2パーセントの物価値上がり目標を掲げ、日銀総裁の首もすげかえた第2次安倍内閣は、いまのところ円安・株高に支えられて順風満帆だ。この調子が続けば7月に予定されている参議院議員選挙でも自民党が大勝する可能性が高くなった。
大勝した自民党はその周辺の勢力を集めて憲法改正の発議をし、国民投票にかけて憲法96条を改正し、国会議員の半数以上の賛成で国会が憲法改正の発議をできるようにするだろう。国民投票法の方はすでにできている。
それでは、改正手続きのハードルを低くする96条改正の後、具体的には憲法の条文のどこをどう変更しようとしているのか。これまでに伝えられている自民党の改正案の骨子は、おおむね以下のようである。
①憲法9条の戦力不保持を廃棄し、国防軍を持ち、集団的自衛権を行使できるようにする。
②自由及び権利の行使を公の秩序に反さない範囲に制限する。
③天皇の地位を象徴から元首に改める。
9条を改め戦力を保持できるようにする。基本的人権を制限し、国民の国家に対する義務を強化する。天皇の国家元首化。これらは安倍・自民党の独創ではない。1955年の自民党結党以来の党の姿勢である。
現行憲法は敗戦後の占領軍によって無理やりおしつけられたものであるから、新しく自主的につくり直さねばならない。そう叫び続けてきた自民党などの改憲論者は、いよいよジェリコの壁の崩壊だと、96条の改正へ手ぐすね引いていることだろう。
改憲派にとってのいま一つの追い風は選挙民の「忘却」である。
現行憲法が占領軍に無理やりおしつけられたものかどうか――それは受け止め方の問題である。たしかに、占領軍は日本側が示した憲法改正案を斥けて、GHQ案を現行憲法の柱にした。
日本側が占領軍に示した改正案は、大日本帝国憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と字句を改めた程度のものだった。あのころの日本の権力者たちはGHQ案のような近代憲法は想像だにできなかった。
かえりみれば、大日本帝国憲法はプロイセン憲法が手本であり、明治政府の顧問だったドイツ人学者ヘルマン・ロエスラーが作成した「大日本帝国憲法草案」をたたき台にしてつくられた。明治のころには、西欧世界では君主に対する人民の権利である「権利章典」の考え方を憲法に採り入れる進んだ国もあったが、日本の権力者たちは、主権は国王にあり、とする当時のヨーロッパにあっては後進的だったプロイセン憲法にならって大日本帝国憲法をつくることにした。だが、彼らはプロイセン憲法に暗くロエスラーのようなお助け外国人を必要とした。
古い明治憲法のもとで育ってきた敗戦国日本の権力者たちは、天皇制を維持することだけで頭の中がいっぱいだった。GHQに憲法を押しつけられなければ、現行憲法のような世界に通用する近代憲法を日本は持ちえなかった。
まことに無残だが、歴史を顧みればそういうことだ。
憲法9条は日本を丸裸にして再び戦争を起させないようにする連合国側の意思の表れだった。だが、朝鮮戦争勃発と冷戦の深まりとともに9条はウヤムヤになり、米国は日本に再軍備の要請をした。続く日米安保体制の下で、自衛隊は極東米軍を補完する軍隊となり、9条は解釈改憲という手法によって、今日のような無残な姿になった。
しかし、非現実的だという批判に耐えて、これまで憲法9条が書きかえられなかったのは、その出自はともあれ、憲法9条に込められた理想主義の灯を守りたいという勢力があったからだ。アメリカのハードボイルド小説のセリフをもじっていえば、「現実的でなければ生きていけないが、理想を失っては生きる意味がない」――9条をめぐる議論はこの2点をめぐって繰り広げられた。
そして、9条に生きる意味としての理想を見出して戦後を生きてきた人々はいまや少数派になった。自民党の改正案は「主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」と書き、国民の協力――その究極の形は徴兵制度――を義務化しようとしている。
自由と権利についていえば、たとえば、アメリカ合衆国拳法修正第1条は、言論・出版の自由や人民の平穏に集会する権利などを侵害するような立法を明白に禁止している。日本の現行憲法は第19条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と国家による権利の侵害を禁止しているが、自民党の改正案は「思想及び良心の自由は、保障する」とトーンを落としている。
また、自民党の憲法改正案は第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」を「人として尊重される」とし、「個人」を「人」と書きかえようとしている。いっぽうで、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と「個」を斥け、家族主義を前面に押し出している。
以上はすでにあちこちで議論されてきたことで、目新しいものではない。筆者が憲法改正について言いたいのは天皇の元首化と憲法の構成についてである。
2006年の第1次安倍内閣成立直前、podiumに、次のように書いたことがある。
「現行憲法に瑕疵があるとすれば、それは、条文ではなく、憲法の構成にある。日本国憲法は、前文で主権在民、戦争放棄などの基本的考え方をうたっている。それに続いて第1章「天皇」が置かれている。日本と同じ立憲君主国オランダの憲法は、第1章を「基本権」にさき、国王については第2章「政府」の中の第1節で述べている。同じ立憲君主国のスペインでも、憲法の第1章は「基本権」であり、国王については第2章で規定されている。これらの西欧の立憲君主国の憲法は、君主に関わる事柄よりも国民の基本権についての記述を優先している」
これは、ひとつには敗戦直後の日本の指導層が天皇制の維持のために躍起となり、占領軍の方も天皇制を継続させた方が占領政策をやりやすくなると判断したせいである。したがって、憲法第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という歯切れの悪い物言いになっている。
もともとGHQの試案では、第1条で、主権が国民に存すると規定し、第2条で、天皇の地位について言及していた。GHQの最終案では、「ここに主権が国民に存することを宣言し」という文言を憲法前文に移し、第1条で天皇の地位は主権である国民の総意による、という表現にした。
その憲法前文が、自民党の憲法改正案では、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」となっている。憲法の条文で天皇を元首と変更すれば、この前文は「日本国は……元首である天皇を戴く国家」と読みかえうることになる。
天皇を前面に押し出し、「ここに主権が国民に存することを宣言し」という主権在民の力強い文言を消しさることになれば、改正日本国憲法は欧州の先進立憲君主国の憲法にさらに大きくおくれをとることになる。
(2013.4.25 花崎泰雄)