ずっと前の観察例を一つ。イチリンソウの話です。林間でイチリンソウの可憐な花を見ていくうちに,ごく小さな昆虫を発見。アブラムシのなかまです。
「目を引く花があれば,きっと昆虫が来ているはず」という期待感を抱きながら虫を探しているうちに,目にとまったというだけの話です。花は花として愛でつつも,観察対象としては昆虫・花のセットで考えているわたしのスタンスの結果です。アブラムシは送受粉を直接仲立ちする昆虫ではありませんが,ごちそうである花汁を吸うためにここにやって来ているのです。そうなら,他の昆虫が来るのは必然。
花壇の花にしても,野山は花々にしても,わたしはいつもそこにどんな昆虫が来ているか関心を持って見ていきます。チューリップもパンジーも。ホシノヒトミだってセンブリだって。
可憐な花,優美に咲き誇る花,目立たない花,それらどの花もじつは当たり前なのですが自分自身のために咲いています。つまり,繁殖するための生殖器官として存在するわけです。
わたしたちの目にとまるような花は虫の目にもとまります。虫の目にとまるようにアピールしているのは虫に来てほしいからです。虫に来てもらうための工夫は花それぞれです。どんな虫に来てほしいか,それも花の設計図には織り込み済みです。
そうした,いわば花と昆虫との関係性を感じながら,というか,意識しながら自然を見つめるのがわたしの観察スタイル。
「おーっ! やっぱり!」。蕊にこんなふうに脚を載せると,花粉が付着して当たり前。たくさんの蕊の存在が功を奏しているのです。
イチリンソウのように,静かな雰囲気の中で咲く花にも昆虫が確かに訪れるという事実。この事実を目の当たりにすると,「やっぱりな」と納得できます。この納得こそが観察の魅力であり醍醐味でもあります。