04-18 20:17:54 | Weblog

早晩やってくる総選挙をにらんで、大阪維新の会を率いる橋下徹・大阪市長が、原発再稼働へと動く政権を批判して、反民主党の姿勢をあきらかにした。続いて、石原慎太郎・東京都知事が「政府に吠え面かかせてやる」(朝日新聞4月18日朝刊1面)ために、尖閣列島を現在の持ち主(私人)から東京都が買い取る交渉がまとまったと、現地時間4月16日に米国・ワシントンD.C.でおこなった講演の中で明らかにした。面白い話題なので、連載中の故吉本隆明氏への追悼批評シリーズを一時中断して、東京都の尖閣買い上げについて考えてみよう。

石原が講演したのはワシントンD.C.のシンクタンク・ヘリテッジ財団で4月16日月曜日の午後1時から2時20分にかけての、The U.S.-Japan Alliance and the Debate Over Japan’s Role in Asia (米日同盟とアジアにおける日本の役割についての討論)という、財団主催の催しだった。

ヘリテッジ財団のサイトを開き、この催しのビデオを見た。

ヘリテッジ財団はワシントンD.C.では名の知れた保守派のシンクタンクで、そこで講演する人は、それなりに内容のある話をすることを期待されている。だが、ヘリテッジ財団のビデオを見る限り、石原の話は、支持者拡大を目指して政治家がよくおこなう時局講演会的政治漫談の域を出なかった。

こんな調子だった。

講演は、反共産主義を掲げるヘリテッジ財団に敬意を表してか、私は共産主義が嫌いだ、という石原の信条表明で始まった。そのあと、毛沢東の『矛盾論』、環境問題、キリスト教とイスラム教の対立、米国が日本に押し付けた憲法に対する非難、アメリカの黄色人種に対する差別的視点への批判、江戸時代日本の洗練された文化への誇り、岸信介は立派な政治家だったという石原の史観、日本を悪くしたのは昔は軍部いまは役人だという権力批判、日本はロシア、中国、北朝鮮と核兵器を持っている3つの国と相対している日本の脅威、などなどスピーチは焦点の定まらぬままに転々。石原は、脅威に対抗するためには日本も核のシミュレーションを行い、自前の戦闘機を開発すべきだと話し、そのあと、尖閣列島買い取りを決めたという話を持ち出した。

日本のメディアは都知事の尖閣列島買い取り発言で大騒ぎをしたが、石原講演に続く討論では、ヘリテッジ財団が招いたコメンテイターは尖閣列島買い取りの話題を取り上げなかった。尖閣買取は無視された。

都知事として3月に米国出張を発表した時、石原は、大いに物議を醸してきたい、という趣旨のことを言っていた。しかし、筆者が米国のメディアのいくつかを見たかぎりでは、ワシントン発で石原のスピーチを報じたものは目に留まらなかった。通信社のAPが東京発で記事を送り、ワシントン・ポストもCNNも、ピュリッツアー賞を受賞したばかりのハフィントン・ポストも自前で取材しないで、APの記事をコメントなしで報じた。いつも通りの日本大騒ぎ、アメリカ冷ややか、という日本要人訪米ニュースの扱いである。

東京都の尖閣買い取りの話の中で、東京が尖閣を買い取ることにアメリカは異議をとなえないでしょうね、という、つまらない冗談を言った。もちろん、アメリカが文句を言う筋合いの買い物ではないが、日本ではどうかな。

日本国には地方自治法という法律があって、その第一条の二は次のように言っている。「①地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。②国は、前項の規定の趣旨を達成するため、国においては国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務又は全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、住民に身近な行政はできる限り地方公共団体にゆだねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割を分担するとともに……」。

法律は地方公共団体の仕事は住民の福祉増進が基本であり、国際社会における国家としての存立にかかわる事務は国の仕事であると役割分担を定めている。都知事が東京都議会に尖閣買い取り案を提出するにあたっては、それが住民の福祉といかなる関係があるかを説明する必要に迫られる。

政府に吠え面かかせる目的でアメリカに行き、ワシントンD.C.のシンクタンクで開かれた「米日同盟とアジアにおける日本の役割」という講演会で尖閣買い取りの件を初めて公にしたのだから、買い取りの動機は都民の福祉増進ではなく、日本の外交・安全保障政策がらみであったことはあきらかだ。

さて、都議会でどのような議論がされるのか、面白そうだね。

(2012.4.18 花崎泰雄)
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吉本隆明  1924-2012 その3 『マチウ書試論』

2012-04-13 23:23:54 | Weblog

吉本隆明のエッセイ『マチウ書試論―反逆の倫理』(『吉本隆明全著作集4』勁草書房、1969年所収)は次のように始まる。

「マチウ書の作者は、メシヤ・ジェジュをヘブライ聖書のなかのたくさんの予約から、つくりあげている」

さて、ジェジュとはいったい誰だ?

吉本はこのエッセイで、イエスを「ジーザズ」でも「ヘスス」でも「イエスス」でもなく「ジェジュ」と、マタイを「マチウ」と、モーゼを「モイズ」と、フランス風に表記している。ならば、「メシヤ・ジェジュ」は、いっそ「メシ・ジェジュ」と表記した方が、フランス語風の表記の平仄が合うというものだ。吉本は、エッセイの末尾で、聖書のテキストとして、La Sainte Bible par Louis Segond を用いたと断っている。その理由を、日本語版聖書の文語体の荘厳で曖昧な一種の名訳を引用する気になれなかった、と説明している。だが吉本はこのことで、やがてきついしっぺがえしをくらうことになる。

吉本がテキストに使ったフランス語版マチウ(マタイ)福音書では「メシア」という語は一度も使われていない。マチウ福音書の第1章第1節は、Généalogie de Jésus Christ, fils de David, fils d'Abraham とメシアでなく、メシアのギリシャ語訳にあたる「キリスト」を使っている。

使用されたルイ・スゴン版新約聖書の中で、メシアという言葉がつかわれた数少ない例のひとつは Ce fut lui qui rencontra le premier son frère Simon, et il lui dit: Nous avons trouvé le Messie (ce qui signifie Christ).( ヨハネ伝1章41節)である。

日本ではなじみの薄いフランス語版の聖書をテキストに使い、ジェジュ、マチウ、モイズという聞きなれない名前を並べ立てたのは、なにをねらった吉本の「仕掛け」だったのだろうか?

吉本のこのエッセイは1954年から55年にかけて書かれ、59年にまとめて発表された。エッセイは3章に分れ、1章と3章がマタイ伝と原始キリスト教とユダヤ教の関係を論じ、その間にある第2節では、ドストエフスキーをめぐる神学的考察が展開されている。したがって、ジェジュ、マチウ、モイズという表記は、イエス、マタイ、モーゼという表記がもたらす聖書臭さを薄め、エッセイを文芸批評として読ませようという意図があったのだろうか?

だが、この稿の筆者は『マチウ書試論』の文芸批評的部分はさておき、聖書学にかかわる部分について論評したいと思う。

吉本は『マチウ書試論』で、①キリストは存在しなかった②原始キリスト教会はユダヤ教会の分派だった③分派活動をめぐって原始キリスト教会はユダヤ教会から激しい攻撃を受けた④ユダヤ教からの攻撃にさらされていた原始キリスト教のマタイ派は、ユダヤ教会に対する激しい呪詛のことばと、旧約聖書からのアイディをかき集めて、キリストとよばれる架空の救世主を作りあげたのだ、と説明した。

キリストは存在しなかったという議論は、ヨーロッパでは19世紀から盛んに論じられてきた。吉本がエッセイで引用したアルトゥール・ドレウス『キリスト神話』(岩波現代叢書、1951年)もそうした1冊である。

原始キリスト教会がユダヤ教の分派だったという点に関連して、吉本は旧約聖書中のエピソードがマタイ伝に多数利用されていることを、多くの例を挙げて説明している。新約聖書福音書が多くの記事を、旧約聖書をタネ本にして書いていることは、ドレウスが『キリスト神話』で指摘している。

新約聖書のマタイ福音書とルカ福音書には、先行したマルコ福音書と似かよった部分が多い。そこで、マルコ、マタイ、ルカの3福音書は「共観福音書」とよばれている。マタイ福音書はマルコ福音書とともに、「Q資料」となずけられた、まだ発見されていなが、その存在が動かしがたいキリストの語録、この2つの資料を基に書かれたという有力な説が、吉本がこのエッセイを書いたときはすでにあった。

「Éli, Éli, lama sabachthani?(わが神、わが神、おまえはなぜわたしを捨てたのか)」と吉本が引用した、十字架の上のキリスト言葉は、吉本が使ったルイ・スゴン版福音書では、

Et à la neuvième heure, Jésus s'écria d'une voix forte: Éloï, Éloï, lama sabachthani? ce qui signifie: Mon Dieu, mon Dieu, pourquoi m'as-tu abandonné? (マルコ伝15:34)

Et vers la neuvième heure, Jésus s'écria d'une voix forte: Éli, Éli, lama sabachthani? c'est-à-dire: Mon Dieu, mon Dieu, pourquoi m'as-tu abandonné?  (マタイ伝 27:46)

となっており、もともとは詩編22冒頭の

Mon Dieu! mon Dieu! pourquoi m'as-tu abandonné....

に由来する。

ざっと以上のように、吉本のマタイ福音書に関する説明は妥当なものである。原始キリスト教はもともとユダヤ教内の分派として始まり、数世紀をかけて今日のキリスト教に近い形にまとまっていった。だが、その初期において、分派活動をめぐって原始キリスト教会がユダヤ教会から激しい攻撃を受けていたことはよく知られている。

そこで、吉本は次のように書いた。

「マチウの作者は、ここでも、キリスト教を迫害するユダヤ教という、手慣れた公式を、憎悪をこめた発想によって、この伝承のなかへ封じこめる。ローマのユダヤ総督は群衆のまえで、手をあらって言う。『わたしは、この正義の人の血について関知しない。おまえたちのせいである。』と。人々はこたえる。『かれの血が、われわれと、われわれの子孫の責にきしてたまるものか。』」

吉本が引用したのは『マタイによる福音書』27章24-25節。吉本はルイ・スゴン版から上記のような訳文をつくった。吉本が「かれの血が、われわれと、われわれの子孫の責にきしてたまるものか」と翻訳した部分は、彼が敬遠した文語訳による日本語版では次のようになっている。

「其の血は、我らと我らの子孫とに歸すべし」

吉本「きしてたまるか」
文語訳「きすべし」

みなが「きすべし」というとき「きしてたまるか」と叫ぶのが、われわれの記憶にある吉本の真骨頂だが――そのような軽口はさておき――ここは、たとえば「キリスト教徒が周縁的で公民権のない人々である限りに於いて、イエスの死の責任をユダヤ人に被せ、ローマ人を免罪するような物語は、誰をも傷つけることはない。だが、ローマ帝国がキリスト教国となるや、この虚構は致死的なものとなる。後のキリスト教の反ユダヤ主義、そして最終的にはジェノサイドに至る反ユダヤ主義を見れば、もはや受難物語が比較的無害なプロパガンダであるなどということは出来ない」(ジョン・ドミニク・クロッサン『誰がイエスを殺したのか―反ユダヤ主義の起源とイエスの死』青土社、2001年、14ページ)などと論じられる重い部分なのだ。

吉本がテキストとしたルイ・スゴン版には何とかいてあるか。以下の通りだ。

Et tout le peuple répondit: Que son sang retombe sur nous et sur nos enfants!

「……その血の責任は、我々と子孫にある」(新共同訳)

この重要な局面で、吉本はとんだ誤訳をやってしまったのである。

『マチウ書試論』の最後で、

「原始キリスト教の苛烈なパトスと、陰惨なまでの心理的憎悪感を、正当化しうるものがあったとしたら、それはただ関係の絶対性という視点が加担するほかに術がないのである」と吉本は述べている。クロッサンの言う、ジェノサイドにまで至ることになった反ユダヤ主義の発芽を正当化しうる関係の絶対性という視点とは、いったい何であろうか? イエスの死に関して、『マチウ書』がローマ人に対しては寛容であったことの背後には、いったいどのような関係の絶対性がひそんでいたのだろうか?

(2012.4.13 花崎泰雄)

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吉本隆明  1924-2012 その2 宗祇と蕪村をめぐって

2012-04-08 16:19:52 | Weblog

「宗祇が意図したのは……短歌形式である五七五七七の区切りの破壊であった。上句と下句をそれぞれ意識的に独立した詩形として自立させ、しかも、両句が合して複雑な付合いの心理上の効果を出すところに、連歌形式の特色を定めたのである。……発生史的にみて宗祇が意企したのは短歌的な区切りの破壊であった」(吉本隆明『宗祇論』)

引用した吉本隆明の「短歌的な区切り」という言葉の意味がよくわからない。短歌を構成する五・七・五・七・七の5つの区切りのことをいっているのだろうか。それとも、上の句五七七と、下の句七七の2つの区切りのことをいっているのだろうか。

『新古今和歌集』517の後鳥羽院の次の歌を例にとってみよう。

  秋深けぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむしよもぎふの月

この歌は注釈によると

  秋深けぬ/鳴けや霜夜のきりぎりす/やや影さむし/よもぎふの月

と4つに区切ることができる。


『新古今集』におさめられた短歌は初句で切れるもの、句のあちこちで切れるもの、それと、

  心なき身にもあはれはしられけり/鴫立つ沢の秋の夕暮 (西行)

のような、新古今調の特徴である五七五の上句と七七の下句のあいだで切れるものがある。つまり五七五七七のいろんなところで切れているわけだ。いまさら区切りを「破壊」しようがないではないか。

『新古今和歌集』に登場する後鳥羽院、藤原定家、藤原家隆らは連歌の名手でもあり、しばしば後鳥羽院を囲んで連歌の会を催していた。

有名な定家の歌

  春の夜の夢の浮橋とだえして/峰にわかるる横雲の空

は、上句と下句の間の連続性が希薄である。こういう新古今の手法を応用して、上句と下句を別の人が詠んで遊ぶことで連歌がさかんになった。

「上句と下句をそれぞれ意識的に独立した詩形として自立させ、しかも、両句が合して複雑な付合いの心理上の効果を出すところに、連歌形式の特色を定めた」のが宗祇であった、と吉本は書いたが、それは正確ではない。

宗祇自身が著書『吾妻問答(角田川)』で連歌の発展段階を三段階に分類している。連歌の式目を集大成した二条良基や救済のころまでが上古、周阿から梵灯庵ぐらいまでが中古、宗砌以降を当世とした。

「歌の続句などのやうに言ひかけて」と宗祇が『吾妻問答』で書いたように、上古の連歌は長句五七五と短句七七との付きかたが近すぎて歌における上句と下句のような感じの連句が主流だった。

たとえば

   友なしとても旅の夕ぐれ        救済
  けふより後の花はたのまず       良基
   霞めども梢に風は猶吹きて       親長

中古は付け句それ自身の興趣が重視されすぎ、前句への付き方が不確かな傾向がつよくなった。「一句をたしなむ心ばかりにて」(『吾妻問答』)、前句につけることをなおざりにした句がめだつようになった、と宗祇は書き残している。

たとえば、

  めぐる車は世のなかにあり
 落椎の深山がくれの小笹原     周阿

当世の連歌師である宗砌は、中古の連歌の傾向を批判し、上古の連歌の良いところを取り入れ、付け句がそれぞれ独立性をもちながら、しかも前句と適切につくような連歌を大事にした。そうした当世の連歌のスタイルを大成したのが宗砌の弟子である宗祇だった。

「発生史的にみて宗祇が意企したのは短歌的な区切りの破壊であった」という吉本の記述は意味不明である。もし、上の句と下の句の意味上の分断を意味するのであれば、それは中古の連歌師がやったことで、宗砌・宗祇らはそれを逆の上古のあり方の方向に引き戻したのだ。

さらに吉本は宗祇の連歌理論「連歌正風」を引用するにあたって、本当の出典が『老いのすさみ』とあるべきところを『吾妻問答』と取り違えている。

連歌に関する入門書をきちんと読まないで、吉本は『宗祇論』を書いたのではないかと疑われる。


              *

また、吉本は『蕪村詩のイデオロギイ』で

  地車のとどろとひびく牡丹かな

を引合いに出して、地車のとどろきを農民暴動とむすびつけ、句の背景には、地獄絵のような現実社会がよこたわっているとして、「蕪村は、この現実的な危機を上昇的に受感することによって風刺的な風俗詩の創始者である柄井川柳と対極的な位置にたったのである」と断定した。

この手を使えば、古今伝授のために、三島に戦陣を張っていた東常縁のもとを宗祇が訪れたさい、東常縁の息子・竹一丸の病気平癒を願って三島大社に奉納した宗祇の独吟『三島千句』第Ⅰ百韻の発句、

  なべて世の風をおさめよ神の春

をもって、宗祇を「戦乱の世の反戦平和詩人だった」と断定することも可能だ。

『蕪村詩のイデオロギイ』はエッセイの最後で「明治革命はせめて蕪村―一茶を流れるイデオロギイ線上で主動されるべきであった」のだが、明治の革命家だった浪人、下級武士インテリゲンツァは長歌や和歌(ママ、長歌に対応するのは短歌であろう。長歌は和歌に含まれる)の方法で、三文の値打もない復古的な政治イデオロギイ詩を残した、と嘆いて見せた。

蕪村のイデオロギイとは、一茶のイデオロギイとは、何であったのか。明治革命の下級武士のイデオロギイ詩とは何であったのか。読者としては知りたいところだが、吉本のエッセイはその点を実証的に説明しないまま通り過ぎた。

確かに一茶には

  ずぶ濡れの大名を見る炬燵かな

という反権力を思わせる句もある。だが、一方で、

  松陰に寝て食ふ六十余州かな

という徳川(松平)治世の天下泰平を讃えている句も手がけているので、この人のイデオロギーとは何であったのか、実はよくわからないのである。 

(2012.4.8 花崎泰雄)
 

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