枯草? 枯花? 何だろう、一冬を越した
死に場所と死に方
何処で死にたいか
猫は人知れず死に場所を見つける、という
長年住み慣れた家で(我家の畳の上で)死にたい
独り暮らしの死は “孤独死”と騒がれるけど
自宅で死ねるなら、それは本望であり“孤独死”ではない
長年住んできた自宅は
家族、夫婦、自分の歴史が
家のあちこちに刻まれ
自宅の風景は自分の躰の一部である
だから自宅では死ぬ 寂しくない
それより白い壁と医療機器に囲まれた病室で死ぬ方が寂しい、と
独り暮らし老人は呟く
自分は22本のロウソクほど離れた妻と暮らしているからか
自分の死の見守りは妻がしてくれるものと勝手に思っている
途中で棄てられたらそのときは仕方がない
自宅で死にたい、と
その意思表示を生きているときに 家族に話すこと
そして老い往き
死期が近づいたとき(迫ってきたとき)
本人は再度「自宅で死にたい。救急車を呼ぶな、病院では死にたくない」、と
固い意志を示す(話す)ことが大切
そうしないと家族(連れ合い、息子夫婦、娘夫婦、子ども)は
死に逝く人の 死に対し気持ちが大きく揺れ動き、狼狽え
病院で亡くなった方が「安心」であり「心の負担」も軽くなり、世間体もよい
本人の気持ちとは裏腹に 死に場所を病院に変えられてしまう
自宅で死にたい、と
本人の意思表示だけで
その気持ちを叶えることは難しい。
家族や兄弟姉妹たちが
自宅で死にたい老親の気持ちを叶えてあげよう、と
その死に臨む強い姿勢が問われる
それには医療関係医者(往診・かかりつけ医、訪問看護師や介護事業所スタッフとケアマネジャーのチームケア(支援体制)が不可欠になる
自宅で死にたい本人、見守り(看取り)をする家族、ケアマネジャーを調整役とした医療・介護スタッフ
この3者が歯車となり一つになり、一人の死に対峙しながら 見送ることができるのだと思う
死に場所が決まれば
次に問われるのは死に方である
一つは延命処置を望むのか望まないのか。
延命処置の範囲をどこまで指すのか。
死に方の内容は延命処置のことだけではない
死を意識したとき
自分は死ぬまでに何をしたいのか
残された家族に伝えたいことや整理したいこと
また体力が許すならば 行きたい処へ出かけたい等々
自分は死の瞬間まで どんな生き方をしていきたいか
生死一つ 生き方と死に方 それは同じ意味を持つ
最期の瞬間 どんな風景を見て自分は死ねるのだろうか
そんなことを思う