「ボクはサラダだけでいいよ。最近は食べないんだ。太り過ぎって医者の忠告があってね」
先生はあっけらかんとした顔だった。どんなものでも実に美味い!といった顔で食べる先生が記憶にある。八十五歳。年齢にさすがの先生も勝てないようだ。ただ、相変わらず人を惹き込む笑顔は健在だ。
三十数年ぶりの出会いだった。血色のいい顔と饒舌ぶりは全く変わらない。六十五歳、高齢者の仲間入りを余儀なくされた私の方がしょぼくれた老人である。
恩師だった。小学校の教壇に立たれていたが、そこで教えられた児童だったのではない。アマチュア劇団の活動を通じて人生の何たるかを気付かせてくれた先生なのだ。
加古川で始まり、姫路、加西と、四十年以上アマチュア演劇に携われたのは、芝居に取り組む先生の一風変わった姿勢が、薫陶を与えてくれたからだった。
先ごろ急に思い立って、自分が生き抜いた六十五年間の足跡を展示した。舞台写真に、アマ劇団活動と並行した文筆の成果である。新聞や雑誌、書籍に掲載された作品を並べた。その過程で先生を懐かしく思い出した。
さっそく招待状を送った。(もう年だから、来て貰えないかな?)と思ったが、自分の歩んだ道をぜひ見て貰いたかった。先生からすぐ連絡があった。
「ぜひ行かせて貰うよ。君の足跡を見逃せないだろう」記憶にある先生の声だった。案ずる必要はなかった。元気な姿が電話を通して見えた。最寄りの駅に降り立った先生は、しゃきっとした姿を保っていた。あの頃とまるっきり変わっていなかった。
「う~ん!このサラダ美味いなあ」
レタスを頬張る先生の幸せをひとり占めした顔。なのに私も幸せを感じる。初めて顔を合わせた日がいま目の前に再現していた。
先生と初めて顔を合わせたのは五十六年前の秋口だ。劇研『くさび』の稽古場は、加古川青年会館にあった。おずおずしながら会館に入った。生まれつきひどい内弁慶で、初対面がいつも一番の難関だった。ところが、先生は逡巡躊躇の間を与えなかった。
「君が齋藤くんか?よう来てくれたね。これから一緒にお芝居を作っていこう!」
迎えた先生はにこにこと、恵比寿大黒顔負けの笑い顔だった。稽古場は閑散としていた。聞けば、公演のスケジュールが決まらないとメンバーは顔を見せないらしい。その間は先生一人が稽古場に通っている。
「どや、これ美味いぞ。ひとつ食べてごらん」
先生はボタ餅を食っていた。餅を頬張る底抜けの笑顔に引き込まれた。一個頂戴して口に運んだ。「美味い!」「そうやろ。わし、甘いもんに目がないんや」笑顔は笑顔を呼ぶ。
「好きなもんはとことん好きなんがええ。芝居もボタ餅も仲間も、うん、わし好きなんや。
好きだから一人でも楽しめる。楽しむから仲間が集ってくる。そしたら、なんでも出来よるで」先生は目を糸にして餅をまた頬張った。
結局、その日は先生以外に誰も現れなかった。冬並みの寒波が列島を襲っている影響もあったのかも知れない。誰だって寒い中を出歩きたくなくなる。
「ボーッとしててもしょうがないな。うん。ちょっとお芝居の基本をやってみようか」
先生は手元にあったガリ刷りのホッチキス止めを手渡した。基本練習の教材である。
「アイウエオ、アオ」に始まり。「せっしゃ、親方の……」の外郎売りの口上で終わった。
「きょうはこれぐらいにしとこうか。お疲れさん」
「ありがとうございました」
「初めてにしては上手いなあ、君は。次も僕はこの時間に必ずいるから」
先生は終始にこやかな表情に終始した。
(つづく)
先生はあっけらかんとした顔だった。どんなものでも実に美味い!といった顔で食べる先生が記憶にある。八十五歳。年齢にさすがの先生も勝てないようだ。ただ、相変わらず人を惹き込む笑顔は健在だ。
三十数年ぶりの出会いだった。血色のいい顔と饒舌ぶりは全く変わらない。六十五歳、高齢者の仲間入りを余儀なくされた私の方がしょぼくれた老人である。
恩師だった。小学校の教壇に立たれていたが、そこで教えられた児童だったのではない。アマチュア劇団の活動を通じて人生の何たるかを気付かせてくれた先生なのだ。
加古川で始まり、姫路、加西と、四十年以上アマチュア演劇に携われたのは、芝居に取り組む先生の一風変わった姿勢が、薫陶を与えてくれたからだった。
先ごろ急に思い立って、自分が生き抜いた六十五年間の足跡を展示した。舞台写真に、アマ劇団活動と並行した文筆の成果である。新聞や雑誌、書籍に掲載された作品を並べた。その過程で先生を懐かしく思い出した。
さっそく招待状を送った。(もう年だから、来て貰えないかな?)と思ったが、自分の歩んだ道をぜひ見て貰いたかった。先生からすぐ連絡があった。
「ぜひ行かせて貰うよ。君の足跡を見逃せないだろう」記憶にある先生の声だった。案ずる必要はなかった。元気な姿が電話を通して見えた。最寄りの駅に降り立った先生は、しゃきっとした姿を保っていた。あの頃とまるっきり変わっていなかった。
「う~ん!このサラダ美味いなあ」
レタスを頬張る先生の幸せをひとり占めした顔。なのに私も幸せを感じる。初めて顔を合わせた日がいま目の前に再現していた。
先生と初めて顔を合わせたのは五十六年前の秋口だ。劇研『くさび』の稽古場は、加古川青年会館にあった。おずおずしながら会館に入った。生まれつきひどい内弁慶で、初対面がいつも一番の難関だった。ところが、先生は逡巡躊躇の間を与えなかった。
「君が齋藤くんか?よう来てくれたね。これから一緒にお芝居を作っていこう!」
迎えた先生はにこにこと、恵比寿大黒顔負けの笑い顔だった。稽古場は閑散としていた。聞けば、公演のスケジュールが決まらないとメンバーは顔を見せないらしい。その間は先生一人が稽古場に通っている。
「どや、これ美味いぞ。ひとつ食べてごらん」
先生はボタ餅を食っていた。餅を頬張る底抜けの笑顔に引き込まれた。一個頂戴して口に運んだ。「美味い!」「そうやろ。わし、甘いもんに目がないんや」笑顔は笑顔を呼ぶ。
「好きなもんはとことん好きなんがええ。芝居もボタ餅も仲間も、うん、わし好きなんや。
好きだから一人でも楽しめる。楽しむから仲間が集ってくる。そしたら、なんでも出来よるで」先生は目を糸にして餅をまた頬張った。
結局、その日は先生以外に誰も現れなかった。冬並みの寒波が列島を襲っている影響もあったのかも知れない。誰だって寒い中を出歩きたくなくなる。
「ボーッとしててもしょうがないな。うん。ちょっとお芝居の基本をやってみようか」
先生は手元にあったガリ刷りのホッチキス止めを手渡した。基本練習の教材である。
「アイウエオ、アオ」に始まり。「せっしゃ、親方の……」の外郎売りの口上で終わった。
「きょうはこれぐらいにしとこうか。お疲れさん」
「ありがとうございました」
「初めてにしては上手いなあ、君は。次も僕はこの時間に必ずいるから」
先生は終始にこやかな表情に終始した。
(つづく)
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