WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

マイ・ソング

2007年03月22日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 143●

Keith Jarrett

My Song

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 キース・ジャレットの『マイ・ソング』(ECM)。全曲がキースのオリジナル曲からなる、ヨーロピアン・カルテットによる演奏である。

 録音されたのは1977年だったのですね。30年も前のレコードだ何て信じられない程、今聴いても新鮮である。録音だって悪くない。しかし、逆説的な言い方だが、このようなポップでしかも斬新な作品というのは、現代にはむしろ少ないのではなかろうか。キースは、その音楽の中で自己の世界を構築し、更なる何ものかを探究しているかのようである。ポップだが、その世界が完結的でなく、聴くたびに生成・進化を繰り返すような作品である。

 久々にこの作品を聴いたが、聴きながら読んだ、若き日の小野好恵によるライナーノーツが興味深かった。いかにも文学者然とした過剰な思い入れが感じられる文章だ。結論として何が言いたいのかいまひとつ不明な文章であるが、随所に印象的な表現が登場する。それらを紹介することはしないが、若き日の小野好恵はその文章を次のように結んでいる。

《 いずれにしても、帰るべき故郷などどこにもないジプシーの子キース・ジャレットは、"亡命者の時代"である20世紀が生んだ宿命の子であり、彼の音楽が有している優しさと悲しみが多くの人の心を打つのは、こういったこと決して無縁ではないだろう 》

「こういったこと」とは、キースに黒人の血が流れておらず、ブルース、ゴスペル、ニグロ・スピリチュアルなどの要素が内在的なものではない、ということをさしている。

 知識人特有の《 俗物性 》を感じさせる表現ではあるが、キースの一側面を考える上で示唆的ではなかろうか。


メモリーズ・オブ・ユー

2007年03月18日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 141●

Ken Peplowski

Memories Of You

Watercolors0010  クラリネット奏者ケン・ぺプロフスキーの2005年録音盤『メモリーズ・オブ・ユー』……。ぺプロフスキーの作品を聴くのは初めてだった。Swing Journal 主催第40回(2006年度)ジャズディスク大賞最優秀録音賞(ニューレコーディング部門)を受賞したとかで、最近雑誌等にやたらと広告が載っている。けれども、私はそんなことでCDを購入したりはしない。そもそも私はSwing Journal 選定ディスクというものにかなり懐疑的であり、批判的な意見をもっている。私の心を動かしたのはジャケット写真と宣伝文句である。

 何というジャケット写真だ。一見何の変哲もないバロック風の落ち着いた写真だが、よく見ると写真の女性たちが裸あるいは裸同然の姿でではないか。(見えにくければ、画像をクリックして拡大してください)一体、何を考えているのだろう。おかげでドレスを着て座っている可憐な少女にまでいかがわしいことを考えてしまうではないか。豪華な装飾のほどこされた部屋はそういった想像をことさらに掻き立てる。ブルジョワジーの倒錯した生活のイメージだ。両脇の毛皮をまとった女性たちなどから想起されるのは、マゾッホの作品の『毛皮を着たヴィーナス』というタイトルであり、可憐な少女から想起されるのはさしずめナボコフの『ロリータ』といったところだろうか。そうすると中央の3人は何だろう。まさか、マルキド・サドの『悪徳の栄え』……?

 そんなジャケット写真をもつこの作品につれられた宣伝文句は、「19世紀末的デンダンの香りがいっぱいのジャズを聴かせてくれる、後世に残る大傑作アルバム!!」というものだ。どうです、興味がわいてきたでしょう。私はこういうのに弱い。とくに、「デカダン」(退廃)などという言葉をつかわれるともう駄目だ。いちころだ。私はこれで買ってしまった。

 余計なことを記してしまったが、内容はどうか。いかがわしい何ものかを期待して聴いたら失望するかもしれない。少なくとも私には、「19世紀末的デカダンの香り」はどこからも感じられない。ジャケット写真のイメージとの関係も不明である。宣伝文句やジャケット写真と音楽の内容が大きく乖離している。けれども、音楽自体が失望するものかといえば、そうではない。実に良質のサウンドである。穏やかで、繊細で、美しい音楽だ。原曲の曲想を十分に生かしながら、優しく温かい音色で演奏されるのが好ましい。

 ぺプロフスキーは、クラリネット奏者だが、この作品ではクラリネット演奏は12曲中4曲のみで、8曲はテナー・サックスによる演奏である。しかし、彼のテナー・サックスも十分すばらしい。タイトル曲の「メモリーズ・オブ・ユー」は1曲目と12曲目(つまり最初と最後)にそれぞれテナー・バージョンとクラリネット・バージョンが収録されているが、そのテイストの違いを楽しむのもなかなかに面白い。

 これから、しばしば再生装置のトレイにのりそうな一枚である。


Somewhere before

2007年03月11日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 136●

Keith Jarrett     Somewhere before

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 若き日のキース・ジャレット、1968年の録音作品『サムフォエア・ビフォー』。私がもっているのは、ずっと以前に買った輸入盤で、ジャケットがオリジナル盤とは全然違うものだ。この作品については、私の持っているCD以外にじっくり聴いたことがないので比較できないのだが、音質について不満をもったことはない。左チャンネルにキースのピアノ、右チャンネルにポール・モチアンのドラムスとセパレートしているところが、意外と新鮮で気に入っている。ぱらぱらとした会場の拍手の音もほほえましい。何より、若き日のキースの溌剌とした天才ぶりが記録されていることが興味深い。繊細でセンシティブな側面、ポップな側面、ちょっとアバンギャルドな側面、そして流れるような自由で美しいメロディラインなど、これ以降に展開されていくキースの諸側面がすでにはっきりと現れているのだ。

 ザ・バーズやボブ・ディランの曲として有名な① My Back Page を聴くと、いつも心が躍り一緒に歌い出してしまう。カラオケ状態である。もちろん最高のカラオケだが……。

 チャーリー・ヘイデンのベースが、あまりに重厚すぎてちょっと浮いている、と感じるのは私だけだろうか。


ミッドナイト・ブルー

2007年01月20日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 116●

Kenny Burrell     Midnight Blue

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 ケニー・バレルの1963年録音の人気盤『ミッドナイト・ブルー』。

 ケニー・バレルはとても好きだ。身体にフィットする感じがしていい。けれどもはっきりいってしまうが、ケニー・バレルというギタリストは、そのブルース・フィーリングをとったな何も残らないギタリストではないだろうか。私はずっと昔からそう思っている。

 深夜に酒でも飲みながら、ひとりで聴く音楽だ。酔えば酔うほど心にしみる音楽である。身体にしみるといってもいい。

 そういう意味では今夜はベスト・コンディションである(体調はよくないのだが・・・・)。もうかなりの酒を飲んでいる。しばらくぶりに、今宵は長く豊穣な夜になりそうだ。


これはいい。だが……

2007年01月14日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚  113●

Karel Boehlee   

Last Tango In Paris

Watercolors_6  何というジャケット写真・・・・。気の弱い私などは、CDショップのレジにもっていくことがためらわれるような写真だ。いい写真だ。何をしているのかあるいはしようとしているのかは不明であるが、そのエッチな雰囲気は好きだ。女性の肌のなめらかな感じが何ともいえなくいい。

 ヨーロピアン・ジャズ・トリオの初代ピアニスト、カレル・ボエリーの新作。2006年録音盤、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』だ(M & I)。ボエリーのリーダー作は初めて聴いたが、これがなかなかいい。Swing Journal 誌が盛んに宣伝をしていたので、かえっていかがわしいと思い、これまで聴いたことがなかったのだ。CDの帯には「静寂な響きと哀愁味溢れる表現」とあるが、基本的にはまったくその通りの作品だと思う。いい演奏だ。録音もいい。

 けれども・・・・、と思ってしまう。語弊のある言い方かもしれないが、録音が良すぎるのだ。楽器にマイクを近づけて録音している音だ。各楽器の音は鮮明で、音も大きい。けれども、一関のベイシーのマスター菅原正二さんの次のような言葉を思い出してしまう。

「何時の頃からか、ジャズの録音を物凄く”オン・マイク”で録るようになった。各楽器間の音がカブらないように、ということらしいが、もともとハーモニーというものは、そのカブり合った音のことをいうのではなかったか!?・・・・・実際のコンサートへ行っても駄目である。レコーディングとまったく同じマイクセッティングのPAの音は、やはりハーモニー不在で、”生”を聴いた気はしない。」

菅原正二ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 僕とジムランの酒とバラの日々』講談社+α文庫)

 この作品を聴いて、音は鮮明だが、生々しくないと感じた。すばらしい演奏だと思うのだが、全体的に音が強すぎるような気がする。「静寂な響きと哀愁味溢れる表現」というには、あまりに音が明瞭すぎると思うのは私だけだろうか。


クリフォードの想い出

2006年12月16日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 99●

Lee Morgan    

The Best Of Lee Morgan

Watercolors0001_3  周知のごとく、リー・モーガンは、1972年、14歳年上の恋人に射殺された。彼は33歳だった。そのことによって彼は、ジャズの物語しばしば登場する夭折の天才の一人に数えられることになった。麻薬や病気や自殺でなく、女に殺されたというところが、彼らしい。実際彼は女にはよくもてたらしいが、女たらしの「尻軽」なイメージが彼らしいのだ。クリフォード・ブラウンの再来といわれた艶やかな音色と抜群のテクニックに裏打ちされた彼の演奏はもちろん素晴らしいものだが、サウンドがどこかチープな感じがすると感じるのは私だけだろうか。むしろ、そのところが、彼の魅力だとも思うのだ。

 さて、リー・モーガンのベスト盤である。私はベスト盤はほとんど買わないか゛、Blue Note のこのアルバムは便利である。聴きたい曲がほとんど入っている。それぞれの入ったアルバムも所有しているのだが、なぜかこのCDを一番よく聴く。

 ① The Sidewinder

 ② Psychedelic

 ③ Ceora  

 ④ Candy

 ⑤ I Remember Clifford

 ⑥ Desert Moonlight

 ⑦ Anti Climax

 ⑧ Lover Man

 ⑨ Cornbread

 どれも興味深く、かっこいい演奏だが、やはり、名曲 I Remember Clifford (クリフォードの想い出)は出色だ。ベニー・ゴルソンが、自動車事故のため25歳という若さで死んでしまった天才トランペッター、クリフォードブラウンを偲んで書いたこの曲は、何度聴いても、美しい・・・・。あまりにも美しく、万感胸にせまるものがある。この時、リー・モーガンがわずか18歳であったなんて、信じられない。やはり天才というべきなのだろう。

 この曲にジョン・ヘンドリックスのつけた歌詞は、次のように歌っている。

彼を決して忘れない。彼は無冠の帝王だった。彼のサウンドのあたたかさをいつも思い浮かべる。

 リー・モーガンのトランペットは、 この歌詞を歌っているようだ。

 


アン・バートンの伴奏者

2006年12月09日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 96●

Louis Van Dijk     Ballads In Blue

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 エロティックな雰囲気のジャケットが良い。乳首が突き出ているところがなかなかいいではないか。

 オランダのピアニスト、ルイス・ヴァン・ダイクの2004年録音盤だ。ヴァン・ダイクは、1960年代にあのアン・バートンの伴奏者として、『ブルー・バートン』『バラード・アンド・バートン』といった名作でその名を知られるようになった。この作品『バラード・イン・ブルー』もアン・バートンの先の作品を暗示するタイトルであり、彼女に捧げられたと考えられないこともない(とライナーノーツの中山智宏氏はいっている)。

 クリスマスが近づいてくると、割と正統派のしっとりしたピアノトリオなどを聴きたくなるのはどうしてだろうか。お祭りの非日常的な高揚感の一方で感性は何かしら保守的になっていく。奇をてらうことなど何もなく、まるで歌を口ずさむかのように、淡々とヴァン・ダイクはピアノを奏でていく。穏健でまっすぐな美意識である。珠玉演奏だ。録音も良い。

 これからの季節、窓の外の雪景色を眺めながら、温かい暖房のきいた部屋で聴きたい一枚である。


パリ北駅着、印象

2006年12月08日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 95●

Kenny Drew     Impressions

Watercolors0001_1 ちょっと、いいんじゃないの、っていうか、かなりいいんじゃないの(若者風にいってみました)。

 ケニー・ドリューの『インプレッションズ』、日本タイトル『パリ北駅着、印象』として発売された1988年録音盤だ。1980年代のケニー・ドリューは、お洒落な水彩画風ジャケット作品を量産していた。タイトルも感傷的なものが多く、女性を中心に結構人気があった。実際、ちょっとジャズをかじって知っているスノビッシュな男の子にとっては、女の子を口説く有効なツールの一つだったかもしれない(僕もそのひとりだ)。当然のことながら、この一連のドリュー作品は、筋金入りの(と自分でおもっている)コアなジャズファンには不評であり、軟弱な作品というイメージがまとわりついてしまった。

 20年近くたった今、聴き返してみると、これが意外と新鮮なサウンドである。ロマンチックだが、感情に流されない理知的な音である。音の隙間を有効に使った叙情的でデリケートな演奏があるかと思えば、しっかりとスウィングするジャージーな曲もある。熱い演奏もある。この時期のドリュー作品の中で、このアルバムが一番好きだ。

 われわれは、見栄や偏見というドクサで物事を見てしまいがちだが、時間というろ過装置は、それらをきれいに洗い流してくれる。


レオン・ラッセルは色褪せない

2006年12月03日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 93●

Leon Russell    Will O' The Wisp

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 古き良きロック……、私にとってそれはレオン・ラッセルと同義であるといってもよい。何か新しいことをやろうとしても、過去にすでにやられてしまっている、それが現代のロックミュージックの困難のひとつであることは想像に難くない。斬新な作品を創造するには、ずば抜けたオリジナリティーか、奇をてらう行為かが必要といったところだろう。けれど、かつて自分の感性やアイデアを素直に表現できる時代が確かにあった。レオン・ラッセルはそんな時代の真の天才というべき人物だ。

 ファンキーで粘っこい南部的なサウンド、うねるようなアクの強いボーカル、そして何より美しい曲を創り出す能力、それがレオン・ラッセルだ。南部の土着的な節回しとビートに身体が共振し、切なく美しいバラードに心が震える。1970年代のロックシーンに「天才」と呼ばれる人物は数多あれど、私にとって第一に挙げるべき人である。本当は、そんなことはずっと前からわかっていたのだが、つい最近たまたま聴きかえす機会があり、その確信をさらに強固なものにしたしだいである。

 1975年作品のアルバム『Will O' The Wisp』……。もちろんお気に入りの一枚である。レオン・ラッセルの人気アルバムといえば、一般には『レオン・ラッセル』『カニー』、玄人筋には『レオン・ラッセル&シェルター・ピープル』といったところだろうが、この作品もどうして負けてはいない。収録されている曲の素晴らしさからいったらこのアルバムが最高かもしれない。

 A-⑤ My Father's Shoes いまだかつてこんな切ないメロディーがあっただろうか。彼の作品の中でも最高のバラードのひとつだ。アルバム最後を飾るB-⑤ Lady Blue も素敵だ。ゆったりとした速度で歌われる甘美な旋律にうっとりだ。効果音をうまく使ったB-① Back To The Island も印象に残る美旋律だ。そして何より、B-③ Bluebird 、傷心の男心を歌った曲だが、歌詞に反するような明るく軽快なメロディーと溌剌としたビートに何度励まされたことだろう。この曲を聴けば、どんな時でも元気を取り戻せる、私にとってそんな《 青い鳥 》とでもいうべき曲である。

 古き良きロックはいつだって感動的だ。それは人間の根っこの部分を揺さぶるからであり、それを奇をてらうことなく素直に表現できているからであろう。その意味で、古き良きロックはいつも新鮮だ。

 レオン・ラッセルは、色褪せない。


悲しき若者たちのバラード

2006年11月19日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 87●

Keith Jarrett     Tribute

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 今日の2枚目。またもキース・ジャレットだ。1989年のケルンでの2枚組ライブ盤で、キースが10人のジャズ・ジャイアンツに曲を捧げるという趣向だ。

 80年代に入ってからのキースは、ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットとスタンダーズ・トリオを結成し、スタンダード曲の斬新な解釈による演奏を繰り広げるようになった。このアルバムもそのひとつ。どの曲も緊密なインタープレイによって密度の濃い演奏である。しかし、私がこのアルバムを極私的名盤に数える理由はただ1つ、Disk-2-④ Ballad of The Sad Young Men の存在によってである。すばらしい。何といえばよいのだろう。かつて、こんな素敵な曲がこんな美しいタッチで奏でられたことがあっただろうか。壊れ易いガラス細工を優しく扱うかのように、キースは繊細なタッチで注意深く弾きはじめる。音と音の間の絶妙な空白。途中からキースに寄り添うように入ってくるゲイリーの温かい音色のベース。ジャックはともに歌うかのように静かなブラッシュ・ワークを展開しつつ、時折絶妙のシンバル・ワークでアクセントをつける。次第に3人の演奏はインタープレイとなっていっていくが、決して美しさを損なうことはない。そして、最後のテーマでキースは、再びリリカルなタッチでピアノを奏でる。

 私の知っているバラードプレイの中で、どんなことがあろうと間違いなく、10本の指に数えられる演奏だ。たまたま手元にある『ジャズ・バラード・ブック』(別冊Swing journal)に、「このかすかな悲哀にぬれたメロディーの美しさこそ真のバラードというものだ。ピーコックのベース・ソロも素晴らしいの一語。キースのバラードのうちで最高のプレイだと思う。」とあった。その通り。付け加えるべき言葉はない。

 熱い夏の午後だった。古いアパートの一室で、私は買ってきたばかりの『トリビュート』の封を切り、再生装置にのせた。Ballad of The Sad Young Men がはじまった時、あけていた窓から風が入ってきた。本当に気持ちの良い、涼しい風だった。いまでも、この曲を聴くと、その風の涼しさを想いだす。特にドラマチックな背景があるわけでもないのに、その風の涼しさだけを想いだすのは一体どうしてなのだろう。


ケルン・コンサート

2006年11月19日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 86●

Keith Jarrett

The Koln Concert

5550002_1  「ケルン・コンサート」が好きだなどというと、硬派のジャズファンとはみなされない傾向があるのは困ったものだが、そんなことはどうでもよく、私は大甘メロディー満載のこの作品が大好きである。とはいっても、やはり大甘メロディーなので毎日聴き続けると飽きるという欠点をもっている。実際、このアルバムを聴いたのは数年ぶりである。しかし、数年ぶりに通して聴いて、この作品が傑作であり、真の名盤であることの確信を強くした。

 1975年1月24日のケルンでのライブ録音盤である。1960年代後半にチャールズ・ロイドのグループで衝撃的なデビューを果たし、その後マイルス・デイヴィスのグループで腕を磨き、マイルスをして「俺のバンドではあいつのピアノが生涯最高だ」といわしめた天才が新しい音楽の方向性のひとつとして考えたのは、アコースティク・ピアノによるソロだった。ハービー・ハンコックチック・コリアがエレクトリック音楽の道を模索したのに対して好対照だ。内藤遊人はじめてのジャズ』(講談社現代新書)には、マイルス・スクールの生徒会長ハービー・ハンコックに対して、キース・ジャレットをマイルス・スクールの「首席」とする文章があるが、なかなかどうして言いえている。

 キース・ジャレットがピアノに向う時、もちろんある程度の構想やイメージを持っているのだろうが、これほどの長い時間、美しく刺激的なメロディーを滞ることなくスムーズに、しかも自己満足に陥ることなく、聴衆に飽きさせずに聴かせるのは、当然のことながら並大抵のことではない。事実、キース以後同じような試みをしたピアニストは何人かおり、確かに作品として素晴らしいものもいくつかはあるが、彼ほど聴衆をひきつける演奏をしたものはほとんどいないのではなかろうか。

 出だしから魅惑的なメロディーではじまり、5分03秒で悩殺フレーズが登場するPartⅠはもちろん大好きだが、今回聴き返してみて、ピアノ・ソロにそろそろ飽きるかなというところで登場するPartⅡ-c ののりのりメロディーは素晴らしいと思った。それにしても、LPにあったPartⅢがCDでは時間の関係でカットされているのは残念だ。新しいCDでは収録されていないのだろうか。


ケイコ・リーと綾戸千絵

2006年10月28日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 75●

Keiko Lee

A Letter From Rome

5550001_4  ケイコ・リーの『ローマからの手紙』。2000年作品である。このピアノ引き語りアルバムが、当時人気が出始めた綾戸千絵に対抗して録音されたものであることは明らかだろう。

 今では人気沸騰の綾戸千絵だが、思い起こせば、私は割りに早い段階から綾戸を知っていた。当時いきつけのCD屋の店員さんから「面白い作品が出ましたよ」と綾戸を紹介され、聴いてみたのが最初だった。いかにも「しっとり」とした雰囲気でしか歌うことのできない多くの日本のジャズシンガーの中にあって、ゴスペルの要素を盛り込み、時にシャウトしながら力強く歌う、ブルースのフィーリング溢れる綾戸のボーカルは異彩を放っているように思えた。以来、綾戸に注目するようになり、発売されたCDを続けざまに買った程だ。For All We Know (1998/06/21)、Your Songs (1998/11/21)、Life (1999/05/21)、Friends (1999/10/21)、Love (2000/04/21) の5枚がそれだ。特に、Lifeは素晴らしい作品だと思う。日本のジャズ・シンガーの作品としては質の高いものだと今でも思っている。たとえ、Swing Journal 誌が意図的に評価しなくてもである。

 綾戸千絵がきっかけで、それまであまり聴いたことのなかった他の日本人シンガーの作品も聴いてみようと思い、購入したのがこの『ローマからの手紙』である。ケイコ・リーは若手No.1の実力派として有名だったのだ。ところが、ピアノの弾き語りというスタイルといい、収録曲といい、このアルバムが一連の綾戸千絵のアルバムを(特にLifeを)意識したものであることは明らかだった。綾戸のアルバムに収録されている曲が多く取り上げられ、綾戸との違いがはっきりわかるように制作されている。

 結論からいえば、私には明らかにケイコ・リーの勝ちのように思えた。歌の解釈が全然違うのだ。綾戸のボーカルは、ここでこう歌うのだろうなと予想したとおりに歌われる。強く激しく歌うのだろうと思うところでそのように歌い、シャウトするだろうなと思ったところでシャウトするのだ。その意味で期待を裏切らない歌唱だ。ところが、ケイコ・リーの歌唱はこちらが予想もしなかったように曲を料理して、このような解釈もあるのかとうならせる。しかも、それが一層曲を際立たせ、良さを引き出すような料理の仕方なのだ。綾戸のように唸り、シャウトするようなソウルは感じないが、太く低い声質で十分な声量があり、歌う技術がある。このアルバムを聴いて以来、私の中で綾戸が急速に翳っていった。綾戸のソウルは認めつつも、その歌唱を凡庸なものだと考えるようになってしまったのだ。

 結果的に私は、それ以来綾戸をほとんど聴かなくなってしまった。ケイコ・リーの戦略にまんまとのせられたわけである。先日、私の住む街に綾戸がやってきたが、私はコンサートに行かなかった。今でも時々聴くのはLife のみである(YOZORA NO NUKOU は好きだ)。

 ケイコ・リー『ローマからの手紙』の中には、日本のジャズ・ボーカルの女王の座をめぐる女の戦いがあったのだ。


クリムゾンキングの宮殿

2006年08月10日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 28●

King Crimson   

In The Court Of Crimson King

Scan10007_6  私の書斎のCD棚に、プログレッシブ・ロックの名盤、King CrimsonIn The Court Of Crimson King (クリムゾンキングの宮殿)が飾ってあったのだが、妻や子どもが気持ち悪いので飾るのをやめて欲しいと訴えてきた。なるほど、そういうものかと改めて納得した。好むと好まざるとにかかわらず、衝撃的なジャケットなのであろう。衝撃的なのはジャケットだけではない。内容はさらに衝撃的だ。しかも、この作品がリリースされたのは、1969年のことなのだ。私がこの作品をはじめて聴いたのは、それから10年も後のことだが、同時代の人たちの驚きは相当のものだったにちがいない。そのことを裏づけるかのように、1970年1月にはビートルズの『アビーロード』を抜いて、チャートのトップに立つのである。

 このアルバムについては、渋谷陽一の「否定性の彼方へ向うもの」(渋谷陽一ロックミュージック進化論』所収)という評論文が正当な評価を行っているように思う。すなわち、それまでのロックが古い価値の破壊、既存の論理と権威の否定を叫んだのに対して、その否定性の根拠すらも否定しようとした批評的ロックだというのだ。渋谷陽一は次のようにいう

【プログレッシブ・ロックあるいはキング・クリムゾンは、ハードロックに対し、破壊の後には何もないとはっきりいっている。破壊の根拠さえも否定しているのだ。また、ロックそのものに対しても「偉大なる詐欺師」といった表現で批判している。まさに手あたりしだいの批判である。そして、そうした批判の根拠となったのが、「混乱こそが我が墓名碑」という認識だ。何もわかっていないのに、軽々とわかった振りをして、いいかげんな事をやるなというわけだ。】

 このように考えた時、このアルバムの一曲目「21世紀の精神異常者」のタイトルもうまく理解できるのだ。しかし、批評的であるとは懐疑的であるということなのであり、すべてのものにひたすら批判を繰り返すことになる。何かの展望があるわけではないのだ。展望がないという意味では、これまでのロックと同じでり、何か新しい道を示すことができたわけではないのだ。結局、キング・クリムゾンは新しい道を見出すことができずに、1974年に解散し、ロバート・フィリップは牧師養成機関に入って神秘主義に接近していった。彼が接近したのはグルジェフという神秘主義らしい。

 とはいっても、そのサウンドは、決して小難しいものではなく、むしろ心が落ち着く音だ。当時としては斬新であったろうが、私はこの作品を聴くたび、穏やかな気持ちになる。癒されるといってもいい。例えば、④ Moonchild などは本当に穏やかな心になり、自分自身と向き合うことができる曲だ。

 私がプログレに出会ったのは、高校生のガキの頃だが、プログレの本当の面白さや良さを理解できたのは最近のことだ、と今は思う。


キース・ジャレットのザ・メロディー・アット・ナイト・ウィズ・ユー

2006年07月24日 | 今日の一枚(K-L)

● 今日の一枚 14 ●

Keith Jarrett   

The Melody At Night With You

Scan10002_4  今、夜中の2:30だ。考えるべきことがあってこんな時間になってしまった。となりの寝室では子どもたちが寝息をたてている。めずらしく、私を慕ってやってきたのだ。私はひとり書斎でアンプのボリュームをしぼってこのCDを聴いている。

 豊かな時間だ。ほんとうに時間がゆっくり流れているのがわかる。若い頃の、わたしの気性と生活からすると夢のようだとふと考える。Keith Jarrett のソロアルバム The Melody At Night With You (1999年作品)は、こうやって聴く作品だ。美しいメロディー、繊細なタッチ、透徹したロマンチシズム。じっと耳を傾けていると、あまりの美しさに涙がこぼれ落ちそうになる。繊細な指先で奏でられる音楽は、いつものキースではない。あの緊張感にあふれた、鬼気迫るような、そして時として神経質なキースの演奏ではない。もっとくつろいだ、音楽に対するまっすぐな愛情だけで奏でられた愛すべき音たちだ。

 少女趣味な文章を書いてしまった。恥ずかしい。① I Love You Porgy 。ビル・エヴァンスにも素晴らしい演奏があった。けれど、これもいい。双璧だ。他の曲もいい。すべてがいい。

 家族が寝静まった後、ゆっくりと流れる豊かな時間を過ごすための一枚である。よく見ると、ジャケットもなかなかいいじゃないか。

 豊かな時間……。豊かな音楽……。


スタン・ゲッツ=ケニー・バロンのピープル・タイム

2006年07月22日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 11●

Stan Getz = Kenny Barron   

People Time

Scan10008_4  晩年のスタン・ゲッツをどう評価するかは、意見の分かれるところであろう。一定の評価はしつつも、ゲッツの本領は若い頃の流れるようなアドリブ演奏にあるとするのが一般的な批評家の傾向であろうか。若いゲッツのプレイにはスムーズで輝くような天才的なフレージングがあった。癌と戦いながら音楽を続けた晩年のゲッツの演奏は、もちろんすばらしいものであるが、音楽以前に、人生の物語がまとわりつき、音楽が「みえにくい」ということがあるのだろう。たとえば、村上春樹の近著意味がなければスウィングはない』(文芸春秋)のつぎのようなことば、

 もっとも僕としては、晩年のスタン・ゲッツの演奏を聴くのは、正直なところいささかつらい。そこに滲み出てくる諦観的な響きの中に、ある種の息苦しさを感じないわけにはいかないからだ。音楽は美しく、深い。とくに最後のケニー・バロン(ピアノ)とのデュオの緊張感には、一種鬼気迫るものがある。音楽としては素晴らしい達成であると思う。彼はしっかりと地面に足をつけて、その音楽を作り出している。しかし、なんといえばいいのだろう、その音楽はあまりに多くのことを語ろうとしているように、僕には感じられる。その文体はあまりにフルであり、そのヴォイスはあまりに緊密である。あるいはいつか、そのようなゲッツの晩年の音楽を、自分の音楽として愛好するようになるかもしれない。でも今のところはまだだめだ。それは僕の耳にはあまりに生々しく響く。そこにはもう、かつてのあのイノセントな桃源郷の風景はない。そこではスタン・ゲッツという一人の人間の精神が、自らの創り出す音楽世界に限りなく肉薄している。

 まったく、その通りだ。しかし、だからこそ、晩年のスタン・ゲッツは、私をひきつけて放さないのだ。その演奏はまさに、天からの啓示のように、わたしの前に現れた。それは、カーラジオだったかも知れないし、友人の部屋のレコードだったかも知れない。しかしとにかく、その全身から搾り出すような緊密で深い響きは、私の身体をしめつけて離さなかった。何だこの音は……、誰なんだこの演奏は……、といった感じだった。金縛りとは、こういう現象をいうのだろうか。

 すべての演奏が素晴らしい。だが、なんといっても、DISK2の① first song が傑出している。その全身全霊をこめて創りだされたような音楽の響きに圧倒される。文字通り、命を削って創りだされた音楽のように感じられる。まさに、先の村上春樹氏の言のとおり、「あまりに生々しい」演奏である。実際、私自身この素晴らしい演奏を気軽に毎日聞く気にはなれない。けれども、ときどき身体が求めるのだ。砂漠の民がオアシスの潤いを求めるように、乾いた心が晩年のスタン・ゲッツの音楽を欲するのだ。

 晩年のスタン・ゲッツ語るとき、ケニー・バロンというピアニストの存在は欠かせない。癌に犯されながらもステージに立ち続けたスタン・ゲッツを支えたのは、まさしくこのピアニストであり、彼の美しいピアノがあったからこそ、あの濃密な演奏は生まれたといってもいい。このアルバムは、そのケニー・バロンとスタン・ゲッツのデュオアルバムである。二人の緊密なかけあいが手に取るように感じられ、また身を削りながら「魂の演奏」を展開するゲッツの傍らに寄り添い、それをサポートするケニーの姿が目に浮かぶような作品である。このすばらしい作品について、ケニー・バロンは次のように語っている。

 このレコーディングに収められた音楽が格別のものに思えるのは、これがスタン・ゲッツの演奏を刻んだ最後のレコーディングであるという以外に、その音楽が・・・・・ガンのもたらす苦痛にもかかわらず、あるいはそれゆえになお一層・・・・・リアルで誠実で、ピュアでビューティフルな音になっているからである。

 スタン・ゲッツが死んだのは、1991年6月6日だった。