わたしの仕事場にやって来た小学3年生のAさんが,たまたまヒガンバナ紙に関係した体験談を話してくれました。
2年生のときに,生活科学習でヒガンバナ紙をつくったのだそうです。「ヘェー! すごいじゃないか」とびっくりしていると,「でもね,今も家に大事においているけど,クニャッと昆布みたいに曲がってしまって,色も黒くなっている。臭いも変なんだよ」というのです。「葉書をつくろうということで紙をつくったんだけど,結局出せなかった」ともいうのです。
「持って来ましょうか」といったので,そうしてもらうことに。そして実物を見て,わたしは「これでは紙になっていないな」と感じました。もちろん,Aさんにそんなことをいうのは禁句です。「そうか,せっかくつくったのに,残念だったね。今度機会があれば,満足できる紙をつくりたいね」としかいえませんでした。
学校でつくった紙は,色とかたちから,さらには臭いから,明らかに生の材料をミキサーで砕いて,それをそのまま紙料としてつくったとしか思えない作品でした。それを,Aさんは宝物のようにしてたいせつにしまっているのです。
材料を煮ないでそのままミキサーに入れ,機械的に繊維を取り出す方法もあります。工業的にも確立された手法です。しかし,その場合は限りなく純粋繊維を取り出せるまで叩解したうえで,早く乾燥させる必要があります。中途半端に砕いただけでは,非繊維質がたっぷり残るのです。すると,これが腐敗の原因になります。紙を漉く場合,生の材料を使うときはよほど注意をしておかなくてはなりません。
おまけに,生の場合は細胞がまだすこしは生きた状態にあります。乾かしたつもりでも水分が多分にあるために,それが蒸発するにつれ紙自体が徐々に収縮するのは当たり前です。
さらに,秋になると途端に湿紙が乾燥しにくくなるという難題を考慮しておかなくてはなりません。ヒガンバナのような水気の多い植物体を扱うのはとくに厄介なのです。
Aさんが通う学校では,何年か,こうしたかたちで体験学習が行われているようです。学びの場で,かたちばかりの取組が続いているのは,悲しい話です。これでは子どもの目が開かれません。着眼はよいとしても,ほんものとの出合いをつくり出すことが真理を追求する学校のしごとのはず。まだまだ改善が足りない気がします。
ほんもののヒガンバナ紙は似て非なり,です。Aさんが手づくりした次元をずっと超えたところにあります。とても簡単にできるのに。惜しい惜しい。