吉本隆明と花田清輝の論争をあつかった好村冨士彦の著書は、そのタイトルをズバリ『真昼の決闘』(晶文社、1986年)としている。吉本の死去にあたって、彼に「吉本ばななの父」ではなく、「戦後最大の思想家」「思想界の巨人」「知の巨人」といった尊称をメディアが贈った背後には、次々と論敵を見つけては決闘を挑む西部劇の早打ちガンマンにも似た、吉本の若いころの雄姿の記憶があったためだろう。
名の知れた早撃ちガンマンに挑み、彼を倒すことで名を挙げようとした西部劇のガンマンのように、吉本は花田や武井昭夫、埴谷雄高、鮎川信夫、小浜逸郎といった人々を相手に、時に場外乱闘風に、時に軽いパンチを応酬するスパーリング風に論争した(くわしくは添田馨『吉本隆明 論争のクロニクル』響文社、2010年)。
とくに花田清輝との論争はその筋では、「戦後の思想の歴史において特筆すべき位置にある」(添田、前掲書)とされるが、日本文学史に興味のないこの稿の筆者などには、いまとなっては面白くもおかしくもない退屈な論争としか読めない。これが日本の戦後の思想史において特筆すべき位置にある論争であるとすれば、日本の戦後思想なるものは相当貧弱なしろものだったに違いない。
文学者の戦争責任、転向、擬制としての日本共産党といったテーマをめぐる吉本・花田論争を読んでいると、尊皇、佐幕、攘夷、開国を叫んで刀を振り回していた幕末を思い起こす。鎖国によって自らを海外から切り離していた当時の日本と、世界大戦で孤立した末に敗戦、まだ世界に窓を開ききっていなかった戦後の日本で、井の中の蛙ふうのテーマでカンカンガクガク論じ合われていたのだな、という程度の感慨しかわかない。
論争が行われた1950年代から60年代にかけては、論争の中身は今読むよりもよほどタイムリーなものであったとは想像する。だが、2010年代の今日、論争を読んで感じるのは、むしろ花田、吉本両者が投げあう悪口雑言のヴィヴィドさの方である。
花田が吉本について、戦争中のファシストが自己批判抜きで戦後、自由主義者に転向したもので、反共の一線だけは戦争中から戦後にかけて一応貫いている…土壇場にのぞんでいかなる音をあげるか……いっぺん刑務所の中にたたきこんでやりたい、という風なディスカッションの礼にもとる乱暴な言い方をすれば、売り言葉に買い言葉で、吉本は花田を、東方会の下郎、戦争中の転向ファシスト、戦後の擬制コミュニストと口汚くののしった。
こういった調子でいろんな論敵にたいして吉本は悪態を吐き続けた。
「微視的に個々人を見てみると、こういうラディカルは政治的ラディカルというより、自分の精神に傷を負った心理的ラディカルが多いですね……その心の傷は、……もっと『プレスティジ』のある地位につく能力をもちながら、『しがない』『評論家』や『編集者』になっているという、自信と自己軽蔑の入り混じった心理に発している」という丸山真男の座談会での発言が自分やその周辺の人々に向けられていると感じた吉本は、丸山を「陸軍一等兵として戦争に協力した」と「情況とはなにか」(『吉本隆明著作集 13)で書いた。
花田に「戦争中の転向ファシスト」と悪態をついた吉本は、別のところで、思想の科学研究会の共同研究『転向』(上巻)をとりあげて、転向・非転向の問題を善か悪かという倫理的基準から切り離したところが画期的であった、とほめている。ついでに「わたしもまた『転向論』のなかで、転向を日本の社会構造の総体にたいする認識の錯誤からくる思考変換として意味づけることによって、倫理的基準から切断する方法をもとめた」(「近代批評の展開 2 転向軸の問題 Ⅰ、『吉本隆明著作集 4』所収)と書いた。
吉本は、素面のときは「転向」を倫理的基準から切断するといい、かっとなると「戦時中の転向ファシスト」という具合に倫理基準に密接に絡ませて、悪罵の道具として使うのである。
もともと、吉本は1956年に発表した「『民主主義文学』批判――二段階転向論」では、「プロレタリア文学者の殆んどすべてが、(中野、宮本<百>以外の)たんに権力の弾圧によって転向をよぎなくされたばかりにとどまらず、戦争期において積極的に権力に協力し、理論的、実作的に戦争を合理化した」と、強制による転向と自発的な転向の2つのステップがあった、と考えていた。
それが、すでにこのシリーズ第1回で紹介したように、1958年の「転向論」では、「わたしは弾圧と転向は区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければどのような見解をもつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい。また、日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである」と見方を変えた。
吉本が、二段階転向論から強制による第1段階の転向を消去し、転向を自発的なものとする一段階転向論に転じたのは、どのような理由があってのことだろうか。権力の強制を否定する新しい史料を発見したわけではなかった。
二段階転向論では、権力の強制に抵抗して獄中非転向を貫いた共産党員に、その行為についてそれなりの価値を与えなくてはならなくなる。獄中転向も非転向も同じ穴のムジナであった、という「転向論」の結論へ持ってゆくためには、「権力の強制・圧迫による転向」が邪魔だった。結論の邪魔になる前提を排除したのである。
吉本はこうした強引な論法をためらわず使った。
安保闘争時の全学連幹部が、元日本共産党員で当時は右翼だった田中清玄から闘争資金をもらっていたという報道に対して、安保闘争を主導的にたたかうために必要とされた資金の総体のなかで、「田中清玄から、かれらが引きだしたという金は、(数百万円というのが事実だとしても)小指のさきほどの部分にすぎないことは、常識さえあれば、だれにでも理解できるはずである」(「反安保闘争の悪煽動について」)という非常識かつ強引な論法で元全学連幹部たちをかばった。
また、梅本克己、佐藤昇、丸山真男の3人の座談会で、犯罪者同盟を結成した平岡正明が私有財産否定のデモンストレーションとして、本屋で『悪徳の栄え』を万引きして逮捕されたことを梅本があざわらったとき、吉本は次のように書いた。
「やろうとしても万引ひとつできない半病人が何をほざくのだ……一冊の本を万引するという行為の背後に、いいかえれば一般に卑小な行為の背後に、どんな巨大な思想が存在することもありうるのである」(「情況とはなにか」『吉本隆明著作集 13』)
あの時代、街のあちこちに銭湯があった。湯船の中で戦闘的議論がたたかわされた。それは時代の娯楽であり、快感であった。たかが銭湯論議だったとしても、論争であるかぎり勝たねばならない。勝つためにはまずは気合だ。気合さえあれば、少々の論理的不整合を気にする必要はない。決闘者らしい吉本の態度であった。(このシリーズ終わり)
(2012.4.28 花崎泰雄)