老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

486;老いの風景 〔2〕 「すべてを捨ててきた」

2017-10-25 15:16:24 | 老いの光影
老いの風景〔2〕
「すべてを捨ててきた」

60歳の声を聞く頃に
自動車運転免許証が取り消しされ
車の運転はできるのだが
車のハンドルを握ることができなくなった

息子から「人間失格」と罵倒され
唾を吐きかけられた父親
無言のまま家をでたまま
帰らぬ人となり
家族も仕事に纏(まつ)わる人も断ち切り
すべてを捨ててきた
そこで人生が終わった

男は人里知れぬ山峡に移り
屋根も壁も傷んだ枯葉のような平屋に棲んでいた
人生再スタートしようと
ハローワークで職探しするも
あるのはアルバイトや日雇い
いまは年金暮らし 自慢にも定期預金は零
居間には時代遅れのテレビが置かれ
向かい側の壁には日焼けた文庫本が無数に高く積まれていた
他にある家電は冷蔵庫と洗濯機、掃除機のみ

身寄りのないひとり暮らし老人として
村役場に登録され 訪れる人は地区の民生委員と郵便配達
ふらつきと躓きが目立ち転ぶこともしばしば
物忘れもではじめ 
しまい忘れ置忘れがあり
物を探すことに時間をとられ
それが日課となった初老の男
民生委員の勧めで要介護認定を申請したところ
「要支援1」のお墨付きを頂くも
生活苦は変わらず
忘れた頃にケアマネジャーという
カタカナの肩書を持った年齢不詳の背が低い男性が訪問する
訪問者がひとり増えた

男はわずかな年金額から
夏目漱石をひとり取り出し缶箱に入れ
夏目漱石が12人になると
紅葉の季節 温泉のひとり旅を愉しむ

故郷の墓地に骨を埋める気持ちもなく
最期は朽ちた吾身を献体に捧げ
無縁墓地に眠りたい、と
老人は聴き取りにくい言葉で
私に話す
辺境の地に無名の老人が生きていたことを
無縁仏になっても
覚えて欲しくて
私に話したのであろうか






485;老いの風景 〔1〕 「金の無い老人・金の有る老人」

2017-10-25 05:26:53 | 老いの光影
老いの風景〔1〕 
「金の無い老人・金の有る老人」

若い父母が酒に呑まれ酒に溺れ
軽自動車が信号機の支柱に激突大破
1歳の子どもが夢や希望を抱かぬうちに
亡くなり、悲痛としか言いようがない。

親の自覚の無さから子を死なせてしまった。

子どもの話から一転して老人の話に変る。

人間老い
病いや不運にも骨折などに遭遇し
誰かの手を借りなければ生きていけなくなったとき
さまざま人間模様や老いの風景が映し出される。

年金額のない老人には
人は寄ってはいかない。
ひとり暮らしの男性老人が
ひと月に20万円前後の年金額を持っていようものなら
水銀灯に蛾が集まるが如く
男性老人の家を出入りし世話をやく。
金が無くなれば寄りつかず
年金が入れば出没する。
40年余りまえに妻を亡くし
子どもとの関係も疎遠のまま
寂しい老後生活。
週3回の血液透析を受けている我が身。
この先自分はどうなるのか
どう生きていけばいいのか
ベッドに寝るとき
不安が募り寂しさが増し心細くなる。
数百万円あった定期預金も二人の娘に解約され手元には一円もない。
老女は、男性老人の年金が振り込まれる通帳・印鑑・カードと金銭の管理をお願いされたので、
預かってもいいですか、だめですか、と尋ねられても・・・・。

ひとり暮らしになった老いた男は
ひとりで生きていく気力と生活力がなければ
蛾や蟻が集り、吸い取られ貧しい生活を送らざるを得なくなる。

老い弱くなったとき
老人はつい我が子に預金、印鑑、カードなど全財産を渡してしまう。
子どもに全財産を渡した段階で
親子の力関係は逆転し、老親の力は失墜する。

今の若い親はどう考えているかわからないが、
親は可愛い子どものために財産を遺そうと思うものなのか。
親の金は子どもの金ではない(遺産分与を否定するつもりはない)。
老親にお金がなければ、寝たきりになったときお世話はできない。
老親にお金があるから、お世話をする。

お金がない親は、老人ホームに入所させるしかない、そう考える子もいる。

お金がなくとも親の面倒はみれる。それは、「介護の世話で働けない」という大義名分により生活保護を受け暮らす息子。
親の年金で一緒に暮らす閉じこもりの息子。

老い、寝たきりになったとき、どうするか
私の場合 最近あちこちに増えているサービス付き高齢者住宅に入居できるだけの年金受給額はなく
生活保護の額よりちょっといいだけの金額でしかない
要介護4または5の認定を受け、寝たきりや認知症になったとき
特別養護老人ホームに入所しようと思う。
個室(ユニット型)の特別養護老人ホームは費用が高いので
4人部屋の特別養護老人ホームを選び入所するしかない。

こうしてみると老いや介護は
他人事ではなく自分の問題でもあった。
年金額だけで老い方や老いの幸福が左右されるわけではないことは
頭ではわかっているが
実際に病気をしたときなどのことを考えると不安が渦巻く。
慢性疾患を抱えているだけに、老いを生きてゆくのは
若い時代以上にエネルギーと気力を持たねばならない。
生きている意味がない「社会の厄介者」と
思ってしまったとき「死」なのかもしれない。

老後において金は大事だが、やはり人の温もり、人とのつながりが大切なのかもしれない。
人が死で逝くとき、ひとりぼっちなのか、それとも傍らに手を握り看取ってくれる人がいるのか。
大金を老女に奪われ、厳しい形相をし無念の想いで亡くなった老人の顔を思い出す。
終わりよければ全てよし、といきたいものである。