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山形大学、2位の結城氏を学長候補に決定

2007-07-27 00:11:20 | Weblog
山形大学の知人からの速報によると、同大学学長選考のための学内意向聴取投票が7月25日に行なわれ、26日に投票結果が公表された。その結果は以下の通り。

1位:小山 清人  378票
2位:結城 章夫  355票
3位:加藤 静吾   56票


前文部科学事務次官から天下り的に出馬した結城氏は2位に終わった。この結果を受けて、同日開かれた学長選考会議で、10-4の大差で意向投票2位の結城氏が学長候補に選ばれた。

意向投票1位だった小山氏らは次のような声明を出した。


声  明  文

2007年7月26日
             
山形大学学長候補適任者  
山形大学理学部 加藤 静吾
山形大学工学部 小山 清人
               
(50音順)

山形大学学長選考会議は、昨日(7月25日)行われた学長選挙学内意向投票の結果を覆し、結城章夫候補を次期学長に決定した。われわれは、大学構成員の意向を蔑ろにした学長選考会議の決定に強く抗議する。本学の学長選考は伝統的に教育研究に携わる有権者による投票結果が曲がりなりにも尊重されてきた。学長選考会議の決定は、そうした本学の伝統を否定するとともに、山形大学の将来に大きな禍根を残すものである。

選考会議は、意向投票の結果を覆すこととなった選考会議の決定内容を本学のすべての構成員に対して説明する責任がある。選考会議主催の説明会を直ちに開催し、全教職員に説明するよう強く要求する。

今回の意向投票結果は,候補者としての結城氏が学内有権者の多数から支持されなかったことだけでなく,文科省からの「天下り」に対してもそれを批判した3候補への支持を合わせれば,結城氏支持に対して88票も多かったことから、大学構成員は同氏の「天下り」にも拒否の審判を下したということ示している。結城氏は潔くその客観的な事実を認め、学長就任要請を辞退すべきであった。
結城氏は13日の公開討論会(小白川)において、フロアーからの天下り批判に対し、つぎのように答えていた。
「人事当局の斡旋ではない。予算を背景に押し付けているものではない。仮に押し付けがあるなら拒否すればよい。選挙で選ばれて学長になった場合は、みなさんの選択になる。したがって天下りには該当しない」
しかし、大学構成員の少数派の意向を受けて、多くの選考手続き上の瑕疵にもかかわらず、学長就任要請を受けたということは、自ら「天下り」を認めたことに他ならない!

 さらにその公的な立場もわきまえず、結城氏を擁立し、学内に混乱を巻き起こした仙道富士郎現学長の責任は大きい。権力を私物化し、学長選考そのものを恣意的にコントロールしてきたことは明白であり、学長解任に値するとさえ、考えることができる。その現学長に推薦されてきた結城氏にも当然道義的な責任はあり、学長を辞退すべきである。

さらに私たちは、結城氏の学長候補推薦同意の時期の問題と合わせて、今回の学長選そのものが無効であると考える。つまり結城氏については,6月11日学長選考会議における第1次審査時本人の次官辞任同意が得られていないという瑕疵が有る事が指摘されており,手続き上の瑕疵を不問にしたままでの学長候補決定には,法的にも問題が残る。私たちは、大学構成員の意向を尊重し、選考会議は本日の決定を取り消すよう強く求めるものである。もし、このまま、結城氏を学長候補に決定するなら,法的措置をわれわれは考えなければならなくなる。そうなれば、より一層の混乱も予想される。学長選考会議における学外者主導での結城学長の押しつけは、大学にとっては百害あって一利なきものでしかなく、一層の混乱を引きおこすので,本学の真の発展を願うのであれば、ただちに撤回すべきでものある。
以 上


学長選考をめぐる新しい訴訟に発展しそうである。

ところで、政府内部では学長選考意向聴取投票など廃止して、すべて選考会議で決め競るべきだという議論がいま強まっているそうだ。すべて選考会議で決めるとどうなるか。学外選考委員が一部の学内選考委員とつるめば、あるいは、一部の学内委員が学外委員をとりこめば、学長に据えた人物を通じて大学を操作できる。一方、官僚にとっては、大学学長という世間体の良い名前を手に入れつつ機会をうかがい、本命の天下り先を考えることができる。いわゆる“天下りロンダリング”のアカデミック版として、高級官僚の中で国立大学長の人気が高まる。国立大学法人の理事兼事務局長のかなりが役員出向の官僚だ。天下り学長と出向官僚理事が組めば、やることの第一は、官僚の陣地の拡大であろう。そのかたわら、大学の支配となった官僚が学外の産業界と手を結ぶ。官産の大学支配完成へまた一歩近づくのである。

まあ、そういう意味で、かつての国立大学学長選挙のような半分眠ったムラ型ロウ・ポリティックスが、前事務次官殿のご出馬で、突如、目の覚めるようなハイ・ポリティックスになってきたのが、せめてもの副産物であろうか。

(2007.7.26 花崎泰雄)
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山形大学 学長天下り阻止へ3者連合

2007-07-24 21:45:12 | Weblog
結城章夫・前文部科学事務次官が学長選考に名乗りをあげた山形大学で、7月25日の学内意向投票を前に、結城氏の天下り的学長就任阻止を目指して、結城氏を除く3人の学内候補が候補者の一本化を決めた。意向投票で結城氏を大差でおさえ、学長選考会議の結城氏候補指名を難しくしようとする作戦である。

山形大学の知人から聞いたところでは、農学部の中島勇喜、理学部の加藤静吾、工学部の小山清人の3候補適任者が24日までに協定を結び、小山氏に投票を一本化するよう大学有権者に呼びかけた。

この一本化によって、結城・前文部科学事務次官が学内意向投票で1位になる可能性はこれまでより小さくなった。

意向投票の結果は、学内の猛反対によって一転、公表されることになった。もし学長選考会議が意向投票2位におわった結城氏を学長候補として決定した場合には、滋賀医科大学、新潟大学の場合のように、学長選考をめぐる訴訟になる可能性もあろう。

山形大学の場合、天下り規制で大騒ぎのさなかに、前文部科学事務次官が国立立大学法人の天下り学長になるというきわめてデリケートな要素がある。また、前文部科学事務次官を山形大学学長に任命することになるのは文部科学大臣である。参院選で敗北する予定の自民党への追及の手を緩めない野党にとって格好の攻撃材料になろう。ひときわ話題性にとんだ裁判、政治劇が展開することになるだろう。

また、山形大学の学長選考会議のメンバーである山形新聞編集局長が、山形大学教員が執筆した同紙7月21日付夕刊連載コラム「思考の現場から」の文章中、結城氏の学長選出馬と天下りに触れた部分にいちゃもんをつけたという記事「山大職組情報号外発行『特別寄稿―山形新聞掲載記事に関して』」が、山形大学教職員組合のホームページに載っている。学長選考会議の信頼性に疑惑の影をおとす状況証拠の一つである。

(2007.7.24 花崎泰雄)
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姑息だねえ

2007-07-14 23:48:54 | Weblog
山形新聞7月11日付や、山形大学教職員組合ホームページによると、山形大学学長選考会議は10日、学長選考過程での学内意向調査(学内選挙)の各候補者の得票数を公表すると発表した。

山形大学選考会議はすったもんだの挙句、いったんは選考規則を変更し、得票数を公表しないことに決めていた。山形新聞の報道によると、今回は氏名だけを公表とする学長選考規則は改正せず、とりあえず「移行措置」として得票数を公開するのだそうである。

山形新聞によると「仙道学長が、手続き上の問題で混乱するよりも、次期学長を円滑に選考することに重点を置くべきだ、とし、坪井選考会議議長に移行措置として得票数を公開することを提案。選考委員に郵送で意見を求めた結果、賛成多数だった。同大は、選考規則については、新学長就任後に他大学の例や学内の意見も参考にしながら、再度検討していきたい、としている」そうだ。

事実上の規則の変更部分の削除、復元である。「得票数非公開とする4月23日の規則改正はそのままにした、特例措置は、学内世論に屈したわけではないということを言いたいために持ち出したもの」と同大学教職員組合はみている。

得票数公開の決定は、7月11日、山形大学ホームページ内の学内限定ページで発表された。だが、選考会議のメンバーに山形新聞編集局長がいて、すでに、同日の朝刊1面で選考会議の公表決定を伝えていた。

             *

学内限定版ですか。姑息だねえ。得票数非公開決定の動機の後ろ暗い部分がより目立ってくる。自縄自縛だった。

始まった参院選の動向とともに、山形大学が前文部科学事務次官の天下り的学長就任をうけいれるのかどうか、面白い展開になってきた。

こういう時期だから、もし前事務次官を蹴飛ばしてしまったというニュースが流れることになれば、良い暑気払いになるだろう。

(2007.7.14 花崎泰雄)

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天下り国立大学長誕生へ

2007-07-11 16:25:16 | Weblog
新聞報道によると、2006年度末現在で、3万人弱の国家公務員が5000弱の団体に天下りしていた。それらの天下り受入れ団体に対しては、2006年度上半期、中央省庁から約6兆円の補助金などが交付されていた。

許認可権を独占し、収入があれば、有無を言わさず税金を取り立てる国家は、日本国最大のゼネコン事業体であり、そことのパイプを太くして金の流入を図る、というのは、護送船団方式の時代から大競争時代の現在まで“民間の知恵”であり続けている。

というわけで、国立大学が2004年4月から、国立大学法人法によって、文部科学省の直属機関からはずされ、独立行政法人の親戚のような国立大学法人になって3年余。お役所とのパイプを渇望する地方国立大学のひとつが、文部科学事務次官の天下りを乞い願うところまできた。いわゆる産官学連携の成熟である。

1年ほど前の2006年4月の文部科学省の資料では、前年度、文部科学省の古手の官僚160人が独立行政法人の役職員などに再就職していた。このうち国立大学法人への就職は非常勤も含めて10人だった。この中に学長として天下った者は、さすがにいなかった。

2007年7月6日、それまで文部科学省事務次官だった結城章夫氏が、退任の記者会見で、山形大学の学長選挙に出馬すると、メディアを通じて世間に表明した。選挙に出馬するのであるから、天下りの定義からは外れるが、いろいろ聞くところによると、天下りの変種である。

結城氏が退任記者会見をした7月6日は山形大学の学長選挙立候補に必要な「所信」提出の締切日だった。結城氏は夕方提出した。朝日新聞によると、次官クラスの人事は国会開会中は行わない慣例。国会が7月5日に閉会したので、次官辞職が認められた。綱渡り的ギリギリの日程での立候補だった。 結城前文部科学事務次官は記者会見で「地方大学の位置づけが非常に難しくなっている。私が文科省で得たいろんな知識、経験を何らかの形で役に立て、ふるさとの大学の発展に貢献できれば幸せ」と述べたそうである。
 
山形大学の学長選は、現学長の任期がこの8月いっぱいで満了するためおこなわれる。6月25日に教職員による投票、26日に学内外の委員で構成する選考会議が最終的に決める。

新首都圏ネットワークに山形大学理学部の品川敦紀氏が寄せた内部情報によると、

① 前回の学長選考手続きでは、3月末に第1回選考会議が開かれ、5月末に学内意向聴取と学長候補決定の手続きが行われ、候補決定から就任まで3ヵ月の時間的猶予があった。
② 今回は,第1回の学長選考会議を、前回に比べて約1ヵ月遅らせた。学内意向聴取と候補決定を7月末に行う日程を決めた。これは、国会会期中は、現職高級官僚は、辞職しないという約束、慣例があったためである、とみられている。
③ 現学長、現天下り理事ら、現山形大学執行部は、文科省事務次官の学長就任となれば、当然天下り批判が出る事を予想し,大学構成員の意向によるとの見せかけを作るため,学部長、評議員や、執行部に近い有力教員を集めて、各学部から結城氏の推薦を行わせた。このことは、学部長らの証言で明らかになっている。
④ 学長選考会議は、学内意向聴取(学長選挙)における各候補の得票数を非公開にする決定を行った。5学部の教授会が決定の再検討を要請した。
⑤ そこで第2回の学長選考会議が開かれた。会議では、公開支持5、公開反対が反対派の議長をふくめ5という状況だった。議長が最初の採決から加わって議決権を行使し、5対5の賛否同数にしたうえで、今度は「議長職権」と称して裁決権を行使、非公開決定を再確認した(学長選考委員会規則には、議決のルールが書かれていなかった)。すべては現学長、現天下り理事らと学外委員らが仕組んだ結城前文部科学事務次官を山形大学長に迎えるための策略と見られている。

国立大学が国立大学法人になり、東京大学を頂点とする旧帝大系だけが勝ち組になり、地方弱小大学は衰退の予感におびえている。前文部科学事務次官を学長にお迎えするのも民間の知恵に習った必死の延命策だろう。

結城・山形大学長の時代がやってきて、そのとき文部科学省がちょっとはご祝儀をはずんでやれば、 また次の国立大学法人が文部科学省の古手の高級官僚をシャッポに欲しがることになろう。官僚にとっては天下り先拡大のチャンス到来である。

「百姓は生かさず殺さず」という伝徳川家康のセリフが何の脈絡もなく浮かんできたりして……ああ、まだ梅雨は明けぬか。

(花崎泰雄 2007.7.11)
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オンリーさん、ですか

2007-07-05 14:52:08 | Weblog
原爆投下問題についての「しょうがない」発言でみそをつけ、引責辞任した久間章生氏の後任として小池百合子氏が7月4日、防衛相に就任した。

5日付の朝刊を読んでいて、「女性初の防衛閣僚就任については『初めての女性というとことで、オンリーワン大臣を目指したい』と意気込みを見せた」(朝日新聞4面)のくだりには苦笑させられた。

小池氏が「オンリーワン」というカタカナ言葉にどんな気概をこめたのかは、新聞を読んでもよく分からない。一方、真珠湾攻撃の前に、すでに生まれていた世代である筆者は、「オンリーワン」などといわれると、「シンチーグン(進駐軍)、パンパン、オンリー」などという古い言葉をつい思い出してしまう。パンパンは不特定多数の進駐軍兵士を相手に売春をする人、オンリーは決まった将兵の愛人や現地妻など「オンリーワン」と相手を限定できる境遇の人を意味した。明治期の侮蔑語「ラシャメン」(洋妾)のようなものである。

思えば、朝鮮戦争を機に、アメリカの要請で警察予備隊が生まれ、それが保安隊になり、自衛隊となった。ついこの間、防衛庁が防衛省に昇格し、海外派遣(派兵)のしばりも緩められ、本来任務となった。日米安全保障条約の下で、アメリカの核の傘に入れてもらう代わりに、米国の世界戦略の下請けを自衛隊にさせてきたのである。

右よりの人は、こんな日本を美しくないと繰り返し毒づいてきた。たとえば、「日本はメカケ同然」発言で当時の農林大臣を辞めることになった、倉石忠雄氏をめぐる1967年2月7日の第58回国会衆院予算委員会を議事録で見てみよう。
          
          *
○柳田委員 昨日、倉石農林大臣は、閣議終了後、午前九時半から約三十分にわたって、院内で農林省記者と会見を行なわれました。その席での倉石農林大臣の発言は、おおむね次のようでございます。これは本日の日刊紙に載っておるのを、私は、事、重大でありますから、全文読み上げます。
 見出しは、「日本はメカケ同然」次の見出しは「原爆・30万の軍隊を」こういうことになっています。
 “プエブロ事件”以来の緊張で日本海西方海域で出漁する漁船の安全が脅かされるようになったため、政府は六日までに米ソ両国に対して「日本漁船の安全操業について留意してほしい」注意を喚起した。倉石農相は六日閣議後の記者会見で、この問題に触れ「土足で庭さきにふみ込まれているのに水産庁長官からおそるおそる申し入れなどやっているようでは話にならない。軍備や大砲を持たなければだめだ」と強硬な軍備拡張論をぶって注目を集めた。
 これがニュースであります。
 「同農相の発言要旨次の通り。」――これからが農林大臣の発言要旨であります。
  一、日本海での漁船の安全操業についてはきょうの閣議で発言する時間はなかったが、なにしろ軍艦や大砲を背景に持たなければだめだ。他国の誠意と信義に信頼している憲法は他力本願だ。右のほおを打たれたら左のほおも出してやるということではいまの世界では生きてゆけない。
  一、土足で庭先に踏み込まれているのに水産庁長官からおそるおそる申し入れなんかやっているようではだめだ。佐藤首相も”平和憲法”をいっているけれど腹のなかではくすぐったいだろう。こんなばかばかしい憲法を持っている日本はメカケみたいなもので自立する根拠がない。自分の国は守っていかねばならない。他人のお情で生きている。われわれはよいとしてあとからくる若い人のためいまのうちに立て直さなければいけない。
  同農相はあっけにとられる記者団に「これに比べれば米価審議会なんて吹けば飛ぶようなケチなものだ」と気勢をあげ、最後に「日本も原爆を持って三十万人の軍隊でもあったら……」といいかけて開会の迫った衆院予算委員会に出席のため席を立った。
 以上が日刊紙の伝うるところによる倉石農林大臣の発言要旨であります。事は重大でありまするがゆえに、私はこれから二、三農林大臣にただしたいと思います。
 この新聞の記事は、ひとりこの日刊紙のみならず、昨夜のTBSテレビもこれを取り上げております。また大同小異のことは本日の各紙もこれを取り上げております。農林大臣、この発言に対して責任を持たれますか。

○倉石国務大臣 お答えいたします。
 事柄が昨日のことでありますから、私はきわめて記憶は明らかだと思いますが、だいぶ誇張と粉飾があるようでありまして、私の真意を伝えておりません。
 昨日、内閣の閣議が済みましてから、衆議院の食堂において行なわれておりました記者会見に臨みましたが、私の所管の農林関係の事項がありませんでしたので、きょうは何にもありませんでしたと……。しかし、いつもあの食堂でやる記者会見には、ミカンやコーヒーも出ておりますので、まだ時計を見たら予算委員会の始まる前でありましたので、例によって雑談をいたしておったわけであります。
 そこへ水産庁長官が、報告の事項がありまして、ちょっと顔を出したのを見て、ある一人の記者が、日本海のことについてはどうなりましたかということでしたから、農林省は、外交ルートを通じて、ロシア、アメリカそれから韓国、この三カ国に向かって申し入れをいたしておる、こういうことを申したのでありますが、そのときに私はこういうことを申しました。
 大体私は農林大臣になる前からたいへんふがいなく思っておりますのは――終戦後のわが国においては、昔はかってなかったような、北方においても南方においても、あるいは李承晩ラインというようなものをきめられて、そうしてその中に入るものは、わが国の漁船がどんどん拿捕されるというような、国益を侵害されておるようなことについて、軍事力を伴わない国の外交というものには限度があるんだなあと私は思っておりました。そのときに私が――柳田さんも御承知のように、われわれが青年時代に、国際連盟というものがありました時代に、チェコスロバキアのベネシュという有名な外務大臣がありまして、かなり大国を手玉にはとりましたけれども、やっぱりそのバックがチェコという国であるので、彼の手腕にも限界があった。したがって、いま国際連合の中でも、大国といわれるのはアメリカであり、ソビエトロシアであり、そういう国々が大国と常にいわれておるのだ、われわれはそういうことを考えてみると、いま申しましたように、軍事力の伴わない国家の外交というものは世界歴史の上においてやっぱり限界があるんだなあと、こういうふうにも思い、そのようにも話しました。
 しかし、そこで、いまお話の中にありました憲法でございますが、たとえば、日本の憲法でも、先ほど柳田さんのお話しのございましたように、憲法の前文には、「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と、こう書いてあります。つまり、このわれわれの持っておる憲法を守ってまいりますためには、その前段において、諸外国の公正と信義が守られるということが前提である。そこで私は申したのでありますが、たとえば親鷺上人の言われるような他力本願、またはキリストの教えのあるように、右のほおを打つ者あらば左のほおを打たせよという、そういうやり方も、人間としての人生哲学にはあるいはそういう考え方も成り立つかもしれないけれども、国家の存立のためには、私どもは十分考えなければならないのではないだろうかと、こういうことを申しました。
 そこで、いまの世の中は、私どもが働く、われわれのしかばねを越えて将来日本民族の発展のために日本をリードされるのは、あなた方若いインテリゲンチアなんだから、しっかり勉強してくれよ、こういうことを言って食堂を退出したわけでありまして、私は原爆云々とか三十万とかなんとか、そういうことを申したわけではありませんが、いまのような大事な国政審議の途中で、内閣に席を持っております者が、たとえ会見後の雑談でお茶飲み話でありましても、とかく物議をかもすような御心配をおかけいたしましたことは、私はまことに恐縮に存じておる次第でございます。それが私の真意でございます。
          *

選挙公約で内容空疎な美辞麗句を並べ立て、神社の新年賽銭のように熊手で票をかき集める暮らしを長々と続けてきた政治家に、いまさら言葉は言霊でありロゴスであるとお説教してもはじまらないだろう。政治家にとって言葉は鴻毛のごとくかるいものであるにせよ、小池「オンリーワン」発言の真意は何だろうか。「お妾ニッポンは恥だ。憲法を改正して普通の軍隊を持つ普通の国になりたいが、ハードルはなお高い。米国のオンリーさんとして、これまでどおり、その世界戦略の下請けにいそしみたい」という自嘲的意思表明だったのだろうか? それとも、何の意味もない言葉の厚化粧にすぎなかったのだろうか? どうせ、参院選後の内閣改造、場合によっては総辞職までのワンポイント・リリーフなのだから、深く詮索してもはじまらないのだけれど……。

(花崎泰雄 2007.7.5)
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久間氏の知的怠慢

2007-07-02 13:53:34 | Weblog
「原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている」(『朝日新聞』2007年7月1日付)という久間防衛相の麗澤大学での講演(6月30日)での発言について、久間氏は7月1日「説明の仕方がまずかったのではないかという気がする」と陳謝した。7月3日には、参院選を前に、それでなくても形勢不利な与党の足をひっぱったと、与党内からの批判を受けて、防衛相を引責辞任した。

日本のジャーナリズムで働いている政治記者は、一般的傾向として、「政治論議」よりも「政局論議」を好む傾向があるので、久間発言の内容についての論議よりも、久間発言で自民票がどのくらい減るか、それが安部政権の先行きにどの程度の深刻な影響を与えるか、などについての政局報道にふけることになるのだろう。厚生労働相だった柳沢氏の「子どもを産む機械」発言報道のパターンの繰り返しである。

さて、久間発言だが、それは説明の方の問題ではなかった。問題の核心は久間氏の知的怠慢、もっとありていに言えば、無知によるものであった。

久間氏は①日本が戦後、分断国家にならないで済んだのはソ連の侵略がなかったからだ。②米国は戦争に勝つとわかっていたが、日本がしぶといので、原爆を広島と長崎に落とした。③長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。④8月15日に終わったから北海道は占領されずに済んだ、という論理構成によって、冒頭の「しょうがない」という結論を引き出した。

2年ほど前の、2005年8月5日の英紙『ガーディアン』で、原爆投下が日本の降伏をもたらしのではなく、8月8日のソ連参戦と米国の天皇温存の決定だった、という米国の歴史家の研究成果が引用された。

The bomb didn't win it

Dominick Jenkins
Saturday August 6, 2005
The Guardian

The idea that it was militarily necessary to drop the atomic bomb in 1945
is now discredited. The first exhaustive examination of Japanese, Soviet
and US archives, by Tsuyoshi Hasegawa, confirms the argument that Truman
went ahead in order to get Japan to end the war quickly before the Soviet
Union came into the Pacific war and demanded a say in Asia.
The use of atomic weapons against Hiroshima and Nagasaki did not provide
the US with the free hand it had wanted and has proved disastrous for the
world.

It did not bring about surrender. With 62 Japanese cities destroyed by
firebombs and napalm, Japan was not overwhelmed by the destruction of one
more. The army minister, General Korechika Anami, told the supreme war
council that he would fight on. What actually brought about surrender was
the combination of the Soviet Union's entry into the war on August 8 and
the US decision to let Japan retain the emperor.

ここで引き合いに出されているTsuyoshi Hasegawa はカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の歴史学教授で、その著書Racing the Enemy: Stalin, Truman, and the Surrender of Japanは米国の学会で高い評価を受け、日本語版『暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』(中央公論新社、2006年)も出版されている。

この本の米国での評価は、たとえば、

http://www.hup.harvard.edu/catalog/HASRAC.html?show=reviews
で、知ることが出来る。

久間氏の「しょうがない」論は、冷戦時代のアメリカ政府の古びた原爆投下肯定論の受け売りである。日本の安全保障の一翼をになう防衛相が、大学でおこなった講演にしては準備不測で、知的目配りにかけていたとのそしりは免れないだろう。


日本への原爆投下については、「アメリカを原爆の最初の使用者にしたくない」という理由で、当時の欧州連合軍総司令官アイゼンハワー元帥(のちに米大統領)が反対するなど、当時の米政権内部では慎重論が根強かった。当時のバーンズ国務長官が「原爆はなるべくすみやかに日本に対して、事前通告なしに使用されるべきである」と提案し、原爆開発に関する「暫定委員会」がこの案をトルーマン大統領に提出した。のちに、バーンズ国務長官は「ソ連を戦争に参加させたくなかった」と原爆使用の理由を説明した。(読売新聞戦争責任検証委員会『検証 戦争責任 Ⅱ』中央公論新社、2006年)。

バーンズは1947年に出版した回顧録James F. Byrnes, Speaking Frankly, New York, Harper の中で、ポーランドなどでのソ連のヤルタ協定に違反する行動によって対ソ不信感をつのらせ、ソ連が対日参戦する前に、日本を無条件降服させるために原爆の使用を考えた、と書いている。では、ソ連の対日参戦で、バーンズが危惧した事態は何だったのか。「私は赤軍が満州に侵攻した場合に生じる事態を心配した」と書いている(p. 208)。バーンズが危惧したのはソ連の対日参戦による蒋介石の中国情勢への影響だった。ソ連による日本占領ではなかったようである。

バーンズの回顧録では、バーンズが原爆投下をトルーマンに提案したときの最も重要な理由としては、日本侵攻のさい、米国の将兵だけに限っても100万人の死傷が予測されると軍事専門家が見ている、ということだった。ソ連の参戦を止めるため、という理由はそこに書かれていない(pp. 261-262)。

Tsuyoshi Hasegawa (長谷川毅)は『暗闘』で、トルーマンには真珠湾攻撃に対する報復というような気持もあった、と説明している。『暗闘』は長崎への原爆投下後のトルーマンのラジオを通じた声明を引用している。

「われわれは爆弾を開発し、それを使用した。真珠湾で警告なしにわれわれを攻撃した者たちにたいして、アメリカの捕虜を餓死させ、殴打し、処刑した者たちにたいして、また戦争における行動を規定する国際法を遵守しようとしてみせることさえすべて放棄した者たちにたいしてこの爆弾を使用した」


一方、ソ連に関しては、バーンズはその著書で、ポツダム会談のさいトルーマンがスターリンに対して、アメリカは強力な新兵器の開発に成功したと話したが、スターリンは興味をしめさなかった、と書いている。スターリンに対して、新型兵器の説明をした理由については、

As soon as we had studied all the reports from New Mexico, the President and I concluded we should tell Generalissimo Stalin that we had developed the bomb and use it unless Japan acceded promptly to our demand for surrender. The Soviet Government was not at war with Japan, but we had been informed of their intention to enter the war and felt, therefore, that Stalin should know.

と書いている(pp. 262-263)。ソ連に対する疑心はまだこの程度である。

ポツダム会談では戦後の米ソ冷戦を暗示するかのように、ポーランド問題をめぐって、米ソ間にギクシャクした関係が生じ始めていた。しかし、1945年8月の時点で、アジアにおけるソ連の支配力を排除するためにアメリカが日本に原爆を落とし、その殺傷力をソ連に見せつけることを主目的に戦後のソ連の行動を牽制しようとしたとは考えにくい。戦後世界の分割はすでにヤルタ会談で取り決められており、秘密協定で、ソ連は千島列島を手に入れることなどを条件に、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦する約束になっていた。ルーズベルトはスターリンに対日参戦を促した。だが、ルーズベルトの死後、トルーマンがこんどはソ連の対日参戦を止めるために日本に原爆を投下したという説は、当時の米ソ間の相互不信の芽生えを考慮に入れても、なお飛躍がありすぎる。

ソ連の対日宣戦布告は広島原爆投下の後である。長崎原爆投下と日本のポツダム宣言受諾後もソ連は満州で攻撃を続行し、スターリンは千島・北海道への攻撃を命令した。ポツダム宣言はアメリカによる原爆使用の正当化のために出されたものであり、日本のポツダム宣言受諾がスターリンのソ連の満州攻撃続行と千島・北海道攻撃命令につながった、というのが長谷川毅の『暗闘』の結論である。

わずか60年ほど前のことでありながら、公表されない事実の記憶は権力者が墓場に持ち込み、記録されたものの一部は国家機密として公の目に触れることがない。「しょうがない」という感想を正当化するには、歴史に「もし」はないのだが、もしアメリカが長崎に原爆を落とさなかったら、日本は無条件降伏をせず、本土決戦に突入しており、太平洋側から米軍が、日本海側から満州・朝鮮半島北部を経て北海道にソ連軍が上陸し、日本国民、日本兵、米兵、ソ連兵、他の連合軍兵士ら数百万人が死傷し、日本がかつての東西ドイツ、現在の朝鮮半島のような分断国家になっていただろう、という筋書きを、圧倒的な資料と論理で構成して見せる必要があろう。

(花崎泰雄 2007.7.2)







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