老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

55;人間 なぜ生きなければならないのか / 丹羽文雄著『厭(いや)がらせの年齢』

2017-04-28 19:57:20 | 文学からみた介護
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人間 なぜ生きなければならないのか

丹羽文雄著『厭(いや)がらせの年齢』


 最初、丹羽文雄の『厭がらせの年齢』を読み終えたとき、
「凄い!」と感じたと同時に「ある種のショック」を受けた。
なぜかというと、有吉佐和子が書かれた『恍惚の人』は昭和47年のときで、
当時大きな反響を呼び、この小説が老人福祉行政の推進に一石を投じた。
一度は手にしていただきたい本でもある。
反響を呼んだ『恍惚の人』よりも25年も前に『厭がらせの年齢』は執筆された短編小説です。
丹羽文雄は、家族から疎まれた老女めはを通し、
生きることの意味を問いています。
 
86歳の老女、うめは、娘夫婦に先立たれ、
孫娘にあたる仙子夫婦と独身の瑠璃子(るりこ)、
幸子夫婦の間をたらいまわしされている。
孫娘たちから、その死を望まれながらも、なお生き続ける老女。
昭和22年頃の日本の状況は、敗戦直後で食糧難にあり、
そこへ惚(ぼ)けた(認知症)86歳の老女を抱え込むことになった孫娘夫婦にしてみれば大変なことであった。
86歳という年齢は、当時の日本の平均寿命からいっても、
とうに死んでもおかしくない年齢であった
(現在に換算すると100歳を超えていることになる。当時の平均寿命は50歳代)。
ここまで生き続けているうめの生命力、
周りの肉親すべてから死を望まれ疎ま(うと)れていながら、
なお生き続ける。
生きるとは、老いとは何か、
また人間のエゴの醜さ(みにく)も鋭く問い詰められたような短編小説である。

作家の丹羽文雄は、家族問題、老人問題(認知症問題)をテーマにして書いたわけではないもの、
今日の「老人問題」や「介護」をどうとらえていくのか、
本小説は興味深いものがある。
この小説のなかで彼は、何を訴えたかったのか? 
読み手の受け止め方はそれぞれ違うだろうが
(違って当然)、
私は生きていくことの意味を問われているような感じがした。
27㌻゙から28㌻゙のところで末の孫娘は、
「八十六にもなって、廃人となっても、
なお生命を大切にすることが醇風(じゅんふう)美俗のお題目なら、
あたしは宗旨変えをするわ。
人間は何故生きねばならないのか、という問題は、
生きていることに何か意義を見出せる間のことでしょう? 
お婆さんのように、自分でもこれ以上生きたくないのに生きているような、
何のために生きているのやら、
わたしたちを厭がらせるだけの生命なんて、
ちっとも尊重できないわ。
それでもなお生命は大切だと思わなければならないのかしら・・・・・」
「人間ってどうして美しい思い出だけを残さないのでしょうか。
青年、壮年期には、その人のもっている限りの美しさが出ているものなのに、
長寿して死ぬと、青春期や壮年期の記憶はなくて、
死ぬ間際の醜悪(しゅうあく)な外形だけを、
うんと印象づけてしまうんだわ」と述懐する。

 人間老いても、
平成風に書き直せば、
寝たきりになっても認知症になっても
「人間は何故生きねばならないのか」、
そしてそれは「生きていることに何か意義を見出せる」のか。
「何のために生きているの」、
一人では生きていくことができない寝たきり老人、認知症老人は,
周りに「厭がらせの年齢」として思われているのだろうか。
日頃老人介護・老人看護にかかわっている介護・医療職の従事者は、
上記の問題をどうとらえていくのだろうか。
人間の価値、老いの価値とは、いったい何か。
人間所詮(しょせん)、
寝たきりになったら死んだほうがましだ、
生きていても仕方が無い、という風潮。

人間、何故生きねばならないのか。
それは、何故自分は一人の老人を介護しているのか、という言葉にも置き換えることができる。
寝たきり、認知症老人に対し、
私は「生きていることに何か意義を見出せる」ような介護が為されているのだろうか。
 『厭がらせの年齢』のなかで孫娘、仙子の言葉を通し作家丹羽文雄は、
老人は疎まれ厭がられても、
「人間 なぜ生きねばならないのか」、
そのことは「生きていることに意義を見出せる」のか、という言葉へ続いている。
生きていくことの意味は、
つまり生きる目標は、と聞かれると、
つい口こもってしまう。

この小説が持っている主題は、
次の文章に表現されているのではないか、
と私には思えてならない。
「人間、・・・・この限度を越えても、なお生きる力を持っている」(21㌻)
「しかし、老人は生きている」(22㌻)の言葉にあるように、老人は生きている、
まさに生きているのである。
疎まれようが厭がられようが、いまこうして生きていること。
すなわち、目の前にベッドの上で寝返りもできず、天井をみつめながら24時間じっと横たえている。
それでも呼吸し続け生きているのである。
認知症がさらに進み、
自分が誰であるかわからない混乱した老人であっても、
生きているのである。
「臨床」という言葉は、
「床(ベッド)の上に病みながらも必死にいきている患者(寝たきり老人、認知症老人等)」に
「臨んだ医療従事者または介護従事者」は、
彼らの呻き(うめ)、訴え、願い・・・から何を学び、
どう最善のケアを施していくのか。
丹羽文雄が述べているように「生きる力をもっている」老人のパワー(潜在能力)を、
ケアに活かしていくことなのだ。
86歳になってもなお生きているうめ婆さんに、これから出会うことでしょう。
この小説から現実の老いと自分の「老いと生い」のテーマについて考えさせてくれるものと思う。
ぜひ『厭がらせの年齢』手にすることを願う一人である。

注1;講談社「日本現代文学全集」33、昭和44年1月30日より。文中の下線は筆者星による
注2;『厭がらせの年齢』は書店に棚には置かれて
いませんが、図書館にはあります。「丹羽文雄文学全集」といった書名で探すとよいでしょう。
注3;81歳(1986年)のとき丹羽文雄さんは、ア
ルツハイマーを発病、老親介護の貴重な体験記は、長女 本田佳子『父・丹羽文雄 介護の日々』中央公論社から出版されています