WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

抗議声明

2007年04月22日 | つまらない雑談

  我々Watercolorsは、安倍極右政権の諸政策と長崎市長射殺事件にみられるようなテロリズムの風潮に、強く抗議するものである。

 テロリズムの背後で安倍極右政権が意図を引いているという意味ではない。まあ、祖父の代から国際勝共連合=統一教会と関係の深い安倍であれば、その可能性が全くないわけではないが……。重要なのは、安倍極右政権が主導する社会の極右化とテロリズムの風潮が構造的に補完しあっているということである。

 考えてみれば、昭和前期もそうであった。さまざまな超国家主義団体や陸海軍将校によるテロは、正式に政府や軍部から命じられたものではなかったかもしれないが(もちろん非公式的なあるいは私的な意味で深い関係はあったわけだが)、それらは構造的に補完しあって、いわゆるファシズムを形成していったわけだ。

 アメリカとともにテロとの戦争を宣言し、反テロリズムのポーズをとる小泉・安倍政権の超国家主義的「改革」が構造的にそれと深い因果関係にあることは皮肉というべきだろうか。あるいは社会学的な必然というべきだろうか。

 その意味で、加藤紘一邸放火事件や今回の長崎市長射殺事件の際、小泉・安倍両氏が消極的な歯切れの悪いコメントしかできなかったことは、ややうがった見方をすれば、そのような文脈で理解できるのである。

 しかしそれにしても、真相は不明であるが、長崎市長射殺事件を犯人の個人的恨みによるものと、当初から十分な根拠も示さず盛んに宣伝したわがマスコミに疑念をいだいたのは私だけだろうか。


穐吉敏子は元気だった!

2007年02月27日 | つまらない雑談

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 昨日、穐吉敏子のソロコンサートに行ってきました。toshikoを見るのは本当にしばらくぶりでした。toshikoのコンサートは、高校生のとき以来十数回目になりますが、正直言って今回に関しては77歳という年齢を考え、あまり期待していませんでした。それどころか、もしかしたらこれがtoshikoをみれる最後になるかもしれないなどと考えたりしていたのです。そういう意味では「歴史」を聴きに行こうと思っていたといえるかもしれません。

 けれども予想に反して、toshikoはとても元気でした。コンサートはたいへんすばらしいもので、敏子は連日の演奏で少し疲れているようではありましたが、プレイは好調で、アドリブはよどむことなくスムーズでした。迫力のある左手の印象的なベースランニングと、「女パウエル」といわれた往年の輝きを感じさせる右手のスピード感溢れるプレイは健在でした。あの演奏を聴かされて、77歳という年齢はちょっと信じられません。一方、バラードプレイは、ますます表現に深みが加わり、情感溢れるものになっています。現在でも、一日数時間の練習を欠かさないというtoshikoにして可能な演奏なのでしょう。

 もう一度、今度はトリオでtoshikoを聴きたい、そう思いました。

 しかしそれにしても、主催者の海蔵寺の和尚さんやジョニー照井氏がステージで長々しゃべるのはやめてほしかったですね。アンコール前の花束贈呈で和尚さんが再び登場し、しかも自分の孫(子ども?)を抱いて私的なことをしゃべった時はちょっと辟易でした。まあ、チケットも安かったのであまり文句は言えませんが……。ただ、しゃべるのであれば、チャリティーの目的とか内容について説明してほしかったと思います。出たがりも時と場合を選ばなければ、主役をぶち壊してしまうこともあるのではないでしょうか。このごろ時々思うのですが、日本人はいつから節度を失ったのでしょうかね……。言い過ぎでしょうか。

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パンフレット↓↓↓↓↓↓

「toshiko.PDF」をダウンロード


東京大学のアルバート・アイラー

2007年02月14日 | つまらない雑談

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 遅ればせながら、話題の書を読んでいる。毎日眠る前に少しずつ読んでいるのだが、なかなか楽しい。菊地成孔・大谷能生東京大学のアルバート・アイラー』(メディア総合研究所)だ。2004年4月から2005年1月まで東京大学駒場キャンパスで行われたジャス史に関する講義の記録で、前期講義部分の[歴史編]と後期講義部分の[キーワード編]からなっている。

  基本的には、ジャズ史の素描なのだが、楽理や文化史的背景さらには時代の精神(エピステーメ)をも論じる射程をもっている。音楽とともに時代が変わり、時代とともに音楽が変化していったことをうまく理解することができ、ミュージシャンたちが何に対して、どのように戦いを挑んでいったのかをつかむことができる。一方、取り上げられた多くのレコード・CDの分析的なレビューにもなっており、なかなかに興味深い。

 革新的なビ・バップの登場によって、それ以前の多様なジャズがプレ・モダンにくくられて押し込められていくという話や、1950年代においては危険な黒人音楽だったビバップをアメリカの白人メインストリームに受け入れられ易いように洗練したのが「クール」だったという説明など、なるほどと首肯できる見解も多い。また、体制化したバップ(ハード・バップ)の呪縛から逃れるべくフリーやモードやコルトレーンの音楽がどんな構想を持ち、どのように時代を突き破ろうとしたのかなど、これまで頭では何となくわかったつもりでいたことが、より具体的で分析的に理解できたような気がした。

 2004年の駒場でこの講義をきいた人たちはラッキーだったと思う。私も機会があれば拝聴したかったと思うほどだ。この書を読んでいて、しばらくぶりにマイルス・デイヴィス『カインド・オブ・ブルー』やオーネット・コールマン『ジャズ来るべきもの』を聴きたくなった。

 ところで、これに関して面白いブログがあったので紹介しておく。

You Tube で読むジャズ史「東京大学のアルバート・アイラー」①

You Tube で読むジャズ史「東京大学のアルバート・アイラー」②

 労作である。


地域に貢献した老医師のこと

2007年02月01日 | つまらない雑談

 近所の老先生がなくなった。町のはずれにある小さな医院の先生だった。かかりつけの医者だった。難病にかかっているらしいと風評では聞いていたが、残念でならない。

 現代にあっては風変わりな医者で、簡単に薬を使わない先生だった。若い頃、風邪を引いた時、多くの仕事を抱えて忙しく、「先生、注射を一本お願いします」と頼んだら、「ふざけるな、風邪を馬鹿にしてはいけない。3日間仕事を休んで家で寝てろ」と叱られた。注射を使う場合でも、黄色い色をした栄養剤がほとんどだった。いつも同じ栄養剤注射ばかり使うので、看護婦は指示される前にその黄色い注射を準備しているような始末だった。診断も「風邪だ。寝てろ」がほとんどだった。だから近所の人たちの中にも、ヤブ先生などと陰口をたたき、「あの先生のところに行ってもどうせ風邪といわれるから」とバカにした発言をする者もいた。

 その医院はいつもすいていた。ヤブ先生などと陰口をたたく事情を知らない者らは町の中心部の病院までわざわざいっていたのだった。患者は老人が主で、受付から診察・処置・会計まで多くの場合15~20分もあれば終わってしまうような始末だった。だから、調子が悪くて診てもらいにいけば、すぐに診察してくれた。ガラガラなのになぜか看護婦の数が多かった。

 けれども、その先生は本当は名医だったのだ。ある時、身体の調子が悪く、いつものように風邪だといわれることを予想しつつも、一応診てもらおうとその小さな医院に行ったところ、突然診察をするその先生の目つきが変わり、「すぐ○○病院へ行け」といわれた。先生はその場で同じ町の大病院に電話をし、命令口調で大病院の医師に細かい支持をした。大病院に行ったところ優先的に検査をうけ、大きな病気を初期の段階で発見することができた。

 その老医師は、若い頃、都会の大病院の内科部長を務めた程の男で、院長候補でもあったらしいが、私の近所で小さな医院を営んでいた父親がなくなり、家業をつぐために、地位や名誉を捨てて戻ってきたのだ。以来、数十年間、その先生は地域に根をおろし、その小さな医院で医療活動を続けてきた。患者を薬づけにしない医療方針と儲からなくても町のはずれでがんばる先生の人柄に、地域の老人たちの信頼はあつかった。一方にヤブと陰口をたたく者らがいたが、もう一方には信頼をよせる者たちがいた。少なくともいえることは、その先生のおかげて多くの人たちが、助かり、安心して暮らせたということだ。

 仕事というものは、誰かのためにやるものだということを身をもって示した男だった。

 心から冥福を祈りたい気持ちだ。


ジョン・レノン死亡記事とコメント

2006年12月09日 | つまらない雑談

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 ジョン・レノンがマーク・デビッド・チャップマンにピストルで撃たれて死んだのは、1980年の12月8日(日本時間では9日)だった。狂信的ともいえるファンだった私は、今思えば過剰ともいえるショックを受け、九段会館で行われた追悼集会でもスピーチをするという入れ込みようだった。あれから長い年月が過ぎ去り、私はジョン・レノンの年齢をはるかに超えた。時間というろ過装置が過剰なものを洗い流し、いつしか私はジョン・レノンを卒業したとはっきり認識し、それを口にだしていえるようになった。ひとりの素晴らしいミュージャンとして彼の音楽を楽しめるようになったのだ。今、私の書斎には、Watching The Wheels が流れている。いい曲だ。

 ところで、ジョン・レノンが死んだ数日後の新聞には、幾人かのミュージシャンたちのコメントが掲載され、今読むとなかなか感慨深いものがあるので紹介する。

ポール・マッカートニー★ ジョンは偉大な男だった。彼の死は残酷であまりに悲しい衝撃だ。僕はあいつを本当に愛していたよ。彼は最高だった。彼の死は全世界の人々に惜しまれるだろう。芸術、音楽、そして世界平和への貢献によって、彼はいつまでも我々の記憶の中に刻まれるに違いない。彼を失うことがどれほどの苦痛であるかはとても言い表せない。

ジョージ・ハリスン★僕はジョンを計り知れないほど愛し、尊敬している。余りのショックでもう正気を保っていられないくらいだ。本当にとんでもなく理不尽な損失だ。

ミック・ジャガー★ジョンと18年来の知り合いだし、ずっと好きだった。でも今、こんなひどいことが起きた後に、彼の家族、何百万という彼のファンや友だちのためにもありきたりのことはいいたくない。

ピート・タウンゼント★気が動転していてとても話せない。僕が今いったいどんな気持ちかを言い表せる言葉はない。

エルトン・ジョン★ショックが大きすぎて何も話したくない。

クリフ・リチャード★本当に偉大なロックンローラーと呼べる人間はほんの少ししかいない。ジョン・レノンこそそのひとりだった。僕たちは今後長い間彼の死を惜しみ続けなければならないだろう。

ジェフ・リン★レノンは僕の人生に大きな影響を与えたし、おそらく他の誰もが影響を受けただろう。彼は僕のアイドルだった。いつだって会いたいと思っていたけれど、一度見かけたことが会っただけでついに会ったことはなかった。他に何がいえるって言うんだ。ひどすぎる。あまりにひどすぎるよ。

ジョン・ライドン★世界は何も変わらんさ。

 やはり、ジョン・ライドンのコメントが異彩を放っている。そして、彼が一番正しかった。時に、ニヒリスティックな精神は我々の頭を熱病から冷やしてくれる。

[過去の記事]ジョン・レノンのイマジン(シングルレコード)


いじめた生徒は出席停止に??

2006年11月26日 | つまらない雑談

 ニュースによれば、「教育再生会議」がいじめた生徒は出席停止にという提言をしたということだ。まったく何もわかっていない人たちだ。大衆の支持を得るためのポピュリズムと揶揄されても仕方がない。実際そうなのだろうが……。

 いじめ問題に心を痛めている傍観的人々にとっては、加害者を厳しく処分することは気持ちのよいことだろう。もちろん、いじめがはっきりしているのであれば、それでよいのだが、かつてこのブログで論じたように、多くの場合、いじめはいじめとして認定・立件するまでが困難だというところに現実的な問題がある。平気で嘘をつく加害生徒や皮相な人権意識をたてに屁理屈をいう保護者、それらとのトラブルを避けたい校長や教委など多くの障害が考えられるわけだ。

 問題生徒を「出席停止」にすること自体はかつてから可能なことであったので、この提言は別段新しいことをいっているわけではないが、それを再び強調してマスコミを使って流すことによって、いじめがさらに地下にもぐり、立件が困難になることも考えられる。

 政治権力が為すべきは、いじめを立件するマニュアル、すなわちいじめの可能性が考えられる場合に嘘をつく生徒や人権をたてにとる保護者に対して、先生方がどうすればよいのか、あるいはどういう権限が与えられるのかをはっきりと示すことであろう。

過去の記事

いじめ問題に一言

いじめは、「なれ合い型」学級で発生し易い


いじめは、「なれ合い型」学級で発生しやすい

2006年11月24日 | つまらない雑談

毎日新聞』によると、河村茂雄・都留文科大教授(心理学)の調査で、教師が教え子に友だち感覚で接する「なれ合い型」の学級でいじめが生まれやすいことが分かったとのことだ。《管理型》と《なれ合い型》に分けた場合、集団的秩序のない《なれ合い型》の方が圧倒的にいじめの温床になりやすいというのだ。現実の学校では、単純に《管理型》と《なれ合い型》とに分けられないのだろうが、《なれ合い型》先生が急増しているのも事実のようだ。特に、「運動や勉強が得意だったり、けんかの強い子供が学級をまとめ、教師が頼りにするケースも多いが、その子供や取り巻きが特定の子供をいじめの標的にし、学級全体が同調した場合、なれ合ってきた教師が止めるのは困難で、助長や加担の恐れもある」という指摘は重要である。

《なれ合い型》先生が急増している背景には、「生徒に好かれたい」「生徒と同じ目線で接してあげたい」などというピュアでイノセントだが短絡的な思考も多いと思うが、「人権」をたてに学校を批判する保護者やマスコミ、それらとのトラブルを避けたがる校長・教頭や教委の前で、先生方は尻込みし思い切った指導、厳しい指導ができていないという面も多いのではないか。

とかく極端に走りやすい日本の社会では、自由主義と管理主義が対立的に捉えられることが多く、とくにそれが政治や市民運動のテーマになった場合には、二者択一的な議論となる。しかし、現実の学校教育の現場では、自由主義教育など有り得ないし、必要でもないのであり、考えるべきは「自由主義的な管理教育」か「閉塞的な管理教育」かという選択なのである。教育基本法改悪問題で、管理か自由かという短絡的議論が浮上してきそうであるが、市民運動やリベラル派と目されるいくつかのブログをみてもこの辺のところが全くわかっていないものが多い。机の上だけの自由をいくら論じても何の解決にもならないし、むしろ「現実」と格闘している先生方がリベラル派から離れていくだけではないだろうか。事実、教育基本法が改悪されれば、生徒指導がしやすくなると考えている先生方も多いようである。確かに、教育基本法が改悪され、「公のため」に「人権」や「自由」に一定の制限が加えられれば、生徒指導は現在よりはやりやすくなる可能性はあるだろう。ただし、その代償は大きいが……。1980年代から1990年代にかけて、「プロ教師の会」と名のる人たちによって、「正当な管理教育」の必要性が唱えられたが、さきのリベラル派と目される人たちのブログにはそういった重要な提言がふまえられておらず、はっきりいえば敗戦直後と同じ議論をしている。残念である。

安倍極右政権がねらう教育基本法とそれに続く憲法の改悪は、いうまでもなく現代史における大切な局面である。だからこそ、特にリベラル派の人たちには丁寧で「現実」を踏まえた議論を展開してほしい。机上で空転する「自由主義」の言葉だけでは、例えば石原慎太郎大先生の杜撰な教育論には勝てないであろう。例え歪んではいても「現実」を踏まえている分だけ、石原の方が説得力をもつからである。

先の河村教授らの「なれ合い型では、当初は教師と子供が良好な関係を保つかに見えるが、最低限のルールを示さないため学級はまとまりを欠き、子供同士の関係は不安定でけんかやいじめが生じやすい。」という指摘を、リベラル派はもう一度噛み締めるべきであろう。

→以前の関連記事「いじめ問題に一言


愛国心について一言

2006年11月17日 | つまらない雑談

 教育基本法改正論議で、愛国心が注目を浴びつつある。ところで、愛国心論議のとき、よく国家権力が心の中に入り込めるのかということがテーマになる。それももちろん重要だが、私がいつも素朴に感じるのは、世間でいうところの愛国心というものが実体がない空虚なことばなのではないかということだ。それは、① そのばあいの国とはどういうものかということが不明であることと、② どのような条件の中で国を愛するべきなのかがいまひとつ不明であるという2点においてである。

 愛国心の国とは、「天皇が治める神の国」なのか「自由・平等・博愛の国」なのか。青臭いことをいうようだが、やはりその点が漠然としている。対象が漠然としているかぎり、国を愛する心も漠然とせざるを得ないだろう。「周辺事態法」の「周辺」概念と同じでどのようにでも解釈できることばである。

①と関連するが、神様でもない限り、ある対象を無条件に愛することはできない。愛する対象である《国》がどのようなものであるかによって、愛し方や愛せるかどうかは変ってくるだろう。私に即していえば、安倍極右政権の支配する日本など愛したくはないし、愛するにも値しないと思う。あるいは、その安倍首相が70%もの支持率があるのであれば(私はこの数字にはかなりの疑問があると考えているが)、なおさらそのような国は愛するに値しない。

  政府関係者は「国を愛する心」を牧歌的ニュアンスで説明するが、明確でない対象をいかなる場合も愛することを教え込もうというのであれば、改正教育基本法は、近頃はやりの洗脳/マインド・コントロールをめざした法であり、その意味で明確なファッショ法典といわねばならない。

 その意味では、教育基本法改正によって「愛国心」を奪われる人たちも大勢いるのだろう。そのような人たちにとっては、教育基本法の改正される日は「国恥記念日」というべきであろう。


いじめ問題に一言

2006年11月13日 | つまらない雑談

 いじめ自殺が社会問題化している。いじめ問題がマスコミで取り上げられる場合、先生方や学校の対応のまずさが指摘される。糾弾されているといってもよい。もしそのことが原因でいじめが拡大し、自殺に追い込まれたのであれば、まったく不幸なことだ。弁解の余地もあるまい。

 ただ、私は少し異なる見解をもっている。恐らく、多くの先生方はそこで「本当に」「明らかな」いじめが行われていれば、それを放置してはおくまい。にもかかわらず、適切な対応がなされないのは、そこにいじめ問題への対応の難しさが存在するからである。

① まず、何がいじめかという問題である。もちろん被害者側に苦痛が伴えば、それはいじめなのであろうが、実際の教育現場では加害者側がシラをきるという問題があり、いじめの立件には困難が伴うだろう。現代の子供たちは、自分のマイナスになる加害行為を素直に認めるほどには素直ではないからだ。むしろ、皮相な権利意識をもった加害生徒らは、教師に疑われていることに対して人権を盾に抵抗することが考えられる。過度に疑った場合、保護者がやはり人権侵害を盾に騒ぎ立てることもあるだろう。恐らくはいじめがあったことは間違いないが、本人がシラをきっているという状況で、何らかの処分や指導ができるのかという問題がある。疑わしいというだけでは停学や出校停止にできないという学校のジレンマがここにあるのだ。この場合、もちろん加害者の保護者が人権を盾に騒ぎ立てることは容易に想像できる。

② 何らかのいじめ行為が発覚しても、加害者には被害者の痛みがわからず、いじめの認識が薄いことが問題だ。この場合、加害者側の保護者についても同様である。なぜこんなことぐらいでという意識は、加害者の保護者について回るだろう。この場合も何がいじめかということが問題になる。特に、権利意識だけが強く、自分のこどもを甘やかしているような家庭については、なぜうちの子だけ叱られるのか。先生方はうち子を差別しているのではないかという意識を持つだろう。

③ 最近のいじめの形態が、メールやweb掲示板を使った匿名性の強いものが多いことも問題だ。メールやweb掲示板によって被害者本人が知らぬ間に包囲網が築かれ、仲間はずれや諸々の攻撃がはじまるのだ。匿名の発言のため、加害者側の言葉は残虐性を極め、言いたい放題の場合も多い。被害者本人がそれに気づいたときのショックは並大抵ではなかろう。また、このような場合、学校側が状況を把握するのが難しいという問題もある。

④ 問題が発覚した場合、加害生徒をどうするかということにも大きな問題が付きまとう。停学や出校停止にするのがよいだろうが、この場合も、加害者本人や保護者が皮相な人権意識を盾に騒ぎ立てることは想像に難くない。校長もいじめ問題については教委に報告したがらない傾向があるだろう。昇進にも響くことも考えられるし、加害者側・被害者側双方の保護者とのトラブルは避けたいからだ。

 結局、いじめを立件するまでには被害者側・加害者側・それぞれの保護者・人権問題など多くのハードルがあるわけだ。もちろん、それでもその困難なハードルを乗り越えていくべきなのだが、現実には被害・加害の対立する主張や人権問題という聖域の前で先生方は板ばさみになっているのが現状ではないか。

 マスコミ報道をみると、先生方が無能で、あるいは腹黒く、また事なかれ主義で、それがいじめを容認しているといった勧善懲悪的なニュアンスが伝わってくる。しかし、当然のことながら事態はそれほど単純ではない。むしろ、多くの先生方はいじめに対しては「ゆるせない」というピュアな気持ちをもっているのではないか。ピュアな気持ちを持っているが故に、「人権」とか「差別」とかのことばに弱いのだ。当然のことなかせら、先生方は人間である。魔法使いでもスーパーマンではない。「人権」や「保護者の異議申し立て」や「上からの管理」の前に、武器も権限も取り上げられてしまった現代の先生方にそれを期待するのは無理である。酷であるといってもよい。

 文部科学省や教委は、上記のようないじめ認定の諸局面での対応のマニュアルと学校や先生方に与えられるべき権限を明示するべきである。はっきりいうなら、いじめ防止やその他の学校秩序を維持するため、学校に特別の権限でも与えない限り、いじめ摘発は無理な話であり、学校秩序の維持も困難であろう。文部科学省や教委は、自らは安全な地帯に居りながら、何の権限も方策も持たずにいじめと直面し、疲れ果てている先生方に責任を押し付けているように見える。丸腰の学校を諸悪の根源のように糾弾しても何の解決にもならないだろう。

 まさか、だから教育基本法を改正すべきだとでもいうのだろうか。

 ※ 尚、念のために記しておくが、上記のことは教員を擁護するために書かれたものではない。


最近の授業参観のこと

2006年11月12日 | つまらない雑談

 今日、息子たちの授業参観に行って来た。こどもをもっている人はご承知のことと思うが、最近の授業参観には驚かされる。私が最初にこどもたちの授業参観に行ったのはもう5年前のことだが、ショックだった。保護者たちが騒がしいのだ。先生はちゃんと授業をやり、こどもたちはしっかり聞いているのだが、後ろにいる保護者たちは、教室内で世間話に花を咲かせ、盛り上がっている。中には、バカ笑いをするものもいた。あるいは子連れでやってきて、こどもがいたずらをしても騒いでも泣いても知らん振りの保護者もいる。遅れてきて、ずうずうしくもこどもたちの机の間を歩いていき、一番前にいる自分のこともに「がんばれよ」などと告げに行った者までいた。

 授業参観後の学級保護者会の際、そういう保護者にかぎって担任の先生に批判的な発言をしたり、過大な要求を押し付けたりするのだった。とうとう頭にきた私は、私よりはるかに若いお母さん方をしかりつけてしまった。「お母さん方、そんなことを先生に言うのはおかしい。そもそもさっきの授業中の態度は一体なんですか。こどもたちの授業中に騒がしすぎませんか。そんなことでは、あなたのお子さんはだめになりますよ。いやもうだめになっているかもしれない。……」場が固まってしまった。ところが、ある保護者がひそひそ声で「何も話すなっていうのかしら……」などと言うのをきいて、私は大声で「当たり前だ。授業中静粛にするのは常識じゃないですか。どうかしてますよ。」といってしまった。となりにいた妻は、いたたまれないようで、ずっと下をむいていた。

 世代のギャップなのだろうか。私にはその保護者たちの言動がどうしても理解できなかった。それ以来、妻は私が保護者会にでることを嫌がるようになってしまった。


「遠い世界に」と失われた「明日の世界」

2006年11月04日 | つまらない雑談

5550005  数年前、ふとしたことから「五つの赤い風船」のベスト盤を買った。なぜ買ったのかよく思い出せないのだが、収録されている「遠い世界に」という曲のメロディーを知っていたことと関係があるのかも知れない。「遠い世界に」は音楽の教科書にも載っているのだ……。買ったCDは1~2度かけただけで長く棚の片隅で眠ることになった。私は、フォークというものに接してこなかったため、懐かしの「フォーク・ソング」を聴いても特別の感情をもつことはない。若い頃、周囲にはまだフォーク・ブームのなごりがあり、多くの友人たちがフォークに狂っていたにもかかわらずである……。

 きのう、なぜかそのCDを聴いてみようという気になった。やはり、多くの曲がピンとこず、はっきりいって聴くのがつらかった。ハーモニーやサウンド自体が貧弱な気がした。しかし、「遠い世界に」だけにはどこかひっかかりを感じた。歌詞が何か気になるのだ。

遠い世界に旅に出よう

それとも赤い風船に乗って

雲の上を歩いてみようか    

太陽の光で 虹をつくった

お空の風をもらって帰って

暗い霧を吹き飛ばしたい

僕らの住んでるこの町にも   

明るい太陽 顔を見せても

心の中はいつも悲しい     

力をあわせて生きることさえ

今ではみんな忘れてしまった 

だけど僕たち若者がいる


雲にかくれた小さな星は    

これが日本だ 私の国だ

若い力を体に感じて     

みんなで歩こう 長い道だが

一つの道を力のかぎり     

明日の世界をさがしに行こう


 「暗い霧を吹き飛ばしたい」「力をあわせて生きることさえ、今ではみんな忘れてしまった」「これが日本だ、私の国だ」などのことばが妙に生々しい。生々しいとは社会性を帯びているという意味である。とくに「これが日本だ、私の国だ」という部分は何か唐突な政治性を感じさせ、違和感すらある。このCDの収録曲「まぼろしの翼とともに」の中にも《 僕とおなじ学生だった 国のために死んでいった 》などのことばが登場し、国家や社会との関係を強烈に印象づけられる。日本の多くのフォーク・ソングが自己の内面の空白や蹉跌あるいは男女関係におけるディスコミュニケーションをテーマに歌うのに対して、異質である。

 Wikipediaによると、五つの赤い風船が結成されたのは1967年であり、1972年に解散している。まさに、東大紛争を頂点とする全共闘運動のリアルタイムである。しかも、「遠い世界に」がリリースされたのは1969年5月8日である。1969年1月19日に安田講堂が「落城」し、全共闘運動が挫折していくその直後ということになる。そのような時代性が歌詞に反映しているのだろうか。そう考えると、前掲の歌詞もうまく理解できる。全共闘運動に敗北した若者たちの心象風景のひとつとして理解できるわけだ。

 ところで、五つの赤い風船は前述のように1972年に解散している。1972年といえば、連合赤軍事件のあった年である。浅間山荘事件のあと、榛名山におけるそれまでのリンチ殺人が次々に明るみにされ、学生運動は名実ともに衰退の一途をたどり始める時期である。五つの赤い風船の解散は、そのことと何か関係があるのだろうか。「遠い世界に」のラストで《 明日の世界をさがしに行こう 》と歌った五つの赤い風船は、連合赤軍事件によって、探しに行くべき「明日の世界」も失ってしまったのだろうか。

 

 


世界史未履修問題

2006年10月27日 | つまらない雑談

 世界史未履修問題が話題になっている。もちろん良い事であるわけはないが、なぜ今頃になってという感じだ。地方ではこれまでにも報道されたことはあったが、大した大きな問題にはならなかった。今回、問題化したことについては、やや政治的な意図があるのでは、とかんぐることができないでもない。

 これまで報道されても大問題化しなかったので、学校側としても「公然の秘密」という面があったのではないか。実際、現在の学校は県教委や校長会から進学率のアップを強く求められ、校長以下先生方は大変だ。土日の課外授業や0時限目、7,8時限目は当たり前という感じだ。先生方の労働条件など論外。まさに何でもありの状況なのだ。今回の状況もそのような土壌があることを忘れてはならない。

 今回、世界史未履修が問題になっているが、世界史だけではないだろう(保健や家庭科、音楽・美術そして情報などで単位不足の問題も指摘されているようだ)。実際、数年前、山形県のある学校を視察した際、数学の時間に、受験科目として数学を使わない私大文系の志望者は別室で英語の授業をやっていると担当の先生が得意げに説明してくれた。帳簿上はもちろん、「数学」扱いだ。そんなことやっていいんですか、という私の愚かな質問に彼は、「まあね、いろいろね」などと微笑みながら語ってくれたのを思い出す。

 今回、岩手県で多くの高校の未履修問題が報道されている。データ的には岩手県の進学率の全国ランキングは下位だが、これは地理的要因や経済的要因による部分が大きく、実際は近年進学にかなり力を入れている。私の住む宮城県などよりはるかにだ。実際、県境近くに住む宮城の優秀な中学生は岩手県の高校に進学するものが多いのだ。

  報道によれば、私の住む宮城県でも未履修問題があることがわかった。仙台一高をはじめ、仙台三高、佐沼高校、古川高校、石巻好文館高校など最近きちがいじみた進学指導に躍起になっている高校ばかりだ。多くは「情報」の授業に他の教科の授業をやっている場合が多いようだ。学習指導要領はそれなりの(一方的で独善的な面は否めないと私は思うが)理念に基づいているわけだが、「進学」という「現実」に直面した時、保健や家庭科・音楽・美術・情報などは、はっきりいって邪魔な科目なのであろう。特に、新しくできた「情報」は邪魔な科目である。「情報」をいれることによって、他の科目の時間を削減しなければならないという「現実」に直面するからだ。文部科学省はIT時代に対応するという名目で「情報」を導入したわけだが、実際に授業で行われている内容は非常に低レベルなパソコンの操作方法なのだ。受験に必要な科目を削って、「情報」の授業をやることが現実的にはあまりに無駄で意味のないことだと教師たちのほとんどは考えているはずである。近年、教育界では上意下達の傾向が非常に強まり(それはあまりに従順な先生方に責任があるが……)、文部科学省も県教委も現場の実情からあまりに(本当にあまりにだ)乖離した理念や方策を押し付けてくる。今回の世界史未履修問題が学校側に原因があることは否定できないが、そろそろ文部科学省のあまりに現実と乖離した意味のない理念についしても批判する声があがるべきだろう。

 しかし、教員にそれは期待できない。組合も瀕死の状態で、教職員自身も牙を抜かれたイエスマンなのから。

 とさころで、学校が常軌を逸していることが否定すべくもないとしても、そういったことを要求・要望する生徒や父兄もどうかしている。最近、少し騒ぎたてれば゜学校は引き下がると思っている父兄が増えてきたが(実際すぐに引き下がる学校があるのはこまったことだ)、そういう土壌もあるのだろう。

 つづく


BOSEはちょっとひどい!

2006年10月08日 | つまらない雑談

先日、ボーズ社より上(左)のような文書とCDが送られてきた。Wave Music System のプログラムに不具合があるので、そのCDによって修正プログラムをインストールしてほしいとのことだった。まあいい、それで不具合が直るならいいではないか。

 ところで、数年前に購入したWest Borough SYSTEM ONE EX-Ⅲ (WBS-1EXⅢ)である。雑誌の宣伝に反して低音が足りないとかいくつかの不満がありつつも、スピーカー125はボーカルについてはなかなかよく鳴らし、サブスピーカーとして結構気に入っていた。ところが、レシーバーのPLS-1510が、ときどき再生中に止まってしまったり、CDによって再生不能に陥ったり、また異常な機械的な音がしたりで、これは不良品に違いないと思っていた。

 上記の手紙が送られてきて、もしかしたらこれもプログラムの不具合かも知れないと思い、しばらくぶりにBOSE社のホームページを見てみたら、何と、件のWest Borough SYSTEM ONE EX-Ⅲが生産中止になっているではないか。嘘だろう、つい最近まで盛んに宣伝していたではないか。事実、手元にあるSwing Journal (2006-6月号) までは裏表紙一面に広告がある。突然の生産中止、なぜ……。

 不安になり、ウェブで同製品の不具合について検索してみると、何と私と同じような不具合を指摘している人がいるではないか。これは製品自体の設計ミスだったのではないか。もしそうであるなら、何の改善措置も救済措置もなく、人知れず生産中止とはひどいではないか。BOSE程の大きなメーカーが経済倫理に反するではないか。

 大した高価な製品ではないが、私はこのまま引き下がれない。

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 ↓Wave Music System に関する送られてきた文書↓

「BOSE.PDF」をダウンロード


デモに参加してみました

2006年10月01日 | つまらない雑談

Scan10014_5   昨日、デモに参加して来ました。憲法改正反対・教育基本法改正反対のデモです。

 これまで政治や社会に対して一定の意見はもっているつもりでしたが、どちらかというと批評家的で現実からは距離をおいてきました。実際、きちんと思考しようとすれば、結論を留保せざるを得ない問題はたくさんあるものです。

 しかし、アフガン戦争・イラク戦争あたりから急激に変化する世界にとまどいながらも、自分自身ある年齢に達しとたこともあり、世界に対する態度を明確にせねば、と考えていたところでした。

 過日の安倍極右政権成立によって、「日本国憲法」及び「教育基本法」が現実的な危機にさらされることとなり、態度の明確化にせまられたわけです。安倍晋三政権は保守政権などではありません。はっきり、極右政権というべきでしょう。これまでの安倍氏の主張をみると、ヨーロッパで言えばネオナチといわれても仕方がないのではないかと思うのです。そのような人物が内閣総理大臣になってしまったのです。もしかしたら将来、日本史年表に「2006年、安倍極右政権成立」という項目が掲載されるかも知れません。

 私は、いくつかの問題を指摘しながらも、立場としては「護憲」の側につきたいと考えています。デモ行進というそれ自体「ダサい」行為に参加したのは、そういった自分の立場を表明するためのささやかな行動です。どのような運動も大同団結(「小異を捨てて大同につく」)のもとにおこなわれるのであり、その過程で微妙な主張の差異やデリケートなディテールが切り捨てられるものです。そのこと自体は非常に不愉快なものであり、思想の瑞々しさがスポイルされてしまうことも多いと考えています。にもかかわらず、行動の必要性を感じるのは、それだけ事態か切迫していると感じるからです。多分に自己満足的ではありますが、あの時行動しなかったという後悔はしたくないわけです。

 知人に会ったりしてちょっと恥ずかしい面もありましたが、街の中を大きな声をだしながら歩くというのもなかなか面白い経験であり、気持ちのいいものでした。

 「日本国憲法」「教育基本法」の問題は、党派を超えた市民運動であるべきだと思います。ブロガーのみなさんもたまには、外でデモ行進に参加してみてはいかがでしょうか。


乙武洋匡ブログ「炎上」事件

2006年09月16日 | つまらない雑談

 今日時間があったので、書店で『週刊現代』を買ったら興味深い記事がのっていた。すなわち、乙武洋匡さんが自身のブログに「紀子さま出産」と題する文章を載せ、その中で「世間は昨日から『めでたい、めでたい』と騒いでいるけど……ひとつの命が誕生したことがめでたいの?それとも誕生した命が『男児だったから』めでたいの?」と語ったところ、掲示板『2ちゃんねる』に取り上げられ、それを契機にブログに誹謗・中傷コメントがなだれを打つように書き込まれたというのだ。こうしたブログ執筆者の発言に批判的コメントが集中する状態を「炎上」というのだそうだが、多くが同じ稚拙な文章を何度もアップするいやがらせ的なものである。

 まったく、わが日本はどうなっているのだろう。私は乙武洋匡さんの本を読んだことも無くことさら弁護する気もないが、ブログの文章を読む限り、まったくまっとうな意見だった。乙武さんの文章には悪意はまったく感じられず、文章どうりの意味ととって差し支えない。私なら皇室に命が誕生したからといって何か特別えらいのか……と付け加えたいところだが……。

 多くは日本の「右傾化」にともなって俄かに出現している「気分的右翼」の連中だろう。匿名の発言であることをいいことに、節度の無いことをやる。節操が無い。昔の日本人はこうではなかったはずだ。まったく、この日本にはもはや冷静な議論の土壌は失われてしまったのだろうか。皇室の尊厳を云々する前に、人間としての節度のあり方を何とかして欲しい。日本の美風を損なっているのは、こうした節度なき「気分的右翼(保守)」の烏合の衆だと思うのだが……。

 乙武さんは同日のうちに、「深くお詫びします」と謝罪文を掲載したが、それに対しても嫌がらせコメントが5000件以上寄せられたとのことである。乙武さんは悔しかったであろう。そもそも謝罪する必要などないものに対して、礼をつくして謝罪したのだ。その「礼」に対してすらあざけりや嫌がらせが寄せられるわが日本……。

 柄にもなく私は「憂国」の念を抱いてしまう。日本を本当に滅ぼすのは、彼らが悪口をいう朝日新聞や「左翼」ではなく、おそらくは彼ら自身なのではなかろうか。