老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

30;退院

2017-04-19 14:56:03 | 春夏秋冬

頻尿 排尿痛 発熱 の症状があり尿路感染症の病名で入院。
点滴、服薬により治癒し、2917/04/19 退院。
(公立岩瀬病院スタッフの皆様ありがとうございました )。
病院の玄関を出たら、桜🌸が満開❣️
病室の窓から、桜が開花しゆく様子を見ることは出来なかった。
その分、桜の花を見たときは、
幸せな気持ちになり、桜の樹に近寄った。
樹の下には無数のたんぽぽが競い合うよう咲いている。


「パパ」が自宅🏠の玄関ドアを開けたとき、
「息子」元気は、何度もジャンプ、嬉しいさの余り尿失禁❣️
その後、元気も車窓🚘から桜鑑賞 。


29;「思う」と「想う」と老人介護 ( 1 )

2017-04-19 06:21:40 | 介護の深淵

思い と 想い
この2つの言葉が持つ深い意味は
介護施設やデイサービスそして在宅で生活している老人から
教えられた。
この2つの言葉は、声に出して読むと同じ「おもい」になる。
介護の世界からだと違って見えて来る。
「思い」は、老人の介護を通し、
自分の《心の中で何を感じたのか》。

ベッド上には四肢(両手両足)が拘縮し、
寝がえりをすることもできず、勿論歩くことはできない。
日めくりカレンダー📆は変わるが
無味乾燥な天井だけを見ながら生きる。
そのような寝たきり老人の介護をしたとき
自分はどう感じたのか(どう思ったのか)。
自分がその立場になったとき、
自分はどう《思う 》のか。
自分の 頭で考えてみることはとても大切。

医療機関や介護施設は、非日常的な時空間(世界)にある。
知らず知らずのうち介護行為そのものに慣れ、
「介護業務」に 終わってしまったこともある。
一日の介護を終えたときでもよいし、眠りにつく 前でもよい。
「きょう 、自分の介護はあれで良か ったのだろうか」
喜びあったこと、感動したこと
悲しくて切なくて老人の手を握ったこと
涙したこと、怒ったこと、
心残りだったこと、死を悼んだこと
自分の頭のなかで《思い》巡らすことが
老人や老人介護から学ぶことである。


20代頃の私は、福祉や介護の仕事は動機が大切だと思い込んでいた。
平成元年に老人介護の時空間に足を踏み入れてから変わった。
どんな仕事においても動機よりも、
その仕事に就いた一年後の自分は
どれだけ変化したのかが、問われる。
老人との関わり(係わり)のなかで、
自分が感じとってきたものを
老人や同僚に話しかけていくことが大切になる。

保育と介護は共通しているところがある。
それは 《伝え合い》にある。
幼児も老人も、親・保育士・介護者 自ら「思った」ことを
行動に起こして行かないと、
言葉だけでは伝わりにくい。
それは自分の《思い》を 相手への《想い》に
【昇華】させて(高めて)いく。

28;春よ 来い ♬

2017-04-19 04:18:39 | 春夏秋冬
退院の朝 2時過ぎトイレで目が覚め
それ以降目蓋(まぶた)が閉じず。
思案していたら、何故か『春よ 来い』のメロディを思い出した。
若い人なら荒井由美の『春よ 来い』を思い出す。
お年寄りは,春が近づくと、童謡『春よ来い』の唄を口遊む(くちずさむ)。

一番の歌詞だけ紹介しよう

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている

*「じょじょ」は、草履(ぞうり)
*「おんも」は、外、表 の幼児語

雪が積もる北国に住む人ほど
「春よ来い」の気持ちは強い。
いまは核家族となり 普通の家族風景になり
三世代同居の家族は少なくなった。
昔は縁側に爺婆(じいばあ)が陽射しを浴び、
庭先でヨチヨチ歩く孫の姿に 目を細め微笑んでいたものだ。

いま怪しげな歩きをしているお年寄りたち
早く「春よ来い」と待ち侘び 、
再び「あるきはじめた」じいちゃん(ばあちゃん)が
杖を片手に(または歩行器につかまり)
表で 歩きたいと待っている。

ふとベッド上であれこれ考えてしまった。
私も「おんも」に出て
南湖公園の団子🍡を片手に 桜🌸花見と行くか❣️