老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

4;家に帰りたい 「死に水」2

2017-04-09 20:56:01 | 老いの光影
翌日 面会に訪れる。
みきさんは 療養室のベッドに臥せておられた。
ベッド脇に座ると、彼女は左側を向きなおり、
「家の水が飲みたい。嫁に水を持ってくれるように話して下さい」と
微かな声で私に話す。
最期にせめて我が家の水が飲みたいという、切なるみきさんの思い。

長男が面会に来ないのも
みきさんは不満を抱いていた。

老人保健施設を後にし、その足で谷川さんの家に寄った。
長男嫁から予想もしなかった話がされ、その話の内容に私は驚き、
谷川家族が抱えている問題の深刻さを初めて知った。
それは、71歳になる長男は、末期癌を患い医科大学付属病院に入院中にあり、
長男嫁、孫嫁たちは交代で看病していた。
家族にしてみれば、いま、弱くなってきたみきさんを
家に連れて帰る訳にはいかない。
しかし、みきさんは誰からも、
息子(長男)が、癌であることを知らされてはいなかった。
ただ、みきさんはわが家に帰り
施設のベッドのうえではなく(自宅の)畳の上で
臨終を迎えることを願っていた。


3;泪(なみだ)

2017-04-09 15:46:29 | 老いの光影
昨日20:00過ぎ 73歳になる長男からの電話

「母親が元気がなく かかりつけの病院にかかったところ

院長から肺が真っ白で、病院では治療の仕様がない。

入院しても悪くなるだけだから

家に連れて帰って面倒みたほうが幸せなのではないか」

長男は最後の院長の言葉が耳朶に残り

「家に連れ帰った」。

電話を受けた私は、「すですか。大変ですね。明日、4月8日 10時00分に自宅へキタさんの様子を見に訪問したいと思うので、ご都合よろしいですか」

と尋ね了解を得た。



4月8日 自宅からチョッと走ると那須連山から見え

薄ピンク色のショコラで奥州街道をまっしぐらに走り抜ける

今 キタさんの家に到着。

庭には小さな桜の木は花が咲いている。

居間には息子夫婦とキタさん キタさんの蒲団のなかでは白猫が丸くなって寝ている。

13年目に大腸癌の手術を受け、90歳まで生きられると医師から言われ

いま95歳になる。

痰が絡み 痰を出すこともできず咳き込みのときはとても苦しい表情をする。

食事や水分は余り摂れていない、という。

長男夫婦のもとで看取られるキタさんは幸せだが

「往診をして下さる医師や訪問看護などの協力がないと

看取りを行うことは厳しいですよ」

「ご家族が看取りを行うことを決めたなら、私もできる範囲のなかで

医療や介護等のサービスも紹介し、

家族の不安を少しでも減らしていけるよう一緒に頑張ります」、と。



私はキタさんの枕もとに寄り

キタさん手を握ると 彼女の掌から生命の温もりが伝わってきた

おでこに手をあてると平熱であった

血中酸素濃度の数値は 91 あり 一先ずホッとした

右側臥位で寝ていた彼女の左眼頭が潤み 泪が流れる

彼女の手を握り返し 泪を拭いた





2;家に帰りたい 「死に水」1

2017-04-09 15:43:27 | 老いの光影
小説『雪国』を書いた川端康成は、『眠れる美女』のなかにこんなことが書いてあった。

67歳の老人が「老人は死の隣人さ」と言葉を吐く場面があった。

現在は、平均寿命は女性は86歳、男性は81歳となり

昭和20年大前半に比べ

30年は長生きするようになった。

老衰のため98歳で亡くなった谷川みきさんのことを思い出した。



みきさんは、死期が間近いことを感じとったのか、

面会に行った私に訴えた。

「家(うち)に帰りたい。

このままでは死にたくても死にきれない。

・・・・家に帰りたい」。

介護老人保健施設を出た私は

長男嫁に、☎により

彼女の切なる願いを伝えたが、

答えは「いまは家に連れて帰ることはできない」。

望みが叶えられないことを知ると、

みきさんは拒食行為に出た。

柔和だった顔は、険しい顔の相に変わった。

1;老いの風景を描いていきたい

2017-04-09 14:58:29 | 老いの光影


今日の朝まで 星光輝『桜梅桃梨』のブログ名で
投稿を行ってきたのだが
pc操作ミスで「削除」してしまった・・・。
おまけに保存もしていなかった。
凡て泡となって消えてしまい茫然自失。

私が生れて育った処は
「外地」と呼ばれていた北海道のニセコ町
父母は自分が住んでいた処は
「外地」とは呼ばず素直に北海道と呼んでいた

津軽海峡の向こうにある本州のことは
「内地」と呼んでいた
チョッと変な話であるけれど
父母は「内地」と呼ぶことに何の疑問を感じていなかった

沖縄は「本土復帰」という表現があることから
本州のことを「本土」と呼んでいた

もう一つ
私が小学校5年生だったか、6年生だったか曖昧だが
社会科の授業で
日本海側の地域を「裏日本」
太平洋側の地域を「表日本」
と教えられた。

いま 日本海側の地域を「裏日本」と読んだら
テレビ等で大騒ぎになる。


私は 精神が未成熟のまま、
19歳の春に涙の連絡船で津軽海峡を渡り
「内地」の玄関口 青森駅に着いた。

あれから四十数年、時間が流れ去り
白髪混じりの頭髪になった。
我が身もやがて老いを向かえる身となり
日々老人介護に従事させて頂いている。

脳卒中などの病気で手足はままならず
杖を頼りにふらつきながら歩いている老人。
チョッと前に桜の花を観てきたことも忘れ、
自分は何をしようとしたかもわからなくなった老人。

要介護老人達に囲まれ
我が身の老いと重ね合わせ
在宅介護のなかに垣間見る「老いの風景」を描き
生きること老いること死することの意味を考えてみた