『朝日新聞』6月26日朝刊のオピニオンのページで、佐伯啓思氏が「対コロナ戦争」と題して、日本と欧米の対処の仕方の違いを書いていた。
欧米諸国の多くが、都市のロックダウンなどの強い措置をとった。日本の「自粛要請」とはかなり際立った対照を示していた。
その違いを起点に佐伯氏は想像力の翼を広げた。欧米では「対コロナ戦争」という言い方がされた。コロナ禍の状況とは一種の「戦争状態」ということになる。「コロナ対策」などという生易しいものではない、と佐伯氏は力んで見せる。
欧米では都市封鎖などの私権制限をためらわなかった。私権制限は共同体としての国家を守るということであった。佐伯氏はジャン=ジャック・ルソーやカール・シュミットを引っ張り出して、緊急時の国家権力へと議論を進める。
佐伯氏は言う。「国家社会が安定している平時には、当然、個人の権利は保護される。しかしひとたび国家社会に危機が押し寄せてきた時には個人の権利は制限されうる。国家が崩壊しては、個人の権利も自由もないからである。だから危機を回避し、共同体がもとの秩序を回復するために、強力な権力が国家指導者に付与される。その限りで、指導者は一種の独裁者となるが、その独裁は、危機状態における一時的なものであり、かつ主権者である人民の意志と利益を代表するものでなければならない」。
カール・シュミットによれば、「政治」とは危機における決断なのである。しかし、戦争のような国家の危機という「例外状態」にあっては、部分的には憲法の条項を停止した独裁(委任独裁)が必要となる、と佐伯氏はダメ押しをする。
日本では、国家意識は希薄で、市民意識も欠落している。
そこで、佐伯氏は次のように慨嘆する。
「われわれは、『自粛要請』型でゆくのか、それとも、西洋型の強力な国家観を採るのか、重要な岐路に立たされることになるだろう。『自粛型』とは市民の良識に頼るということであるが、果たしてそれだけの良識がわれわれにあるのだろうか。どうせ国が何とかしてくれると高をくくりつつ、ただ政府の煮え切らなさを批判するという姿勢に良識があるとは思えないのである」。
頼れるほどの良識が市民にあるとは思えない、と佐伯氏は主張する。危機にあっては一時的に指導者の独裁を佐伯氏は是認する。
このあたりで佐伯氏の手品の仕掛けが見えてくる。
日本国の首脳は「良識のない」有権者が選んだ国会議員から選ばれる。菅内閣総理大臣は、良識のない市民の選択の結果である。さて、菅内閣総理大臣に市民を凌駕する良識があり、安心・安全な独裁を委ねられるというエビデンスはどこにあるのか? 「対コロナ戦争」という言葉は単なるレトリックであって、covid-19の処方を誤った政権を見限って、新しく政権を選びなおせばすむ程度の実務的な話なのである。
(2021.6.27 花崎泰雄)