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news commentary

二つの談話

2015-08-17 00:10:32 | Weblog

二つの談話

いまから10年前の2005年、戦後60年小泉総理大臣談話は、次のように始まっていた。

「私は、終戦六十年を迎えるに当たり、改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し、二度と我が国が戦争への道を歩んではならないとの決意を新たにするものであります」

外務省のサイトにある英語版では以下のようになる。

On the 60th anniversary of the end of the war, I reaffirm my determination that Japan must never again take the path to war, reflecting that the peace and prosperity we enjoy today are founded on the ultimate sacrifices of those who lost their lives for the war against their will.

冒頭のリード部分に主語「私」(英語版ではI)があり、これにより全文が小泉首相の見解であることを明らかにしている。

In the past, Japan, through its colonial rule and aggression, caused tremendous damage and suffering to the people of many countries, particularly to those of Asian nations. Sincerely facing these facts of history, I once again express my feelings of deep remorse and heartfelt apology, and also express the feelings of mourning for all victims, both at home and abroad, in the war. I am determined not to allow the lessons of that horrible war to erode, and to contribute to the peace and prosperity of the world without ever again waging a war.

小泉談話はお詫びの文章の主語に一人称単数の〝I" を使った。

一方、戦後70年安倍内閣総理大臣談話の「お詫び」のくだりは以下の通りである。

Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war. In order to manifest such feelings through concrete actions, we have engraved in our hearts the histories of suffering of the people in Asia as our neighbours: those in Southeast Asian countries such as Indonesia and the Philippines, and Taiwan, the Republic of Korea and China, among others; and we have consistently devoted ourselves to the peace and prosperity of the region since the end of the war.

Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future.

私が総理だ。私が決める――かねがねそう言っている人の談話なのだが、2015年の戦後70年安倍総理大臣談話の日本語版の全文中に、きっぱりとした一人称単数の「私」という主語は皆無である。かわりに複数形の「私たち」が多用されている。

「戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます」という文章には、日本語の通例として主語が省略されているが、英語版ではこの部分は、次のように、主語に一人称単数を使っている。

On the 70th anniversary of the end of the war, I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences.

同様に「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」も英語版では、

Upon the innocent people did our country inflict immeasurable damage and suffering. History is harsh. What is done cannot be undone. Each and every one of them had his or her life, dream, and beloved family. When I squarely contemplate this obvious fact, even now, I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief.

と、「おくやみ」を申し上げる場面でのみ、一人称単数〝I" を使っている。

日本語版では談話末尾の

「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」。「終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります」。後段の部分には主語がない。普通、首相が国民に向かってそう語りかける場合、主語は首相である「私」であろう。

英語版では、

Heading toward the 80th, the 90th and the centennial anniversary of the end of the war, we are determined to create such a Japan together with the Japanese people.

となっている。外国に向かって日本国首相が決意を語る時、主語が日本国民を意味するweとなってもおかしくはないが、we are determined to create such a Japan together with the Japanese peopleという文章において、weとwith the Japanese peopleはどのような関係になるのだろうか。日本国首相が外国にむかって、we……with the Japanese people と語りかけたとなると、weとは何者なのだろうか。安倍政権のメンバーのことだろうか。そうなら代表者である首相の〝I" でよさそうなはずである。

以上は、70年談話冒頭の20世紀世界史序説同様の退屈で長すぎる話の枕。今回のお話の核心は以下の点である。

10年前、小泉談は次のように言っていた。

「我が国にあっては、戦後生まれの世代が人口の7割を超えています。日本国民はひとしく、自らの体験や平和を志向する教育を通じて、国際平和を心から希求しています。今世界各地で青年海外協力隊などの多くの日本人が平和と人道支援のために活躍し、現地の人々から信頼と高い評価を受けています。また、アジア諸国との間でもかつてないほど経済、文化等幅広い分野での交流が深まっています。とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています」

その10年後、安倍談話は戦後生まれの世代が人口の8割を超えたことを理由に次のように言う。

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」

安倍首相は7割と8割で、このような違いを生じさせた。この点が70年談話の核心である。

(2015.8.16 花崎泰雄)
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グロテスクな政府答弁

2015-08-05 23:43:13 | Weblog

日本国首相・安倍晋三氏は米国議会で次のような趣旨の演説をしている。

「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます」

「一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外相、中谷防衛相と会って、協議をしました。いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません」

これが米国向けのお約束。聞かされた方は、NATO規約第5条の「締約国は、ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがつて、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する」に似たお約束を安倍氏がしたと思い込んだことだろう。

そういう事情だから、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したとしても、これによって日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があるケース以外は、密接な関係にある他国に対する武力攻撃の発生といえども、日本に対する攻撃とはみなさない、と安倍氏が日本の議会で言っていることを、日本事情に詳しくないアメリカの庶民が聞けば、安倍首相の「二枚舌」外交に不快感を持つことだろう。

日本でも少なからぬ人々が、逆の意味で安倍氏の二枚舌に怒っている。アメリカに尽すために、日本の市民に適当なことを言っているのだ、と疑っている。

ミサイルを兵器ではなく弾薬の類の消耗品であるとする、中谷防衛大臣の珍説が、この間の事情をよく表している。これまで日本政府は海外に出た自衛隊のロジスティックス業務から武器(弾薬を含む)の輸送を排除してきた。それが今回の安全保障関連法案では、武器はだめだが弾薬なら輸送ができることになる。防衛大臣は、ニーズが出て来たからと、その理由を説明した。正直なことだ。

そこで野党の議員が弾薬は武器ではないのかと、まっとうな質問をした。防衛大臣は「弾薬は武器ではない。消耗品である」と答弁した。

野党議員と防衛大臣のやりとりが進むにつれ、この消耗品のリストは際限なく広がっていった。「手榴弾」「爆弾」「ミサイル」「核ミサイルの核弾頭部分」も武器ではなく、弾薬類で消耗品であると防衛大臣は答弁した。

発射装置は直接、人を殺傷しない。殺傷するのは消耗品の弾丸類だ。弾丸類は発射装置がないと飛んで行かない。二つ合わせて武器なのである。また、日本の宇宙開発用ロケットは兵器ではない。宇宙開発のロケットは爆薬などの兵器を搭載していないからである。小学生でもわかる理屈だ。

いい年をした大人が、それも国会の院内でこんなことを言い張っているのは、きっと腹に一物あるからだ、と聴いている人は疑いをもつ。

ところで、ミサイルが兵器ではなく消耗品だとすると、かつての人間魚雷・回天は兵器だったのだろうか。消耗品だったのだろうか。

(2015.8.5  花崎泰雄)


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