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news commentary

そこどけ、そこどけ

2008-02-22 18:13:05 | Weblog
およそ8000トンのイージス艦「あたご」が7トンの漁船「清徳丸」を真っ二つに切り裂いた。その海上衝突事件の報道によると、イージス艦は衝突12分前に船の灯火に気づいていた。だが、衝突1分前まで、自動操舵で進んでいたそうである。衝突現場は野島崎と三宅島を結ぶ線の中間あたりだ。東京湾の入り口である。

石破防衛相は2月22日の衆院安全保障委員会で、衝突現場周辺は漁船などの航行が多い海域であり、「こういう海域では手動で運航すべきだ」と答弁した。海上交通が輻輳する海域での自動操舵は不適切だったと所管大臣が認めたのだ。

図体が大きくて作りが頑丈な乗り物の運転者は運転が乱暴になりがちだ。道路上の大型貨物自動車にそうした例が多い。恐れをなして周りがよけてくれると思っているかのような運転を見かける。万一ぶつかっても、めったなことでは大型の方の運転者が死ぬことはないとたかをくくっているようにもみえる。最近では歩道上の走行を認められている自転車が極めて横暴な走り方をしている。歩道を歩いている人を邪魔にしているかのような自転車乗りがいる。自転車に衝突されて死んだ人もいる。自転車に強制賠償保険をかけさせる必要がある。

自転車はさておき、イージス艦に話を戻すと、自衛隊はたるんでいるのではないかと新聞論調はおかんむりだ。たとえば「漁船との衝突さえ回避できないようでは、日本の安全保障は心もとない。『万が一、自爆テロの船だったらどうするんだ』との渡辺金融相の指摘ももっともだ。海自の海上警備行動や船舶検査などは大丈夫か、と思う人もいるだろう」(読売新聞社説2月20日付)。「法的責任の所在は別にして、常識で考えれば、軍用艦の方が脆弱な民間の船に注意をはらって航行するのが当然ではないか。『なだしお』事故以来の再発防止策が、そうした常識的発想に基づいていなかったなら問題だ」(日経新聞2月20日付)など。

衝突については「たるみ」だけではなく、文化やメンタリティーの問題も議論されるべきであろう。今から20ほど前の話。インドでタクシーに乗った。雑踏の中でタクシーは徐行したが、荷物を抱えた人に車体が触れた。その人は路上に倒れた。立ち上がった男に向かって、タクシーの運転手が窓から顔を出して、なにやら大声でわめき、そのまま車をスタートさせた。

小説家・司馬遼太郎が生きていたころにあちこちに書いたりしゃべったりした軍隊というものの体質についてのエピソードがある。司馬遼太郎は戦争中、栃木の連隊にいたことがあった。そのころ、米軍が関東地方の沿岸に上陸したとき、栃木から戦車隊が出動することになっていたそうである。道路は沿岸から内陸へと避難してくる人々でごったがえすことだろう。そのような道路をどうやって栃木から関東沿岸へ戦車を進めればよいのか。あるとき、たまたま大本営からやって来た人に司馬遼太郎はこのことを尋ねたという。すると、「轢っ殺してゆけ」という答えがかえってきたそうだ。


(2008.2.22 花崎泰雄)


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定義の胡散臭さ

2008-02-15 16:16:19 | Weblog

新聞を読んだり、テレビのニュースを見ていると、政治家は聴衆のウケをねらって、そうとういいかげんな発言していることがよく分かる。日本の国会議員もその例に漏れない。その1人が法相をやっている鳩山邦夫で、彼の最近の暴言である冤罪発言は、「首相の任命責任が問われる」と朝日新聞が社説であきれたほどである(2008年2月15日)。

報道によると、この2月13日、鳩山は法務省で開かれた検察長官会同で、公職選挙法違反容疑で起訴された12人に無罪判決が出された志布志事件を、「私は冤罪と呼ぶべきではないと考えている」と話した。「冤罪」は彼の定義によると「無実の罪で有罪判決を受け、確定した場合」のことである。たとえ最長で1年1ヵ月身柄を拘束された人がいたとしても、無罪判決が出された場合は冤罪ではない、と鳩山は考えたそうだ。

結局、鳩山は翌14日の衆院予算委員会で「志布志の被告であられた方々が、不愉快な思いをされたとすれば、おわびをしなければならない」と陳謝。冤罪の定義について「人違いで有罪判決を受け、服役までした場合」などに限定して解釈していたと釈明したあとで、「今後、このまったく不確定な『冤罪』という言葉は公式の場で一切使うまい、と考えるようになった」と、法務大臣の発言としては非論理的な、なんだかやけっぱちな感想を述べた。

法を執行する側の法解釈は常に監視する必要がある。彼らに法解釈を任せておくのは、本当に危険なことだ。執行に都合のいいように解釈を捻じ曲げるからだ。

2002年アメリカ合衆国で、ブッシュ大統領の首席法律顧問だったアルベルト・ゴンザレスが司法省と共謀してよからぬことをたくらんだ。アフガニスタン攻撃のさいアメリカ軍が捕まえたタリバンやアルカイダのメンバーの容疑者から情報を引き出すため、常識上の拷問の語義を法の定義する「拷問」からはずして、拷問の定義をより狭め、それによって拷問を使いやすくしようとした。

彼らが作った拷問の新定義は次のようなものだった。「肉体的苦痛が、その強度において、臓器損傷や身体機能障害に等しい重大な肉体的損傷を与え、あるいは死にいたらしめる場合、これを『拷問』とよぶ」。このような拷問を行ったものは法の裁きを受ける、というものだった。

2004年になって、イラクのアブ・グレイブ刑務所の拷問・虐待事件が明るみに出た。その背景にあったのがこの新定義で、メディアにリークされ、大騒ぎになった。司法省は公式声明で先の新定義を取り消し「拷問はアメリカの法と価値観ならびに国際的な規範と相容れない」と声明した。

とんだ大統領法律顧問と司法省だが、こののちアルベルト・ゴンザレスは法律顧問から司法長官に栄転した。

まったく油断のできない世の中である。

(2008.2.15 花崎泰雄)



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