◎今日の一枚 357◎
Lee Konitz
Subconscious-Lee
楽天イーグルスが日本シリーズを制した。素直にうれしい。良かった。王手をかけていた第6戦で敗れて嫌な感じだった。第7戦の日の日中は、私が住む街でも、何か街全体がそわそわしたような雰囲気だった。私の家族も、テレビの前で応援グッズをもって応援した。思えば、家族全員でひとつのテレビ番組を見るなど、近頃珍しいことである。「被災地のため」とかいった言説がとかく強調されるが、リップサービスだとしても嫌な感じはしない。彼ら自身が何度か被災地に足を運び、球団も少年野球教室などで地元の人たちと交流を続けているからだ。
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クール・ジャズの名盤。リー・コニッツの1949,1950年録音作品、『サブコンシャス・リー』である。
リー・コニッツは、若い頃、よく聴いた。わかったような顔をして聴いていた。本当はよくわからなかった。難しい音楽のように思えた。ジャズを学習的に頭で聴いていたからだろう。最近また、なぜかよく聴くようになった。ジャズ史的、理論的にどうのこうのではなく、単純に音が、サウンド全体の雰囲気が好きだ。特にこのアルバムは好きだ。人を拒絶するようなところがまったくない。よく解説にある、「孤高な」「冷たい青い炎」のような印象はもたない。何か寂しげな、人恋しいようなサウンドに共感を覚える。鬼気迫る即興演奏などとも思わない。ただ身体にすんなり入ってくる感じはする。きっと、「正しい」聴き方ではないのだろう。けれど、頭で聴いていた若い頃より、音楽をずっと近くに感じる。
菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー(東大ジャズ講義録・歴史編)』によれば、Subconscious-LeeというタイトルはSubconsciously=「無意識的なリー・コニッツ」という駄洒落的な意味なのだそうだ。同書は、この時期のリー・コニッツは凄いと評価しながらも、このアルバムを、このセッションでピアノを弾いているレニー・トリスターノの音楽だと断定している。周知のごとく、盲目のピアニスト、レニー・トリスターノは、リー・コニッツの師匠であり、トリスターノ理論といわれるジャズの新しい方法論をうちたてた人物である。このトリスターノ一派の音楽が「クール・ジャズ」と呼ばれていくことになる。
クール・ジャズについては、≪ビバップに対抗する形で生まれた、理知的でアンサンブルを重視するようなサウンド≫であるとなんとなく理解していた。マイルスの『クールの誕生』などはそんな感じもするが、リー・コニッツについてはその定義はしっくりこないような気がしていた。先の『東京大学のアルバート・アイラー(東大ジャズ講義録・歴史編)』は、「クール・ジャズ」について次のように述べる。
「クール・ジャズ」は音楽的内容から言えばビバップと殆ど一緒。パッブからアングラ臭を抜いてさ、ちょっとリラックスした雰囲気を前面に押し出して、でも、不良のクールな音楽っていうイメージはキープ。みたいな感じで、以後、黒人音楽を白人層が取り込む際に常識的となるパターンがここでもはっきりと現れています。
こういわれた方が何となくフィットする気がする。クール・ジャズはビバップと同等の概念ではなく、そこから派生的に展開した音楽のスタイルのひとつということなのだろう。
もう少し、何人かの文章を引用してみよう。大和明という人も「パッブの発生からモダンジャズの黄金時代へ」(『ジャズの辞典』冬樹社1983)という文章の中で、
これはパッブのコンセプションを基盤としながらも、聴感上は静的で知的感覚に彩られたソフトな透明感を思わせるサウンドや抑えられた躍動感とヴィブラート、そして内省美と流麗美に溢れたフレージングを特色とするものであった。
と述べている。内藤遊人『はじめてのジャズ』(講談社現代新書1987)も、
それは、ジャム・セッションの一発勝負的発想をやめ、アレンジをしっかり決める、少ない編成でオーケストラの多彩なサウンドを出せないものか、大きな広がりのあるサウンド空間を作り出したうえで、ジャズ(ビ・パッブ)の方法論を展開したインプロヴィゼイションをやりたい、という三つを大きな柱としたものだった。
述べている。やはり、「クール・ジャズ」とは、大きな見取り図の中では、ビ・バップの派生的形態と考えてよさそうである。