WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ピアノの響きが美しい

2014年11月22日 | 今日の一枚(K-L)

☆今日の一枚 381☆

Keith Jarrett

Changes

 3連休、久々の完全オフである。大学生になった長男を訪問しようかと考えていたのだが、妻の親戚に不幸があってホテルをキャンセルした。というわけで、午前中は職場に行って残務整理、午後からは掘りごたつの完全清掃をした。ヒーターを分解して機械の中の埃まで取り除いた。家をつくって初めてのことなので、10年分の汚れだ。10年分の埃はかなりの量で簡単な作業ではなかったが、家の中をきれいにするのは悪い気分ではない。そういえば、震災後ずっとそのままの、家の壁のひび割れもそろそろ何とかしなければ何らない。しかし、建築業者が忙しすぎて我が家の補修など後回しにせざるを得ない現状はまだまだ変わらないようだ。

 キース・ジャレット・トリオの1983年録音作品『チェンジズ』である。あの『スタンダーズ』vol.1及びvol.2と同日の録音のようだ。もちろん、ベースはゲイリー・ピーコック、ドラムスはジャック・ディジョネットである。スタンダーズ・トリオでオリジナル作品もやってみたということになるのだろうか。しかし、やってみたというにはあまりに美しい演奏である。ピアノの響き方が素晴らしい。筆舌に尽くしがたい。キースのトリオのインタープレイの凄さはもちろんなのだが、私の耳はピアノの響きを追いかけてしまう。不協和音を巧みに織り交ぜつつ展開していく、静寂な雰囲気の響きは、それが即興演奏だとはまったく信じられないほどだ。

 若い頃、よく聴いたアルバムなのだが、ここ十数年ほどCD棚で埃をかぶったままだった。数日前に、たまたま手に取り聴いて以来、ここ数日何度も聴いている。

 


やっぱり響きが素晴らしい

2014年11月16日 | 今日の一枚(K-L)

☆今日の一枚 380☆

Keith Jarrett

Standards, Vol.2

 昨日まではHCを務めるバスケットボール部の地区予選、今日は久々のオフだ。といっても、来週からはじまる試験のための準備をしなければならないのだが・・・・。これから仕事に取りかかり、一区切りついたら骨休めに近所のスーパー銭湯にでもいこうかと目論みつつ、コーヒーを飲みながら音楽を聴いている。

 先日のVol.1に続いて、キース・ジャレット・トリオの1983年録音作品『スタンダーズVol.2』である。曲の解釈や演奏の構成はもちろんだが、やはり音の響きが素晴らしいと感じる。何というか、透徹した、硬質で透明なピアノの音に魅了される。バラードナンバーにおける、ゲリー・ピーコックのベースの深く柔らかい響きも好ましい。キースのだみ声が邪魔だという人も多いようだけれど、私にはさほど気にならない。Vol.1に比べて、静かな曲が多く、その意味ではピアノの響きを聴くにはより適した作品といえそうだ。

 今日は少し寒いようだ。けれども、暖房の聴いた部屋で、外の風景を眺めながら、キースのピアノの透明な響きを感じるのはひとつの至福の時だ。心が穏やかになっていくのがわかる。昨日までのバスケットボール大会の喧騒と熱気が、耳からあるいは脳からしだいに消えていく・・・。

 3人しか部員がおらず、助っ人を借りて出場した地区大会で、県予選への出場権を勝ち取ったのは選手を褒めるべきだろう。けれども、相手チームの選手たちの落胆した表情を見るにつけ、ちょっと複雑な心境になる。本来選手不足の我々が出場しなければ、予選を勝ち抜けたはずなのだから・・・。


ピアノの響きが素晴らしい

2014年11月10日 | 今日の一枚(K-L)

☆今日の一枚 379☆

Keith Jarrett
Standards, Vol.1

 このアルバムをよく聴いていた頃、ひとりの女の子と出合った。彼女は高校生で僕は大学生だった。夏休みの帰省中に暇を持て余し、史跡見学にかこつけて原付バイクで近隣の田舎町を訪れ、道を尋ねたのがきっかけだった。おばあさんの乗った車いすをおしていた彼女は、岩手県の田舎町には似つかわしくない、白いワンピースを着ていた。可愛らしい女の子だった。その町のことをいくつか尋ね、ほんの少しだけ世間話をして別れたのだが、数日後、その町のスーパーマーケットで再びばったり出会ったのだ。数日前のお礼を述べ、自己の素性を明かしてとりとめのない話をしているうちに、日を改めてその町を案内してもらえることになった。結局、その夏休みには彼女と5~6回ほど会い同じ時間を過ごすことになった。それだけだ。まっすぐに物事を見る、素直で誠実な女の子だった。けれど、どこかアンニュイな雰囲気をもった女の子だった。彼女とは次に会う約束もしていたが、私に急用ができて東京に帰らねばならなくなり(ほんとに切羽詰まった大切な用事だったのだ)、約束をすっぽかす形になってしまった。まだ携帯電話などなかった時代の話だ。連絡先をちきんときいておかなかったのがいけなかった。約束を破ってしまったことを詫びることもできず、彼女とはそれっきりになってしまった。冬休みに帰省した時に、一度だけその町をぶらぶらしてみたが、彼女と出会うことはできなかった。苦い思い出だが、今でも私の中では、その夏休みの記憶は彼女とともにある。

 キース・ジャレットの1983年録音作品、『スタンダーズ第一集』である。キースがスタンダードに取り組んだ最初の作品である。もちろん、ベースはゲーリー・ピーコック、ドラムスはジャック・ディジョネットである。スタンダードの解釈や演奏の構築はもちろんだが、何といっても音の響きが素晴らしい。私にとっては美しいピアノの響きがすべてだ。硬質で想像力をかきたてるような響きだ。①Meaning Of The Blues の静謐で深淵な出だしを聴くと、私はいつもあの夏の日に出合った女の子のことを思い出す。彼女のように、素直で誠実で、どこかアンニュイな響きに聴こえる。

 田舎町には似つかわしくない洋服を着たその女の子は、自分はこの町が本当に好きだと語った。けれども、やはりこの町からでてみたいのだとも語った。私から東京の話を聞き、ちょっと照れくさそうに、けれども真剣な口調で、足腰の悪いおばあさんが心配ではあるが、それでもやはり一度はこの町の外を見てみたいのだと語った。もう彼女の顔をはっきりと思い出すことはできない。記憶には白い半透明のベールがかけられているようだ。それでもこのアルバムを聴くと彼女のことを思い出す。あの夏休みの記憶はこのアルバムのサウンドとともにある。このアルバムを聴いて以後、私はキース・ジャレットのフォロワーになっていったが、もしかしたらそれはあの夏の想い出と関係があるのかもしれない。

 素直で誠実で、どこかアンニュイな女の子。彼女ももうすぐ50代になるはずだ。彼女と出会ったのは、このアルバムがリリースされた翌年のことだった。

 


クール・ジャズ(加筆)

2013年11月08日 | 今日の一枚(K-L)

◎今日の一枚 357◎

Lee Konitz

Subconscious-Lee

 楽天イーグルスが日本シリーズを制した。素直にうれしい。良かった。王手をかけていた第6戦で敗れて嫌な感じだった。第7戦の日の日中は、私が住む街でも、何か街全体がそわそわしたような雰囲気だった。私の家族も、テレビの前で応援グッズをもって応援した。思えば、家族全員でひとつのテレビ番組を見るなど、近頃珍しいことである。「被災地のため」とかいった言説がとかく強調されるが、リップサービスだとしても嫌な感じはしない。彼ら自身が何度か被災地に足を運び、球団も少年野球教室などで地元の人たちと交流を続けているからだ。

     ※     ※     ※     ※     ※

 クール・ジャズの名盤。リー・コニッツの1949,1950年録音作品、『サブコンシャス・リー』である。

 リー・コニッツは、若い頃、よく聴いた。わかったような顔をして聴いていた。本当はよくわからなかった。難しい音楽のように思えた。ジャズを学習的に頭で聴いていたからだろう。最近また、なぜかよく聴くようになった。ジャズ史的、理論的にどうのこうのではなく、単純に音が、サウンド全体の雰囲気が好きだ。特にこのアルバムは好きだ。人を拒絶するようなところがまったくない。よく解説にある、「孤高な」「冷たい青い炎」のような印象はもたない。何か寂しげな、人恋しいようなサウンドに共感を覚える。鬼気迫る即興演奏などとも思わない。ただ身体にすんなり入ってくる感じはする。きっと、「正しい」聴き方ではないのだろう。けれど、頭で聴いていた若い頃より、音楽をずっと近くに感じる。

 菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー(東大ジャズ講義録・歴史編)』によれば、Subconscious-LeeというタイトルはSubconsciously=「無意識的なリー・コニッツ」という駄洒落的な意味なのだそうだ。同書は、この時期のリー・コニッツは凄いと評価しながらも、このアルバムを、このセッションでピアノを弾いているレニー・トリスターノの音楽だと断定している。周知のごとく、盲目のピアニスト、レニー・トリスターノは、リー・コニッツの師匠であり、トリスターノ理論といわれるジャズの新しい方法論をうちたてた人物である。このトリスターノ一派の音楽が「クール・ジャズ」と呼ばれていくことになる。

 クール・ジャズについては、≪ビバップに対抗する形で生まれた、理知的でアンサンブルを重視するようなサウンド≫であるとなんとなく理解していた。マイルスの『クールの誕生』などはそんな感じもするが、リー・コニッツについてはその定義はしっくりこないような気がしていた。先の『東京大学のアルバート・アイラー(東大ジャズ講義録・歴史編)』は、「クール・ジャズ」について次のように述べる。

「クール・ジャズ」は音楽的内容から言えばビバップと殆ど一緒。パッブからアングラ臭を抜いてさ、ちょっとリラックスした雰囲気を前面に押し出して、でも、不良のクールな音楽っていうイメージはキープ。みたいな感じで、以後、黒人音楽を白人層が取り込む際に常識的となるパターンがここでもはっきりと現れています。

 こういわれた方が何となくフィットする気がする。クール・ジャズはビバップと同等の概念ではなく、そこから派生的に展開した音楽のスタイルのひとつということなのだろう。

 もう少し、何人かの文章を引用してみよう。大和明という人も「パッブの発生からモダンジャズの黄金時代へ」(『ジャズの辞典』冬樹社1983)という文章の中で、

 これはパッブのコンセプションを基盤としながらも、聴感上は静的で知的感覚に彩られたソフトな透明感を思わせるサウンドや抑えられた躍動感とヴィブラート、そして内省美と流麗美に溢れたフレージングを特色とするものであった。

と述べている。内藤遊人『はじめてのジャズ』(講談社現代新書1987)も、

それは、ジャム・セッションの一発勝負的発想をやめ、アレンジをしっかり決める、少ない編成でオーケストラの多彩なサウンドを出せないものか、大きな広がりのあるサウンド空間を作り出したうえで、ジャズ(ビ・パッブ)の方法論を展開したインプロヴィゼイションをやりたい、という三つを大きな柱としたものだった。

述べている。やはり、「クール・ジャズ」とは、大きな見取り図の中では、ビ・バップの派生的形態と考えてよさそうである。


SPECIAL MENU

2010年11月03日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 285●

金子晴美

SPECIAL MENU

Album4

 昔、よく聴いたのに生活の中で埋もれてしまった作品にふとしたことで再会するのは、楽しいことだ。当時の想い出や空気感がよみがえってくるとともに、意外なことだがまったく別の視点で冷静に聴きなおすことができるものだ。

 日本人ジャズシンガー、金子晴美の3rdアルバム、1983年作品の『SPECIAL MENU』もそんな一枚である。桑田佳祐作品集だ。当時、サザンオールスターズ自体が、ジャズピアニストで作曲家・編曲家の八木正生と接近し、ジャズテイストの作品を発表しており、決して話題性をねらっただけの奇をてらったアルバムではなく、内容的にもなかなかよくできた作品に仕上がっていると思う。実際、金子晴美自身、このアルバムでひとつの才能が開花したところもあり、 彼女の代表作のひとつとなっているようだ。編曲は八木正生その人である。

1. ハロー・マイ・ラヴ
2. トゥモローズ・ロード(シャ・ラ・ラ)
3. いにしえのトランペッター
4. ミュージック・マン(我らパープー仲間)
5. メモリーズ・オブ・ラヴ(YaYaあの時代を忘れない)
6. マイ・ラヴ・ソー・スウィート(いとしのエリー)
7. ジャズ・ランドより愛をこめて(がんばれ,アミューズ)
8. ストーリーズ・エンド(別れ話は最後に)
9. ホエン・ユーア・オーヴァー32(恋する女のストーリー)
10. スペシャル・メニュー(アイ・アム・ア・パンティ)

11. ジャス・ア・リトル・ビット

 原曲のメロディーを損なうことなく、聴き易いサウンドとする一方、すべての曲に英語の詞がつけられ、ジャズテイストが加味された結果、意外なことにも、サザンオールスターズとはまったく異なる解釈の作品に仕上がっている。ちょっと都会的で、今聴いても新鮮なサウンドだ。否、むしろ、当時より、今の方が新鮮かもしれない。えっ、この曲ってこんなに素敵な曲だっけ、などと思うこともしばしばだ。これぞジャズの醍醐味である。最後の曲、just a Little Bit 、いいなあ……。

 1983年、ふとしたことで貸しレコード屋でこの作品に出会い、リアルタイムで聴いていた。ジャズ喫茶通いをし、トレーンとかアイラーなどハードコアなジャズを「お勉強」いていた私にとって、日常生活の中で心に潤いを与えてくれた作品のひとつだったような気がする。残念ながら、金子晴美はこの一枚しかもっておらず、現在のところ、私にとっての金子晴美はこのかわいらしい声がすべてである。


マイナー・ブルース

2010年07月10日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 277●

Kenny Barron

Minor Blues

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 ケニー・バロン・トリオの2009年録音作品、『マイナー・ブルース』である。venus 盤である。パーソネルはベン・ライリー(ds)、ジョージ・ムラーツ(b)だ。このメンバーをみただけで期待が込み上げてくる。

 一聴、妙に音がいい。鮮明である。venus お得意の「オンマイク」の録音だということを考慮しても、ずいぶん鮮明な音に思える。よく見ると、HQCDというやつだ。HQCD ? 知らなかった。調べてみると、HQCD(ハイ・クオリティーCD)は、先行するSHM-CD(スーパー・ハイ・マテリアルCD)に対抗して開発されたもので、規格はこれまでのCDと同じながら、液晶パネル用途のポリカーボネートが基盤材料に使用され、従来のアルミニウムに換えて反射膜素材として特殊合金が使用されているのが特徴で、限りなくマスターに近いサウンドが再現できるとの触れ込みのようだ。SHM-CDと異なる点は、後者の特殊合金の使用である。音がいいのは、録音の良さのためなのか、この新素材の採用のためなのか、一枚聴いただけでは判断がつかないが、とにかく格段に音が鮮明であると感じたことは間違いない。鮮明すぎて音が強すぎ、陰影感がそこなわれるのではと感じた程だ。

 好きだなあ、このアルバム。心からそう思える作品である。1曲目のケニー・バロンのオリジナル、① Minor Blues からちょっとドキッとした。不協和音を効果的に使ったサウンドである。2曲目以降はスタンダート曲である。気持ちよくスウィングするノリのよい演奏あり、ジーンとくるようなリリカルな演奏あり、とにかく心が踊る。太く、力強いムラーツのベースのせいか、ダイナミックなサウンドに仕上がっている。《芸術性》の極北をめざすようなものではないが、十分に質の高い演奏であり、私の日常の中に溶け込み、元気を与えてくれる一枚である。


テンダネス~マイ・バラード

2010年04月19日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 256●

木住野佳子

Tenderness

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 日本のジャズピアニスト木住野佳子の2000年録音作品『テンダネス~マイ・バラード』である。タイトルがいけない。大甘タイトルである。CDの帯の宣伝文句もこうだ。「泣きだしたいくらい、いいアルバムです。せつない涙も、暖かい涙も、みんなここにあります。澄んだ音色のジャズ・ピアノが歌う、初のバラード集。」危険である。要注意盤だ。宣伝文句からきれい系ジャズであることは明白である。なぜ購入したのだろう。よくおぼえていない。きっと癒されたかったのかも知れない。ただ、私は批判的なことをいいつつも、実はこういう宣伝文句に弱いのだ。

 悪いアルバムではない。しかしやはり、きれい系ジャズだ。購入後、数回聴いたきりでずっとCD棚に置き去りにしていた。数年ぶりに聴いてみた。癒されたかったのかも知れない。演奏の速度がいい。ゆっくりとした速度だ。心臓の鼓動、あるいは細胞のリズムに合致する。しかし、なぜかのめりこめない。BGMとしては気分の良いアルバムなのかもしれないが、のめりこめないのである。ピアノの音色に深さがないように感じる。録音がきれい過ぎるのかも知れない。人間は、あるいは人間の心は、そんなにきれいなだけのものではないのだ。もう少し生々しさがほしい。心に突き刺さる、あるいは細胞にしみこんでいく、生々しさが欲しい。しかし、繰り返し言うが、悪いアルバムではない。

 もう少し生々しさが欲しいというのは、何でもエコー処理すれば解決するという世情への反発心かも知れない。やはり何が足りない。何かとは何だろう。それがわかれば、私もジャズを卒業できるかもしれない。


ウィチタ・フォールズ

2010年04月11日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 253●

Pat Metheny & Lyle Mays

As Falls Wichita , So Falls Wichita Falls

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  寝不足である。昨日の深夜放送のJBL(バスケットボール)ファイナル第1戦・リンク栃木vsアイシンのゲームを見てしまったからだ。いいゲームだった。試合は終始アイシンのリードで進んだが、第4ピリオド、リンク栃木が田臥勇太を中心とした驚異的なオフェンスとゾーンディフェンス(解説では2-3ゾーンといっていたが、1-1-3のマッチアップゾーンだろう)で挑み、安定した実力をもつ王者アイシンを混乱させていった。アイシンという冷静なチームが少しずつかき乱されていく過程がありありとわかり、バスケットボールというスポーツの精神性という側面が顕在化したゲームだった。88-77でリンク栃木先勝。これでファイナルは面白くなった。もともと安定した実力を持つアイシンである。このまま終わることはなかろう。私はもともと、『ファイブ』のモデルともなったアイシンの創立以来のファンだが、今回ばかりはリンク栃木を応援している。JBLのHPによると、第2戦も80-72でリンク栃木が勝ったようだ。録画放送は今日の深夜である(sky A +)。明日は仕事だ。今夜はどうしようか。

 午前中、眠さをこらえながら、ヘッドコーチを務める高校女子バスケットボール部の練習に付き合い、午後、楽天イーグルス対オリックスのゲームをテレビ観戦しているうちに眠ってしまった。目を覚ますと4時をまわっていた。どうやらイーグルスも勝利したようだ。戸外は陽気もよく、穏やかな夕暮れに向かっている。遠くで子どもたちが遊ぶ声がする。そんな静かな夕暮れへとむかう時間の中でまどろんでいるうちに、パット・メセニーのこのアルバムを思い出した。

     *     *     *     *     *

 パット・メセニー & ライル・メイズの1980年録音作品いわゆる『ウィチタ・フォールズ』である。私の、ずっと以前からの、そうほとんど発表以来からの愛聴盤である。パット・メセニー・グループも含めて、ライル・メイズとパット・メセニーの共作には、いつも映像的なイメージを感じさせられるのだが、この作品はとくにそうだ。印象的なアルバムジャケットが示唆するモノトーンのイメージが想像力を掻き立て、頭の中では次々に映像的な世界が現出する。

 このアルバムが思い浮かんだのは、③ As Falls Wichita,So Falls Wichita Falls の終りにでてくる子どもたちの声のためだろうか。それとも、ビル・エヴァンスに捧げた ③ September Fifteenth の穏やかで哀しみを湛えた美しい調べが、夕暮れ時をイメージさせるからだろうか。あるいは、⑤ Estupenda Graca の美しいヴォイスが、終わりにむかう何かを暗示しているように感じるからだろうか。


ランドスケイプ

2009年04月06日 | 今日の一枚(K-L)

◎今日の一枚 240◎

Kenny Barron

Landscape

Scan10001

 わが東北地方もすっかり春めいてきた。我が家の庭の梅の木もやっとほぼ満開の状態となった。最近、やや仕事が忙しく、すっかり更新するのを忘れていた。といっても、音楽を全然聴いていなかったわけではない。少ないプライベートタイムながら、毎日LPにすれば片面程度は聴いている。まあ、《ながら聴き》であるが……。最近、1980年代前半のピアノトリオ作品をよく聴く。私が学生時代にリアルタイムで聴いていた作品たちである。軽い感傷に浸りながら思い出すのは、駆け巡っていた街の風景や、じめじめした汗の感覚や、どこからか吹いてきた風の爽やかさであり、あるいはかかわりをもった懐かしい人たちの表情である。

 ケニー・バロンの1984年録音盤、『ランドスケイプ』である。ケニー・ドリューのお洒落なジャケットシリーズなどを手がけた日本のレーベル、RVCからの作品である。「荒城の月」や「リンゴ追分」などが収録されているのはそのためだろうか。ジャケットもどこかケニー・ドリューの1980年代の作品群を思わせるお洒落でノスタルジックなデザインである。その意味では、明らかな企画ものなのであるが、私は嫌いではない。悪くはないと思っている。

 ケニー・バロンを知ったのは、ロン・カーターが出演した「サントリー・ホワイト」のCMだった。ロン・カーターのベースの後に絶妙なタイミングで入ってくる繊細なタッチのピアノは一体誰だ、と思ったものだ。すぐに貸しレコード屋で借りたレコードにはケニー・バロンの名が記されていた。以後、いくつかの彼のレコードを借り、あるいは買った。といっても、当時ケニー・バロンの名は未だビックネームとはいえず、作品の数は少なかったのだが……。この『ランドスケイプ』もそのころ買ったもののうちの1つであり、のちにCDも購入した。

 この作品におけるケニー・バロンは、繊細さに加え、力強さもあり、その多彩な表現力と非凡なテクニックがうかがえる。高音はあくまでも繊細で美しく、低音には迫力がある。さすがに、後に晩年のスタン・ゲッツに信頼を得、現在では名手といわれるひとりである。ケニー・バロンは、1943年の生まれなので、この時41歳ということになる。大したものだ。現在の私よりずっと若い。

 それにしても、音楽とは不思議なものだ。スピーカーからサウンドとともに、1984年の渋谷の街や世田谷公園の風景や夜の街を駆け巡る私の姿が飛び出してくるようだ。1984年、私は日本中世史を専攻する貧しい学生で、酒と本と音楽さえあれば生きていけると信じる青二才だった。


ヌー・ハイ

2009年03月08日 | 今日の一枚(K-L)

◎今日の一枚 236◎

Kenny Wheeler

Gnu High

Scan10008

 転退職の3月である。このところ、週に1~2度の頻度で諸々のセクションの送別会があり、身体がかなり疲れているのがわかる。休肝日をもうければよいと多くの人はいうけれど、それがなかなか難しい。煙草をやめるのは意外とスムーズにいったのだが、酒はそんなに簡単ではないようだ。煙草は以前一日に60本も吸う自称ヘビースモーカーたったのだが、十数年前に子どもが生まれたことをきっかけにきっばり(?)やめた。酒は、「休肝日をもうける」ということがなかなか難しい。いっそ、きっぱりやめればやめれるのかも知れないと思うのだが、酒は人生なり、みたいな変な自意識、酒を飲んでいる自分自身を見ていたいというある意味ナルシステックな自意識がじゃまをして、どうもうまくいかない。できないのは、私自身の《弱さ》なのだろう。そう考えながらも、その《弱さ》が人間的で好きだ、などというメタレベルの自意識がまたそれらを邪魔してしまう。まったく、自意識とはやっかいなものである。滑稽かな我が人生、である。

 さわやかな朝のためにECMサウンドを、 と思い取り出してみた1枚である。 カナダ生まれだがイギリスを拠点に活動するトランペッター、ケニー・ホイーラーの1975年録音作品『ヌー・ハイ』だ。キース・ジャレット(p)、デイプ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(ds)という強力なバックに支えられた、ケニー・ホイーラーの伸びやかで澄み切ったフリューゲルホーンの美しい響きが心地よい。音色は美しいが、演奏はインプロビゼーション主体のイマジネイティブなものである。本当はいやいや参加したともいわれるキース・ジャレットだが、緊張感のある創造的なアドリブ演奏を展開している。ピアノの響き/音色も大変美しく、瑞々しい音の粒たちが指先から滴り落ちるようだ。キースファンの私などは、正直いってフリューゲルホーンなどそっちのけで、ただひたすらピアノの旋律を追っている始末である。② Smatter におけるキースは本当に素晴らしい。


聖なる館

2009年02月09日 | 今日の一枚(K-L)

◎今日の一枚 227◎

Led Zeppelin

House Of The Holy

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 先日、NHKで「ロック黄金時代」なる番組の3話分一挙放送をみた。ゲストコメンテーターや一般参加者が自分たちの好きな60~70年代のロックについて語り合うという趣向だった。内容はいまいち濃いものではなかったが、ある時期同じような音楽を共有したいわば"共犯関係"のような奇妙な連帯感を楽しむことはできた。冒頭から、ピンク・フロイドが話題の中心になるあたりがなかなか良かったが、第2話のスーパーロックギタリスト特集でしばらくぶりにジミー・ペイジの名を聞き、無性に聴きたくなった。

 レッド・ツェッペリンは好きだった。少なくとも、ディープ・パープルなどより遥かに音楽性が高いと考えていた。ただ、ギター少年としてジェフ・ベック派を自認していた私は、ジミー・ペイジの良い聴き手ではなかったかも知れない。しかし、印象的でかっこいいリフやギターソロのドラマチックな構成など、ペイジのギターには魅了されたものだ。 番組中、萩原健太氏がペイジはベックやクラプトンに比べてギターテクニックとしてはワンランク落ちる旨の発言をしていたが、そうなのだろうか。よくわからない。ただ、ペイジの企画力・構成力・発想力が優れているという点は納得できる。また、ツェッペリンでの成功が強烈な印象となり、その後のギタリストとしての展開・発展のさまたげになったという点もその通りだろう。それほどにまで、ツェッペリンにおけるペイジのギター・プレイは印象的である。

 ツェッペリンの多くの名盤の中から私がターンテーブルにのせたのは、1973年作品、『聖なる館』だ。ペイジのギターを思い起こして真っ先に頭に浮かんだのは、「レイン・ソング」だったからだ。「レイン・ソング」……。美しい曲だ。全編がペイジの印象的で美しいギターを中心に構成されている。アコースティックギターをも駆使したペイジのプレイが曲の骨格となり、演奏を引っ張っていく。ボーカルは完全に脇役である。少なくとも、サウンドを構成する1パートに過ぎない。聴き終って、耳に残り口ずさみたくなるのは、ボーカルではなくペイジのギターだ。このようなギターを弾くペイジが私は好きだ。リッチー・ブラックモアには決して弾くことができないギターだ。ベックやクラプトンにも無理だろう。

 ロックを聴かなくなって数十年だが、「レイン・ソング」の美しいサウンドは今も私の耳に残っている。ギターの展開を今でもほぼ正確に口ずさめるほどだ。しばらくぶりに聴いた「レイン・ソング」だが、やはり私の期待を裏切らなかった。最初の一音を聴いただけで、心がとろけそうになる。いいものはいい、などという感情的な物言いは私の性には合わないのだが、少なくとも、いいものは決して色褪せないということを証明するような一曲である。


やはり、「スターダスト」は美しい

2009年01月11日 | 今日の一枚(K-L)

◎今日の一枚 215◎

Lionel Hampton All Stars

Stardust

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 1947年のジャスト・ジャズ・コンサートの模様を収録した、ライオネル・ハンプトン・オールスターズの『スターダスト』。大名盤である。ジャズ入門書などにも必ずといっていいほど取り上げられる超有名盤である。超有名盤であるが、私がこのアルバムを購入してちゃんと聴いたのは比較的最近のことだ。

 十数年前、山形蔵王の野外ジャスフェスティバルでたまたまライオネル・ハンプトン楽団の演奏に出会ったことがある。夏にスキー場で行われたライブである。そのときは、「とりたてて特徴のない普通のジャズ」という印象で、特に啓発される何ものかや、心を揺さぶる何ものかを感じなかった。むしろ、ずっと昔の有名人が博物館的に演奏しているという印象だった。それ以来、私の中のライオネル・ハンプトン株に高値がつくことはなく、ずっとこの超有名盤に接することなく過ごしてきたわけだ。 数年前に、たまたま仕事で知り合った年上の知人に薦められ、遅ればせながらこのアルバムを聴いた次第である。

 名盤という評価に異存はない。素晴らしい演奏である。特に冒頭の「スターダスト」の美しさは、多くの評者が論ずる通りだ。中には「ハンプトン一世一代のソロ」などという評もあるようだが、きっとその通りなのだろう(ハンプトンの他の演奏を聴いたことがないのでわからないが……)。ハンプトンの揺れる感じのvibが美しいのはいうまでもないが、出だしのウィリー・スミスのアルトがなんとも言えない味わい深さを表出している。デリカシーのある演奏だ。続くトランポットやテナーサックスだってなかなかのものだ。スキャットボイス付のベースソロもユニークだ。スタイルは古いが実に表情のある、起伏に富んだ演奏である。だいたい、1947年は大戦がおわって2年後なのだ、日本では憲法が施行された年だ。現在の地点から見て、革新的な演奏を求める方が無理な話だろう。

 実に気持ちよく聴けるアルバムである。ライオネル・ハンプトンを気持ちよく聴ける私は、やはりそれなりに年をとったということなのだろうか。それともやはり、このアルバムの持つ力なのだろうか。村上春樹氏は『Portrait In Jazz』の中で、ライオネル・ハンプトンについてその「生ぬるさ」を認めつつも、一定の評価を与えた後で次のように語る。

《 時代とともに野垂れ死にし、風化していった数多くのいわゆる「革新性」に、どれほどの今日的意味があるのだろうか 》

耳に残る言葉である。

 


パリ・コンサート

2008年01月13日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 206●

Keith Jarrett

Paris Concert

Watercolors0002  「キースのソロ物が出るたびに、ちょっと迷いつつ必ず買う。あの『ケルン・コンサート』のすさまじく美しい旋律は出ないだろうと思いながら、やはり期待せざるを得ない。」と語ったのは、寺島靖国さんだったが、その気持ちはよくわかる。

 キース・ジャレットの1988年録音作品『パリ・コンサート』。キースファンを自認する私であるが、雑誌『Soung & Life』(2006-No.4)の特集「いまを潤す10枚~私の愛蔵盤コレクション」で藤森益弘さんが推薦している記事を読んでこのアルバムを購入したのは一年ほど前のことだった。

 『ケルン・コンサート』のような《大甘の美旋律》は登場しないが、いつもながらのキースの静謐なピアノの響きはさすがだ。思うに、キースのピアノソロ作品といっても、しだいに変化してきており、ピアノの響きのクラシック的ニュアンスが強まってきているように思う。ジャズとクラシックではピアノのタッチの仕方が違うらしく、例えば小曽根慎がクラシックの奏法を学んで新境地を開きつつあるというのを、最近テレビの特集番組で見た。きっとキースもそうだったのだろう。小曽根に先駆けてだ。キースのピアノに即していえば、硬質で胸を締め付けられるほど繊細な響きが、随所に登場するようになっている。このアルバムの② The Wind の冒頭の響きはどうだろう。あまりの静謐な繊細さに、私は自分を見失い、息が詰まって気が狂いそうである。

 こういうキースが好きではないという人は多いだろう。その気持ちを頭で理解することはできる。しかし、やはり私は時々ソロのキースをどうしようもなく聴きたくなる。それは、キースの静謐なサウンドの中に、私を狂気へと導く《呪われた部分》があるからだ。私はそう考えている。


この素晴らしき世界

2007年08月30日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 197●

Louis Armstrong

Satchmo - What A Wonderful World

Watercolors0012_3  サッチモことルイ・アームストロングのベスト盤『サッチモ・ベスト/この素晴らしき世界』である。といっても、単なるベストではなく、かなり録音の悪いライブ演奏が数曲混じっている。タイトル名でもある「この素晴らしき世界」もどこかのラジオの実況録音である。録音は悪いが、なかなか趣があっていい。雑多な録音の寄せ集めのようなアルバムだが、私は結構気に入っている。

 サッチモを一時代前の音楽家だとして、博物館に陳列するようなことがあってはならない。確かに彼は黄金の1920年代から活躍し、ジャズ史上に不朽の足跡をのこした音楽家であり、そういう意味では博物館に展示される資格は十分にあるだろう。けれども、1971年になくなったサッチモは、今なお現役である。彼の音楽ほど人を勇気づけ、あるいは励まし、楽しい気分にする音楽があるだろうか。彼の音楽を聴くといつも、心がウキウキし、人生は素晴らしい、世界は素晴らしいと思いたくなる。私は、心が風邪をひいた時、ときどきサッチモを聴く。サッチモはいつでも私を勇気づけ、元気を与えてくれる。「この素晴らしき世界」と大きな声で叫びたくなるほどだ。

 このアルバムでは、①「この素晴らしき世界」と⑦「明るい通りで」が特に好きだ。いずれもどこかのライブで録音はかなり悪いが、曲の芯の部分がしっかりと伝わってくる。疲れた心を癒し、人生はすてたもんじゃない、もっと素敵なことがあるに違いないと思わせてくれる。月並みな言い方だが、それは明日への活力といってもいいかもしれない。サッチモは素晴らしい。ここういタイプの音楽家はそうはいない。不遜な言い方だが、その意味でサッチモは今でも「使える音楽家」なのだ。


リンダ・ロンシュタットの初々しいジャズ

2007年07月31日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 186●

Linda Ronstadt

For Sentimental Reasons

Watercolors0005_10  はっきりいって、2級品、3級品の類である。声にはしっとりとしたやわらかさが感じられず、硬くやや荒れている。表現にも余裕がなく、あまりに直接的で性急である。全体的には凡庸である、といってしまっても差し支えないかもしれない。

 なのに、また聴いてしまった。しばしば聴くわけではないが、本当に時々、何故だかトレイにあるいはターンテーブルに乗せてしまうのだ。合理的な理由はない。おそらくそれは、歌っているのがリンダ・ロンシュタットだからだろう。それ以外に理由は思いつかない。必然性もない。

 思えば、1970年代のリンダ・ロンシュタットは輝いていた。アルバム『ミス・アメリカ』の頃だ。その歌声と太ももははちきれんばかりに輝かしく、そのキュートな唇から紡ぎだされるポップなメロディーは我々の心を魅了したものだ。中学生の私は、その狸顔の瞳に見つめられると(もちろん写真だ)、胸が苦しくなるほどだった。当時は、「洋楽」女性歌手は、オリビア・ニュートンジョンとリンダ・ロンシュタットが人気を二分しており、日本のリスナーはオリビア派かリンダ派に分かれていたように記憶している。当初私は、控えめでしかも太陽のように明るい初期のオリビアを好きだったのだが、本当はどこかで自由奔放で恋多き女性のリンダに憧れを抱いていたのだと思う。リンダの写真を見て胸が苦しい気分になるには多くの時間を必要とはしなかった。

 さて、リンダ・ロンシュタットの1986年作品『フォー・センティメンタル・リーズンズ』である。何を思ったか1980年代に入ってリンダは、ジャズ風味のスタンダード・アルバムをたて続けに発表し、結構ヒットした。この作品は、『ホワッツ・ニュー』『ラッシュ・ライフ』に続く第3作目である。自由奔放なリンダがなぜスタンダードに興味をもったか。「1981年にブロードウェイで古い名作オペレッタ『ペンザンスの海賊』に主演したことから、さまざまな歌を勉強しようと考え、スタンダードを聴いているうちに、これらの歌が自分の思考や感情を表現できることを痛感した」というのが公式見解のようだが、そこはリンダのこと、自由奔放な恋が背景にあることは多くの評者の指摘する通りである。

 このアルバム、前述のように、聴くたびに2級品、3級品の類と思いながら、なぜか時々聴いてしまう。……初々しいのだ。ジャズポーカルとしては決してうまくはないが、素人の、凡庸だが素直な歌心がまっすぐに伝わってくる。そのまっすぐさに、あるいは初々しい凡庸さに共感するのだ。リンダは、心に描いた情景をシンプルに、そして素直に歌に置き換えていく。最大多数の感性に訴えるある種の凡庸さというのは、思えばロックやポップの手法なのであり、ロックあるいはポップ畑出身のリンダにしてみれば当然のことだったのかもしれない。

 ジャズは、うまい、下手ではない、といったのは誰だっただろうか。その言葉をあらためて考えさせられる一枚なのかも知れない。