自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

骨董市

2013-01-21 | 日記

1月21日(月)。晴れ後曇り。

京都東寺の骨董市に行ってきました。それは毎月21日に開かれている伝統的な市で,およそ1000の店が並ぶ規模でたいへん名高い催しとなっています。これまで一度は出かけてみたいという気持ちがありながら,なかなか行けずにいました。

そんな中でついに行く機会が巡ってきて,今日出かけたのでした。

東寺に近づくにつれて,人の往来が激しくなり始めました。門の前に来て,「これはスゴイや!」と感じました。門をくぐって,境内を見て驚きました。店の簡易テント屋根がずうっと続き,人の賑わいでごった返していたのです。

せっかく出かけるのだから,何か目当てのものを考えておいて見て回ろうと思っていたので,1000の店をことごとく見ていくつもりでした。それで,どんどん見ていこうと思ったものの,人に圧倒されてなかなか前に進むことができない状況でした。

骨董,古反物,古着(着物),手作り品,植木・盆栽,食べ物,……。もういっぱいの品,品,品,いっぱいの人,人,人という感じでした。

回っていて,わたしがこれまでに出会った(その方から品を買ったことにある)店が2つありました。ちゃんと覚えてくださっていたのには,感激しました。

自称“自然となかよしおじさん”の目から見て「ヘェー!」と印象深く思ったのは,ツクシとフキノトウが植木鉢に植えられて商品になっていたことでした。さらにびっくりしたのはその高額な値札のこと。もっと驚いたのは,その後通りかかったとき,すでにその鉢が売れていたことでした。

並んだ骨董品を見ていると,「よくもマア,こんなものが商売の品になるナア」と呆れるようなものがいくつもありました。売れるからそこに置かれているのでしょう。おもしろいものです。

で,わたしのお目当て品は結局見つかりませんでした。それでも,とてもたのしいひとときを過ごせました。

 


葉を広げるヒガンバナ(続々)

2013-01-20 | 生物

庭の片隅にヒガンバナを植えています。といっても,植木鉢の話です。4,5年前に畦で変種を見つけ,5球ほど掘り起こして持ち帰ったものです。それが,どんどん殖えて,今では鉢が手狭になっています。いったいどれぐらいの数に殖えているのでしょう。

そんなふうな関心を持って,畦のヒガンバナを一株掘り起こしてみました。選んだのは平均的な大きさの株で,植木鉢のものと似通っています。

結果,36個ありました。

球根をよく観察すると,ごく小さなもの,とくべつ大きなもの,ふつうのもの,いろいろあります。小さなものからは葉が2枚出ています,かなり大きなものになると,10枚以上出ているものもありました。大きな球根を横に切ってみました。すると,中には数個の球根がすでに準備されているところでした。今の時期,葉で養分をつくり,球根にそれを貯えて,分球に向けた営みがせっせと進行しているわけです。球根によっては,1つのものが一気に4,5球にもわかれることがわかります。

こんな調子ですから,植木鉢のヒガンバナをこのまま放置しておくと,鉢からあふれ出すほどの株を形成するでしょう。

ヒガンバナはたくましい生活力を持っています。少々切られようとちゃんと生きていきます。球根が殖えれば殖えるほど地中をしっかり占有して広がっていきます。地上に放置されていても生命力が旺盛で,根で土をつかまえ地中に潜っていきます。10年,20年も経てば,相当大きな株になるでしょう。10年あるいは20年という期間は,植物の生命史を考えるとほんの一瞬に過ぎません。

そんな調子ですから,畦や土手が崩れるような事態を迎えたときは分布を広げる好機会になります。ヒガンバナはあちこちにばらばらになるチャンスが来るときまで,何十年もじっと耐えているのです。ただ,環境が大きく変わることは土地を管理している人にはたいへん厄介な非常事態でもあります。

そう考えながらヒガンバナの群落を見ると,したたかで大した植物だと思えてきます。 

 


体罰,かけがえないいのち(続)

2013-01-19 | 随想

わたし自身の記憶に,これについて考える材料がいくつかあります。

その1。高校時代に出会ったある体育科教諭。カッとなったら,授業中でも辺りを憚らず暴力を振るう人でした。体罰を超えた,激しい暴力でした。厳しい指導がある程度黙認されていたとはいえ,重なる不祥事にとうとう転勤。今思っても,ゾッとします。多くの生徒共通の語り草になっています。それだけ生徒は恐怖心を抱いていたのです。昔も今も,生徒を暴力で屈服させようとする教師,カッとなって手を挙げ足を出す教師は後を絶ちません。

その2。同世代の人の中に「自分は体育会系の出身だから」と言い放って,厳しさに鞭打たれ耐えてきたと誇らしげに語る古いタイプがあります。この度の顧問も同じ感覚の持ち主なのでしょう。自分の生き方を押し付ける独りよがりな傾向を感じます。わたしは学生時代,体育会系サークルに所属していましたが,そこは常に自主的な判断が尊重される雰囲気で満ちていました。ずいぶんちがうなあと感じています。

その3。ある中学校で,蔓延していた「〇〇先輩」という呼び方に象徴される上下関係にメスを入れ,人権尊重の立場から徹底して撲滅する策を教職員が連帯して講じたのです。それは,上級生は単に先輩面をするのでなく,年上に値する資質を磨こうと呼びかける全うな取組でした。効を奏して,今では完全になくなっています。指導者の人権感覚が磨かれていけば,一致して課題と向き合えるすてきな手本です。こうした学校では体罰は無縁です。

そう思いながら,元プロ野球選手・元メジャーリーガーである桑田真澄さんのインタビュー記事(平成25年1月12日付け 朝日新聞朝刊)を読んでホッとしました。実に明快です。桑田さんのような履歴の持ち主が問題点を斬って,事の本質を読み解かれたことに,わたしは何だか救われた思いがしています。大みだしは『殴られた 嫌だった』,小みだしは『ひきょうな行為』『子の自立心奪う』です。

念のために,こころに残ったことばを書き上げておきます。

  • 「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。
  •  (体罰は)スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。
  • 指導者が怠けている証拠でもあります。
  • 暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは,最も安易な方法。
  • アマチュアスポーツにおいて,「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。
  • 私は,体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。

導かれる者の個性や,主体的な判断・思考を停止させるような指導法は,厳しく戒めなくてはなりません。指導者・管理職のみならず,彼らを指導する立場にある教育委員会のあり方が問われています。子を持つ保護者の意識も厳しく問われているのです。

失われたいのちは帰ってきません。17歳といういのちが消えた事実から目をそらすことなく,スポーツのほんとうのたのしさに目を向け,真摯に語ろうとする声がもっともっと出てきてほしいと願っています。

 (注)写真は本文とは関係ありません。

 


体罰,かけがえないいのち

2013-01-18 | 随想

大阪市立高校のバスケット部の顧問教諭が2年生男子生徒に暴力と見違うほどの体罰を繰り返し,それが原因となって生徒が自殺するに至るという痛ましい出来事が,世の見識・常識を揺り動かしています。

教諭が繰り返してきたらしい体罰,他の部でも同様の事案があったという事実,管理職が確認していたにもかかわらずそれを黙認していたという事実,何といっていいかわからないほど悲しい話です。

事案が発生してから保護者に対する説明会が行われ,その後,報道陣に語る姿がテレビニュースで流れました。そのことばから,我が国の部活指導一般がいかに古めかしい感覚のままか,如実に語っているように思われました。典型は次のことばでした。「中には,厳しい指導を認めていただく声もありました」。もちろん,そうした声は一定数あるでしょうが,こんな非常事態に内部関係者からまず出てくるというのはどういう感覚なのでしょう。わたしは耳を疑いました。

「指導のあり方をどう評価していただこうと,それをきっかけに生徒がいのちを絶ったと考えると,指導,管理ともに責任を厳しく問われるのは当たり前です。どんな言い訳も通じません」。なぜ,こういえないのかと思うのです。

こうした指導をしてきた人,容認する人は,自分がそうしたかたちで指導をされた経験が染み込んでいるのか,次代を引き継ぐ者に対し同じことを力の論理で繰り返しているに過ぎません。そこに見えるのは身勝手なプライド意識だけ。

こんな体質が続く限り,いのちを絶った生徒の立場がありません。どうして管理職の口から先に自己防衛のようなことばが出てくるのでしょうか。これがたぶん,教育界に身を置く者がもつ非常識的な事なかれ主義体質なのでしょう。ひどく傲慢です。想像力の欠けらもありません。自浄努力のできない“おらが教員”体質ともいえるでしょうか。

新聞やラジオ,テレビでいくつかの話を聞いていて,やはりそうだなと思ったのは「ある程度の厳しい指導は必要」「ある程度の体罰は許される」「自分にも厳しい指導に耐えて成長したきた過去がある」といった論調です。民放のアナウンサーまでもが,自分の経験にもとづいて体罰を伴う指導を半ば認めていたのにはガッカリしました。これが我が国のこれまでのふつうの流れだったようです。その雰囲気の中で学校の鈍感さは放任され見逃されてきたのです。

 

わたしは,体罰を容認するような風潮に対して「これはちょっとまずいな」と感じていました。そこに,指導者である大人がまず絶対的な君臨者であるようなニュアンスを感じとったからです。導く者,導かれる者の間に上下関係がくっきりとあって,絶対善を押し付けるような“偽善”を嗅ぎ取ってきたからなのです。

そこには,導かれる者自らが判断し,行動する主体者になりうる余地はまるでありません。あるのは服従・屈服の強要だけです。独善的な“気合い”“道徳”の押し付けといってもいいでしょう。

                                        (つづく)

 (注)写真は本文とは関係ありません。

 


葉を広げるヒガンバナ(続)

2013-01-17 | 生物

ところでよく考えてみると,畦や土手でこんなにも繁茂しているのはふしぎです。そこばかりか,お墓近くにもたくさん生えています。その理由を解説書から要約すれば,球根が持つ毒性が畦・土手・墓地などを荒らすモグラやネズミを退治するのに効果があるので植えたとか,飢饉の際に球根からデンプンを取り出して非常食にするために植えた,ということになります。

記録が残っているというのですから,それは事実にちがいありません。しかしそれにしても,身近なところで実際にそれが役立ったという話をわたしは長老から来たことがありません。それに,その殖え方が特異でありながら,すっかり自然の風景に溶け込んだ感がします。今も多少は,子どもたちの野の遊び材料です。わたしたちの少年期は,冬,ヒガンバナの土手を滑り降りて遊んだものです。

殖え方が特異と書きましたが,生えているところをじっくり見ると,あることに気づきます。一様に広がっているわけではなく,何となく固まりができていて,小型のブッシュが点在しているといった感じです。

そして,ヒガンバナの見えない畦や土手には,ほんとうにさっぱり見当たりません。

あるところとないところができたのは,たぶん,圃場整備によって昔の畦や土手が潰され,新しく境がつくられたとき,土の中にヒガンバナの球根が入り込んだためでしょう。生えていなかったところにはさっぱり生えない,生えているところは球根がばらばらにされて人為的に拡散していったと思われます。

そうして,初めの頃はほんの数個,場合によってはたった1個だった球根が年とともにどんどん殖えていったのでしょう。たとえば,1個の球根が一年に2個になると仮定すると,7年後には128個にもなる計算になります。8年後には256個,9年後には512個,10年後にはついに1024個! 

こんなことを思いながら,一つの群落(株)を掘ってみれば納得できます。無数の球根がわんさと固まっているのです。まさに塊りです。

                                                                            (つづく)

                                                            


雪化粧をした峰

2013-01-16 | 日記

1月16日(水)。最低気温-2.9℃(午前7時43分)。

全国的に冷え込み,日本海側を中心にして積雪対策に追われている地方が多いようです。それに比べるとわたしたちの地方は大したことはありません。我が国の地形の特色を思ってしまいます。

今日は午前中は快晴でした。出勤時,雲の間に見える峰が薄っすらと雪をいただいていました。等高線に沿ったかたちできれいに見えました。海抜800m辺りが境になっているでしょうか。なかなかの景観と見ました。

職場でしごとをしながら,せっかくだから写真に収めておこうと思って撮ったのが下の写真です。白く雪化粧をした峰は,県下でもかなり有名な山です。標高は1000mを超しています。撮影ポイントから見て真っ白なのですから,山頂付近で50cmぐらいは積もっているのではないでしょうか。

田舎の風景は,空気が澄み切って遠望でき,いいものです。

電話の応対やら,庭の除草やら,栽培園の手入れやらに明け暮れて一日を無事に終えました。感謝。


“紙漉き職人”Kさんからの賀状

2013-01-15 | 随想

Kさんは和紙を漉く職人です。中堅職人の有望株で,いずれプロフェッショナルの域に達することが期待されている職人です。

このKさんからは,毎年ご自分で漉かれた和紙の年賀状をいただきます。その文面をわたしはとてもたのしみにしています。

今年は,ていねいな文字でこう認められていました。

「お元気でいらっしゃいますか。昨年は〇〇学校にて,一年生の生徒さん達とさつまいものつるを使ってはがき作りをしました。皆,いっしょうけんめいに作ってくれました。〇〇先生に教えて頂いたことが活かされてこの様な経験をさせて頂きました。嬉しかったです」(文中の“〇〇”はわたしの勝手な読み替えです)。 

地域に溶け込んで汗を流していらっしゃるKさんの姿が見えて,わたしこそうれしくなりました。一字一句に無駄がありません。丹念に記された文字からは,職人気質とでもいえそうな底の深いまなざしが伝わってきました。

 

実は,Kさんとの出会いは今から10年近くさかのぼります。それは愛知県でのこと。

あるテレビ局が製作する番組で,わたしは野草紙研究家として協力し,Kさんは若手和紙作り職人として裏方で手伝いをされた際に知り合ったのです。プロデューサーの配慮でKさんが招かれ,バックアップ役として動かれたのでした。そのときに,なんと真面目なお人柄だろうと思った記憶がよみがえってきます。「この姿勢なら,伝統文化を引き継いで大成なさるだろう」とはっきり感じました。それがご縁で今に至っているわけです。

番組は30分ものでした。しかし,思いがけない難題がいくつか出てきてロケは朝から深夜に及びました。結局何とか無事に終了したものの,とうとうわたしはその日に帰宅できなくなりました。それで,朝一番の新幹線で帰ったことが懐かしく思い出されます。

和紙作りは伝統工芸の一つです。Kさんが地域に身を置いて伝統の技を日々追求しながら,学校にも目を向け子どもたちの育ちを支えようとされていることはまことに尊いことです。どのような達人の域に達しようが,こうした営みをたいせつにされていれば人間としても確実に成長なさるはず。その真面目なまなざしにわたしは大きな拍手を贈りたいと思うのです。 

 


クビキリギスの頭

2013-01-14 | 生物

冬眠中のクビキリギスからは,明らかに仮死状態と同じ様相が伝わってきます。まったく動かず,少し刺激したときにわずかに動くとはいえ,あるがままの状態を維持しようとしてそうっと動いているように見えるだけです。

それで,格好の被写体になってくれました。

体表は,意外とごつごつしています。外骨格に役を果たしながら,内部器官を保護していることがうかがえます。

円錐状の頭の上の方に複眼が付いています。さらにその上から,触覚が優雅に曲線を描いて突き出しています。 

複眼の個眼が,きれいに並んだ様子が観察できます。 

頭の斜め下から見上げて写してみました。触覚,複眼,口器が揃って見えます。口は頭部の下を占めています。葉をボリボリ貪り食うための器官です。これだけたくましい口が備わっていることが,こうした草食性昆虫 を特徴づけています。

赤く見えるのが大顎。中央から下に突き出した黄緑色の板状のものが上唇。何本か付いている棒状のものが小顎や小顎鬚の類い。すべて名が付いています。

顎は胸と離れていて前後左右できます。餌を食べる際姿勢を柔軟に曲げ伸ばしできるように,また運動が滑らかにできるように仕組まれていることがわかります。

接写の世界には,肉眼では見えない光景がゆたかに広がっています。

 


カマキリの死体

2013-01-13 | 生物

先日,木に付いたカマキリの卵のう(卵鞘)を見かけました。卵はスポンジのような暖かい“ガウン”をまとっています。

数日して,庭の手入れをしているときのこと。ふと赤錆びた支柱の根元を見ると,カマキリの死体が横たわっていました。そこはコンクリート上。長く伸びたからだから出た脚は,それぞれの方向を向いて硬化しています。最期の姿のままなのでしょう。

 

威容を誇ったカマが錆び付いたように妙に古ぼけて見えます。

生きとし生けるものはすべていつかはいのち絶えるときが訪れます。このカマキリはたった一年の寿命しか授けられていません。春に生まれて,天敵からの難を無事に逃れ生き延びました。そして,秋を越し冬を間近にして死期を迎えたのです。

 

からだの色が大きく変化しています。濃い褐色が錆びた鉄とぴったり合っています。静かな静かな風景です

カマキリがいのちを託した卵は,卵のうに詰められて厳しい冬を乗り越えようとしています。温度が下がってからだが凍るのは致命的ですから,卵のうの壁は水分がしみ込まないしくみになっているはず。空気の泡が断熱効果を発揮しているでしょう。中では,いのちが春を待りながら寒さに耐えています。

冬はほとんどの生きものにとって,過酷な環境です。

 


キタキチョウ,冬眠中(続)

2013-01-12 | 日記

1月12日(土)。持ち帰ったキタキチョウを,接写で撮影しました。

翅をつまんでツゲの枝にぶら下げようとして,びっくり。二本の後脚でぶら下がった状態になったのです。体重をたった二本の脚で,それも脚先の爪だけで保持するとは! 

予想なのですが,チョウは眠った状態にありながらこんなふうに自然にからだが動いたのではないでしょうか。自然界ではどんな環境の変化があるか,わかりません。一方,寒さのためにからだは完全に睡眠に入っています。

環境が変わっても,いのちを守るための最低の防御体制が整えられているように思うのです。でないと,みすみすいのちを失うことになります。

たとえば,ぶら下がる姿勢が越冬の絶対条件ならば,この条件が壊れたとき,からだがそれを修復するよう機能するとか……。修復するといっても,たぶん,完全に目覚めなくてもできるしくみが体内に備わっているでしょう。この格好が刷り込まれているとか,何かあるにちがいありません。

四本の脚が折り曲げられたままなのは,チョウが眠っていることを物語っています。こうした動作ができるのは,ちょうどマグロが眠ったまま泳いでいる姿に似ていると思うのです。眠っていても状況に応じた動作が行えるふしぎを思いました。

わんさかと毛が生えています。結構暖かいのでしょう。厳冬を生き抜くための戦略がうかがえます。 

頭の方から,ぶら下がった姿を撮りました。

見事な一直線です。翅の間に二本の触覚がきれいにしまい込まれています。まるで格納庫です。この姿から,ついつい左右対称図形を思い浮かべました。翅の表面には細かな毛が密生しています。それぞれが自然の美です。 

いのち一つとの出合いを疎かにせず,じっくり見つめることの大切さを思いました。