WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

原子心母

2012年09月02日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚 327☆

Pink Floyd

Atom Heart Mother

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 印象的なジャケットである。文字が書かれていないところがよい。ピンク・フロイドの1970年作品『原子心母』である。もちろん、プログレッシブ・ロックの名盤のひとつと評価されるアルバムだ。Atom Heart Motherを『原子心母』と「直訳」したのは、東芝音楽工業のデレクターだった石坂敬一氏なのだそうだが、今考えると、これはこれでよかったという気がする。あえて訳さないという選択もあったのだろうが、日本人の心にはこの方がすんなり入ってくるという気もする。高校生の私はこの耳慣れない日本語のアルバムタイトルに当惑し、「母なるもの」、ユングいうの原型、「マザー」のようなものかと考えたりしたが、心臓にペースメーカーを埋め込んで、生きながらえている妊婦のことを書いた新聞記事の見出しからヒントを得たものなのだそうだ。

 ピンク・フロイドの音楽、あるいはプログレッシブ・ロック全体を考える場合に絶対にはずせない作品であり、内容も悪くはないが、正直にいえば、今日という地点から見ると、ブラスやコーラスの使い方にやや時代性を感じてしまう。その意味では、私の中では例えば『狂気』に比べて一段落ちる。けれども、決して嫌いな作品ではない。現在でも折にふれて取り出し、CDトレイにのせるアルバムである。

 ここ数年、40代の後半になったあたりから、プログレを時々聴くようになった。思えば、若い頃の聴き方は頭でっかちだったと今は思う。作品の位置づけとか、ロック史上における意義とかが、頭のどこかに、というかかなりの部分を占めて聴いていたように思う。今私がプログレを聴くのは、その革新性からでも実験性からでもない。なんというか、癒されるのである。作品の持つ、素朴な抒情性ゆえに、癒され、そのまま眠ってしまうこともしばしばだ。もはや、プログレという範疇も私にはどうでもよい。ただ、どういうわけか、いわゆるプログレ作品には癒される音楽が多い。不思議だ。


空気を伝わってくる音楽

2012年09月01日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚 326☆

大貫妙子

Boucles d'oreilles

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 今日は中学3年生の次男の運動会だった。中学校の校庭は仮設住宅で使えないため、近くの小学校の校庭を借りての開催だ。普段仕事にかまけてかまってやれない罪滅ぼしにと、朝から精力的にビデオ撮影を行い、応援した。今日は高校生の長男の文化祭もあり、妻は午後からはそちらに行くと張り切っていたが、私は疲れてしまって、運動会終了後、自宅に戻った。どうやら、リビングで横になり、そのまま眠ってしまったようだ。目が覚めたばかりの、ぼやけた私の頭は、何か穏やかで静かな、抒情的あるいは牧歌的な音楽を求めているようだった。そう思ってしばらくぶりに引っ張り出したのがこのCDである。

 大貫妙子の2007年作品、『ブックル・ドレイユ』である。大貫妙子が1987年から取り組んでいるピュア・アコースティク・サウンドのひとつの集大成のような作品である。弦楽四重奏+ピアノ+ベースをバックに繰り広げられるサウンドは、疑いなく「独自の美意識に基づく繊細で透明な歌世界」(CD帯)といってよいと思う。大貫妙子の声もいつになくかわいい感じで、ちょっと新鮮ではないか。

 大貫妙子のアコースティック・サウンドの魅力はその空気感にある。彼女自身が何かのインタヴューで語っていたが、音が空気を伝わって聴衆に届く、そのある種の生々しさが面白いのだという。生々しいといっても、それは決して汗臭い生々しさではない。それは何というかやはり、「ピュア」とでもいうしかないような種類の生々しさだ。とにかく、音が伝わってくるその空気感がたまらなくいいのだ。

 このアルバムは何といっても選曲が良い。「彼と彼女のソネット」、「若き日の望楼」、「風の道」、「黒のクレール」、「横顔」、「新しいシャツ」、そして「突然の贈りもの」と、ピュア・アコースティック・サウンドで聴きたいと思うような曲が数多く収録されている。願ったりかなったりである。ただ正直にいえば、このアルバムの演奏についてはほんの少しだけ違和感がある。否定的な意味ではない。演奏のスピードや音と音の隙間の余韻が、私の細胞の呼吸みたいなものと若干ずれている気がするのだ。例えば、以前取り上げた『Pure acoustic plus』や『UTAU』のそれと若干異なり、いまひとつサウンドに同化・没入できない感じがするのだ。もちろん、これは個人的な感覚、生理的リズムの問題であり、この作品の価値をなんら貶めるものではない。

 お昼寝の後の、ぼんやりした頭で大貫妙子のアコースティック・サウンドを聴く。しばらくぶりの休日の、ちょっと贅沢な時間だったような気がする。


スティル・ライフ

2012年08月04日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚 318☆

Pat Metheny Group

Still Life (talking)

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 昨日の『レター・フロム・ホーム』に続いて、今日の一枚もパット・メセニー・グループ(PMG)。1987年作品の『スティル・ライフ』である。PMGのものとしては、『レター・フロム・ホーム』のひとつ前の作品にあたり、『レター・フロム・ホーム』同様、グラミー賞受賞作である。昨日も記したように、私は長らく曲名もチェックせずにカセットテープで聴いていたこともあって、同じサウンド的傾向のこの『スティル・ライフ』と、『レター・フロム・ホーム』が頭の中ではごちゃごちゃであった。今回改めてCDで聴きなおしてみて感じるのは、『スティル・ライフ』のほうが若干、サウンドの陰影感が際立っているのではないかということと、爽快な疾走感が特徴的だということだ。シンセサイザーを駆使した変幻自在のギターと、細かなリズムを刻み続けるドラムスは特に印象的だ。どの曲も魅惑的でサウンド的にも安定しているが、お気に入りは美しいメロディーをもつ③ Last Train Home と、⑦ In Her Family だ。特に、穏やかで奥行きのある⑦ In Her Family がアルバムの最後に配されていることによって、サウンドの余韻が残り、アルバムをより感動的なものにしている。

 ところで、『スティル・ライフ』というタイトルで思い出すのは、1988年に出版された池澤夏樹の小説である。私と同世代にはそういう人も多いのではなかろうか。この作品が雑誌「中央公論」に発表されたのは1987年の10月号であるが、もちろん作品はそれ以前に完成していたはずである。パット・メセニー・グループの『スティル・ライフ』が録音されたのは1987年の3月~4月であり、両者はほぼ同時期のものということになる。何かつながりがあるのだろうか。

 池澤夏樹氏の『スティル・ライフ』は、その詩的な表現や、独特の世界観を表出したストーリーの魅力もさることながら、忘れがたいのはやはり冒頭の次の一文である。

       ※          ※          ※

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。

 世界ときみは、2本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

 でも、外に立つ世界とは別に、君の中にも、1つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることもできる。君の意識は2つの世界の境界の上にいる。

 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ2つの世界の呼応と調和をはかることだ。

 たとえば、星を見るとかして。

「たとえば、星を見るとかして」というところが、なかなかによい。構造主義に接近していた当時の私はやや違和感を感じたものだが、いまは素直に読むことができる。

 魅力的な文章だ。

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レター・フロム・ホーム

2012年08月03日 | 今日の一枚(O-P)

☆今日の一枚317☆

Pat Metheny Group

Letter From Home

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 この夏は車で古いパット・メセニーを聴いて過ごそうと決めた。1か月ほど前、なぜだかわからないが(天の啓示のようにだ)、パット・メセニーを聴いていた懐かしい20代の頃の情景が思い出され、そう決めてしまったのだ。パット・メセニーのサウンドとともにの、スライドショーのように様様な場面が思い出され、アスファルトに反射する太陽の暑さや、汗のじめじめした感じや、風の涼しさなどの皮膚感覚さえよみがえってくる。不毛な日々だったが、私にとってはやはり、かけがえのない時間だった。 

 今日の一枚は、パット・メセニー・グループ(PMG)の1989年録音作品、『レター・フロム・ホーム』だ。同時代に聴いた作品だ。私は27歳だったことになる。PMGとしては快作『スティル・ライフ』(1987)の 次に来る作品なのだが、私はずっとカセットテープで聴いていて、曲名をきちんとチェックしなかったこともあり、私の中では『スティル・ライフ』と『レター・フロム・ホーム』がごちゃごちゃになっている。傾向の類似した両作であるが、今回CDで聴きかえしてみて、『レター・フロム・ホーム』のほうが溌剌とした明快なサウンドだという印象を受けた。サウンドの陰影感という点では一歩譲るが、本当に元気で明快なサウンドである。柔らかいが低く存在感のあるベースが好ましい。印象的な① Have You Heardももちろんいいが、やはり私は、メロディーの美しい⑧ Dream of The Return、⑪ Slip Away、⑫ Letter From Home、あたりがお気に入りである。あまりの美しさに、感動の余韻が細胞のひとつひとつにゆっくりと沁み込んでくるようだ。


12ページの詩集

2011年06月19日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 316●

太田裕美

12ページの詩集

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 極私的名盤である。一般的にはもはや1970年代アイドルの作品のひとつという評価なのかも知れないが、私にとっては、これまで取り上げたジャズやロックと同様、大きな影響を受けた作品である。「極私的」と記したが、これを削除してもかまわないだろう。内容も非常に優れているからだ。

 太田裕美の1976年録音作品『12ページの詩集』である。それまでの松本隆&筒美京平路線とは一味違う新生面を模索すべく企画された、12人の作曲家の楽曲を太田裕美が歌うという趣向である。全編のトーンが失ってしまった青春の日を追憶するノスタルジアに統一されており、70年代ノスタルジアが凝縮されたようなジャケットもいい。素晴らしい出来の作品である。これこそ私にとっての太田裕美的世界だといっていい。『手作りの画集』とともに、太田裕美の最高傑作と断言したい。

 私にとっては、かつては名曲「君と歩いた青春」を聴くための一枚だったが、ある年齢になってからはすべての曲がそれぞれに心の深いところにしみこむようになった。特に、荒井由美作曲「青い傘」と、佐藤健作曲「一つの朝」の織り成す音楽世界は筆舌に尽くしがたい。

 LPもCDも所有しているが、最近はより手軽なCDで聴くことが多い。けれども、その音楽世界をより忠実に再現するなら断然LPである。音の柔らかさ優しさが際立ち、針のノイズも含めて1970年代にタイムスリップするようだ。私は時々思うのだが、古い音楽は、その時代の媒体で、できればその時代の再生装置で聴くのが、基本的には最もよい聴き方ではないだろうか。

 いづれにせよ私は、これからも折に触れて、この作品を聴き続けることになると思う。


ジャズ来るべきもの

2011年05月04日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 310●

Ornette Coleman

The Shape Of Jazz To Come

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 最近、また悪臭がひどい日がある。家のドア、あるいはクルマのドアををあけると、絶えられない悪臭が入り込んでくる。私などは家のドアからクルマまで息を止めて走って移動する始末だ。数日前、隣町に家族で買い物にいったのだが、私たちの髪の毛や衣服にこの臭いが染み付き、周りの人に臭うんじゃないかと心配してしまうほどだった。その帰り道、妻がしみじみと、「またあの臭い街に帰るのね」といったのが、印象的だった。

     *     *     *     *

 フリージャズの先駆者といわれるオーネット・コールマンの1959年作品『ジャズ来るべきもの』である。The Shape Of Jazz To Come を「ジャズ来るべきもの」と訳したセンスに熱烈な賛意を示したい。かっこいい……。

 当時はジャズ界に一大スキャンダルを巻き起こした問題作だったようだが、今聴くと、嘘のように聴き易い作品である。私などは全体に漂う叙情性と音の背後に広がる静けさに魅了される。メロディーやハーモニーの感覚もたまらなく好きだ。スピーカーの前に座り込み、じっと耳を傾けるような求道的な聴き方はしない。音量は必要以上に大きくしない。むしろ絞り気味だ。珈琲を飲みながら、あるいは書物や雑誌を読みながらBGMのように聴く。フリージャズの問題作といわれたオーネットの音楽が、とても好ましい穏やかな空間を作ってくれる。気分がいい。それでも、本から目を上げ、じっと聴き入ってしまう瞬間がある。それが音楽のもつ力なのだろう。

 


オフランプ

2011年04月30日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 309●

Pat Metheny

Offramp

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 3・11と3・7の大きな地震で2度も棚のCDが床に散乱し、今はとりあえず棚に戻してある状態だ。順番もカテゴリーも何もかもバラバラだ。おかげで聴きたいCDを探すのがたいへんだ。CDがバラバラなためだろうか、あるいは頭の中がいまだに真っ白なためだろうか、不思議な事に、さて何を聴こうかと考えてみても、適当な作品が思い浮かばない。聴きたい作品を思い浮かべる契機がないのだ。しかし今日は幸いなことに、「よく読むブログ」の土佐のオヤジさんがこのアルバムを取り上げた文章を読み、ああこれを聴きたいと思い当たった。

     *     *     *     *

 パット・メセニー・グループの1981年録音作品『オフランプ』、おそらくは、パットの作品の中で私が最もよく聴いたものだと思う。学生時代にリアルタイムで聴きこみ、就職してクルマを買ってからは何度となくカーステレオで聴いた。今でもこのアルバムを聴くと、音の向こう側に、その頃の情景が浮かんでくる。安いヘッドホンステレオでこのアルバムを聴きながら歩いた深夜の世田谷公園や、名古屋から下呂温泉に向かう国道21号線沿線の風景である。

 僚友ライル・メイズとともに展開する「ついておいで」の泣きのフレーズや、「ジェイムス」の疾走感がたまらない。周知のように、パット・メセニーはこれ以後、音楽的にもサウンド的にもめざましい発展を遂げていくわけだが、この時代の彼の素朴な音楽的感性は、現在にあっても、私の心と身体に、ゆっくりと、そして深くしみこんでくる。


UTAU

2011年01月22日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 298●

大貫妙子 & 坂本龍一

UTAU

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 快作だ。大貫妙子 & 坂本龍一の2010年作品『UTAU』。「大貫妙子が唄う坂本龍一」というふれこみの作品である。坂本龍一と大貫妙子は、「1970年代前半の出会い以来多くの共作・共演を経てそれぞれ独自の音楽世界を確立してきた」が、今回は「坂本龍一の楽曲に大貫妙子が言葉を紡ぎ唄うと」いう企画である。大貫と坂本の共演のみからなる一枚バージョンと、それに坂本のピアノインストロメンタル一枚がついた2枚組みバージョンがあるようだが、私は経済的事情から、一枚のみのものを購入した。

 素晴らしい出来だ。録音もいい。珠玉の一枚といっていいだろう。大貫妙子はフランスものの時代からずっと好きだったが、最近のものは大貫の声が年齢のためか(?)のびやかさがなく、ちょっと心配していたのだ。この作品はそんな心配はまったくない。声に余裕がある。張りもある。若い頃のような、溌剌とした艶はないかもしれないが、音の余白と余韻を考えた表現が素晴らしい情感を生み出している。何より、気高い。坂本龍一の硬質で抑制的なピアノも切ない感じでいい。

 いつも思うのだが、大貫妙子の作品、とくにピュアアコーステックものについては、余計な感想や批評を記すとかえって作品を汚してしまうような気がする。ただ、じっと聴いて感じたい。以前から大好きな曲、「風の道」で終わるところがいい。終わったあとの余韻がたまらなくいい。

「今では他人と呼ばれる二人に 決して譲れぬ生き方があった」

ただ、涙するのみである。


10年以上も棚の片隅で待っていたCD

2010年11月14日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 287●

Pat Metheny

New Chautauqua

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 何気なく、しばらくぶりにパット・メセニーでも聴きたいなと思い、CD棚を探していると、このアルバムを発見。そういえばあったな、もう10年以上CDデッキのトレイにのせていないような気がするなどと思い、少女趣味だが、10年以上もCD棚の片隅で私に取り出されるのを待っていたのかなどと、妙な感慨に浸ってしまった。

 1978年録音の『ニュー・シャトークァ』、パット・メセニーのソロ作品である。全編オバー・ダビングによって構成されているようだ。改めて聴いてみると、いい音楽だ。すごくいい音楽である。全編に不思議な静けさが漂い、しかも、明るくテンポのいいアメリカン・ポップスのテイストを感じるナンバーと、感傷的で軽い孤独感を感じるナンバーとが好対照をなし、光と影のイメージを形作っている。アルバムとしても明解でとても聴き易い作品だ。

 しかしそれにしてもなぜ、このような気持ちのいいサウンドのCDを10年以上も放置しておいたのだろうか。④「寂しい一軒家」を自作の「マイ・フェイバリット・パット・メセニー」に入れて繰り返し聴いたほかは、本当に10年以上放置していたのだ。ただ、よく聴いてみると、本当にいいアルバムなのだか、何か足りないような気がしないでもない。昨日から、もう4度もこのアルバムを聴いているのだが、それが何かはまだわからない。

 ところで、you tube には数多くの一般人によるパット・メセニーのコピー演奏がupされているのだが、みなさんなかなかうまい。というか、これはすごい、かなりうまいと感じるものも結構ある。わたしもガキの頃は、地元でギタリストとしてならしたものだ。ちょっとしたコンテストで賞をとって天狗になり、プロになろうかなどと夢想したこともあった。大学に入ってまもなく、ジム・ホールとパット・メセニーを知り、フレーズやアドリブの構成などを分析的にお勉強したりしたものだが、自分がやってきたロック・ギターをはるかに凌駕した理論とテクニック、しかもそれをひけらかすこともなく、何事もなかったように演奏する姿に脱帽。これはもうかなわないと思い、きっぱりギターをやめてしまった。もう少し根性があれば、なにくそ魂でもっとうまくなってやるぞと考えたのだろうが、当時の私には乗り越え不可能に思えたのだった。ギターを趣味的に練習していくという道もあったのだろうが、何か未練がましく思え、本当に潔くきっぱりと辞めてしまったのだった。

 今でも、ギターはほとんど弾かない。稀に、酒で酔い、弾くことがあるが、演奏はアドリブ、もちろん、流麗とは程遠い"どブルース"である。昔とった杵柄、頭の中ではそこそこのものは何とか弾ける自信だけはあるのだが、何せトレーニング不足で、指がもつれることもしばしばだ。だから、you tube にupされた一般人の演奏を見ると、正直、ほんの少しうらやましく思う。


Walk Alone

2010年11月05日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 286●

小曽根真

Walk Alone

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 テンプレートを秋の雰囲気を感じる「銀杏」に変えてみた。銀杏をみると、大学時代を思い出す。大学へいたる道にあった銀杏並木を思いだすのだ。というわけで、秋の雰囲気を感じる一枚である。

 小曽根真のピアノトリオ+ストリングスによる1992年録音作品、『Walk Alone』。エディ・ヒギンズの『アゲイン』に収録された同名曲を聴いて、ずっと気になっていた。機会があったらオリジナル演奏を聴いてみたいと考えていたところ、1ヶ月程前、宮城・利府ジャスコのCDショップでこのアルバムを発見、早速、買い求めた次第である。ベースはマーク・ジョンソン、ドラムスはピーター・アースキン。

 1961年生まれの小曽根真は、私の1つ年上だ。学年は2つ上のようだが……。同世代ということで、私が大学生の頃、彼がクインシー・ジョーンズに見出されてアメリカCBSと専属契約を結んで話題となって以来、ずっと気になる音楽家だった。

 ①Big Apple Pie がかなり印象的である。いい演奏だ。のびやかですがすがしいピアノだ。③ Walk Alone 、やはり、いい曲だ。ゆっくりとした曲調と、ピアノの鍵盤にふれるタイム感覚がたまらなくいい。日本人の細胞にあっているのだろうか、などどつい凡庸なことを考えてしまう。

 いつも思うのだが、小曽根のピアノには、透明感があり、すがすがしく、さわやかで、どこかに凛とした音の芯のようなものがある。それが好きだ。


Pure Acoustic Plus

2009年04月06日 | 今日の一枚(O-P)

◎今日の一枚 241◎

大貫妙子

Pure Acoustic Plus

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 「大貫妙子は、日本最高のソングライターだ」といったのは、才女・矢野顕子だったが、その見解にまったく異存はない。少なくとも、私の知っている日本のミュージシャンの中で、その才能は圧倒的にぬきんでているようにみえる。他の誰とも違う独創的で個性溢れるメロディーライン、ドラマティックで共感できる詩的世界、感動的で心の琴線にふれる音使い、どれをとっても唯一無二、ワン・アンド・オンリーだ。

 「Pure Acoustic Plus 」 、私の愛聴盤のひとつである。1987年のコンサート「Pure Acoustic Night」のライブ・レコーディングのうち7曲が「Pure Acoustic」と題してアルバム化されたが、それは通販かコンサート会場限定販売であった。この作品が好評のため、新たに3曲のボーナス・トラックをPlusして1993年に発表されたものが本「Pure Acoustic Plus 」 である。なお、この作品をベースに若干の曲の入れ替えをおこなった作品「Pure Acoustic」が1996年にリリースされ、現在広く巷に出回っている。さらに、これらの作品をベースに、Pure Acoustic シリーズの総決算ともいえる(らしい)「Boucles d'oreilles」が2007年に発売されているが、この作品に関しては未だ入手していない。是非、買いたいと思っている。

 さて、「Pure Acoustic Plus 」 である。素晴らしいアルバムである。しかし、多くを語るべきではないという気がするし、またそうしたくはない。私などの汚らわしい言葉でこのPureな世界を損ないたくはないのである。ただ、一言だけいっておこう。アルバムタイトルどおり、そこにあるのはまぎれもないPureな世界であり、繊細で美しい世界である。


不遇の才人

2009年01月14日 | 今日の一枚(O-P)

◎今日の一枚 218◎

Phineas Newborn Jr.

The Great Jazz Piano

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 「ニューボーンは、不遇の才人である。アート・テイタムに肉薄する技巧をもちながら神経障害、あるいは生活上の痛手から、何度となく入退院を繰り返し、ピアノを演奏しているよりも、姿を隠している期間の方が長い何とも不幸なピアニストだ。」(油井正一『ジャズ・ピアノ・ベスト・レコード・コレクション』新潮文庫:1989)

 可愛そうな人だったのですね。有名な人だが、フィニアス・ニューボーンJr. という人は聴いたことがなかった。「不遇の才人」、フィニアス・ニューボーン Jr. の1961年録音作品、『ザ・グレイト・ジャズ・ピアノ』。もう閉鎖されてしまったブログ『ジャズ喫茶道』で紹介されてから、その印象的なジャケットがずっと気になっていたのだ。購入したのはほんの数ヶ月前である。悪い作品ではない。それなりに楽しめる。ただし、《 アート・テイタムの生まれ変わり 》という評価があるのはどうだろう。アート・テイタムの死後、デビュー作を発表したことから、そういわれたらしいが、それほどだろうか。そもそも、アート・テイタムは私の大好きなピアニストのひとりなのだ。軽々しいことはいわないでもらいたい。

 確かにバップ期のピアニストとしてはテクニシャンだったのだろう。けれど、わかりやすいアルバムなのに、今ひとつ、心が躍らないのは何故だろうか。きっと、根本的には真面目で優秀な人だったのだろう。指使いは流麗で、テクニシャンであることはよくわかるのだが、音楽を奏でることの喜びが今ひとつ伝わってこない。何というか、迫力に欠けるのだ。躍動感がないのは、録音が悪いせいだろうか。あるいは、サイドメンがイマイチのせいだろうか。

 否定的なことばかり書いてしまったが、私は結構好きだ。事実、CDプレーヤーのトレイに乗ることも少なくはないのだ。ただ、尊敬あるいは崇拝するアート・テイタムと比べられることにはちょっと我慢ならない。まあ、アルバム・ジャケットはいいのだが……。

 自分の大切なものを卑しめられると、人間はちょっとヒステリックになってしまうものらしい。


A Long Vacation

2007年08月19日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 189●

大瀧詠一  

A Long Vacation

 家族にせがまれて、急遽、3日間北海道に行ってきた。本当に「急遽」のことで旅行社のパックにも入れず、金額的にはちょっと高くついてしまった。リスツ・リゾートはあいにく小雨続きで、付属の施設を十分に楽しむにはいたらなかったが、それでもいつもよりはリラックスした時間を楽しむことができた。自宅から空港までの2時間半、クルマを運転しながら、たまたまそこにあった古いカセット・テープを聴いた。レコードの針飛びの音がするそのカセットテープはかなり古いもので、いつからその場所にあったか不明であるが、サウンドは鮮明だった。いい作品だと改めて思った。そして、そのサウンドは、旅行中、頭の中でずっと鳴り響くことになった。

 大瀧詠一の1981年作品『ロング・バケーション』である。周知のように、日本のポップスの金字塔といわれることもある名盤である。「はっぴいえんど」の一員として一世を風靡したものの、以後のマニアックな音楽が市場には受け入れられず、商業的には不遇の1970年代を過ごした大瀧だったが、この作品のミリオン・ヒットにより以後の日本のポップスに決定的な影響を与えることとなった。wikipediaによると、このアルバムは、発売1年で100万枚を突破し、これは2006年の音楽市場規模に換算すると400万枚に該当する、ということだ。

 一体何年ぶりに聴いたか記憶にさえないが、まったくもってすごいアルバムである。感動的だといってもよい。全編にわたって弱点がない。どの曲も個性的で瑞々しく、25年以上経過した現在もまったく色褪せることはない。それは、この作品がアメリカンポップスの歴史と伝統をきちんとふまえた正統的で高水準のポップスだからかもしれない。『ロング・バケーション』以後の日本のポップスにどれほどこれと肩を並べる作品があっただろうか、などと権力的なことを言ってしまいたくなるほどだ。けれども、『ロング・バケーション』は、そういった大げさで権力的な物言いからは最も遠くに位置する作品だというべきだろう。なぜなら、ポップスとはもともと権力的な言説や感覚とは異質ないわば「非権力」的な音楽であり、『ロング・バケーション』はそのような意味で真のポップスであると思うからだ。『ロング・バケーション』には、日本の音楽が良くも悪くももっているあのじめじめした感じが一切感じられない。「貧乏」やそのルサンチマンの形態である「情念」というイメージが完全に払拭されている。そこにあるのは、シンプルな気持ちよさと乾いた感傷である。

 村上龍はかつてサザンオールスターズに関する文章の中で、ポップスについて次のように書いた。

《 「喉が乾いた、ビールを飲む、うまい!」「横に女がいる、きれいだ、やりたい!」「すてきなワンピース、買った、うれしい!」それらのシンプルなことがポップスの本質である。そしてポップスは人間の苦悩とか思想よりも、つまり「生きる目的は?」とか、「私は誰? ここはどこ?」よりも大切な感覚について表現されるものだ。 》

 この文章は、『ロング・バケーション』にもまったくあてはまるのであり、むしろその完成度の高さから、この作品こそ日本が戦後の貧しさから真に文化的な意味で脱出した記念碑なのではないかと私は思う。

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トリオ 99→00

2007年07月16日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 183●

Pat Metheny

Trio 99→00

Watercolors_17 パット・メセニーの1999年作品、『トリオ 99→00』だ。ギター・トリオによるストレート・アヘッドなジャズ演奏で、密度の濃い緊張感のあるインタープレイが展開される。とてもスリリングだ。けれども、そうした即興演奏の後の最後の曲 ⑪ Travels は格別だ。アメリカン・フォーク調の叙情的で美しい旋律は、心の一番柔らかなところに届き、、胸がしめつけられるようだ。じっと聴いていると、涙がこみ上げてくる程だ。このアコーステック・ギターによるピュアで繊細な演奏は、私が初めて生のパット・メセニーを見た時の感動を思い出させる。

 あれは、1990年のライブ・アンダー・ザ・スカイだっただろうか。私が行った仙台会場での演奏は、パット・メセニー・グループ、デヴィッド・サンボーン・グループ、そしてマイルス・デイヴィス・グループという短縮版だった。私はマイルスの演奏に期待して行ったのだが、残念ながらこの時のマイルスは、ほとんどソロをとらず、若手ミュージシャン中心の演奏内容も私にとっては満足できるものではなかった。当時は脳天気なデヴィッド・サンボーンの演奏も好きになれず、はっきりいってストレスのたまるライブだった。そうした中で、私の心に残ったのは、前座の地位に甘んじていたパット・メセニー・グループの演奏だった。夕暮れ時に、おもむろにアコースティック・ギターを弾いてはじまったパットのライブは、その響きが仙台の夕暮れの風景に溶け込むかのようだった。優しく柔らかな音たちが、まだ明るい空に解き放たれ、広がっていくのがありありとわかった。以来私は、パットのアコースティック・サウンドを一層好きになった。パットのアコースティック・ギターを聴くたびにあの時の情景がよみがえるのだ。

 『トリオ 99→00』と題されたこの作品は、それ自体、その緊張感溢れるインタープレイにより、非常に優れたアルバムだと思うが、最終曲 ⑪ Travels によって、アルバム全体が意味づけられ再構成されて、全く違うアルバムに変貌するような気がする。この最後の曲があることによって、感動的なトータルアルバムになっているような気がするのだ。

 マイルス・ディヴィスは、このライブの翌年、1991年9月28日に亡くなってしまった。私にとってはまったく突然のことだった。私が一度だけ見た、生のマイルス・ディヴィスの演奏が"最低"の出来だったことは、今でも私の人生の中の残念な出来事のひとつとなっている。彼の存命中に"本当のマイルス"を見たかったと思う。あのライブに行かなければ良かったと思うこともあったが、それを打ち消すほどに、"前座"のパット・メセニーの演奏は素晴らしかった。


ベース・オン・トップ

2007年06月12日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 174●

Paul Chambers

Bass On Top

Watercolors0004_7  ハード・バップ時代の超売れっ子ベーシスト、Mr.PC、ポール・チェンバースの1957年録音作品『ベース・オン・トップ』。彼のリーダー作としては最高傑作といわれる作品だ。タイトルにも自信の程がうかがえる。それにしても、1957年の録音だなんて信じられないほど音がいい。① Yesterdays から弓プレイ(ちょっとイヤラシイ言い方でしたね。アルコ奏法っていうんですよね。)の音の生々しさに耳が釘付けだ。低音の重厚感、音が空気を伝わって届くアコースティックな感覚がたまらない。私は24ビットのCDで持っているのだが、LPで聴いてみたくなる一枚だ。

   ポール・チェンバース(b)

   ケニー・バレル(g)

   ハンク・ジョーンズ(p)

   アート・テイラー(ds)

 ④ Dear Old Stockholm にくびったけである。Mr.PCのベースももちろん素晴らしいが、ケニー・バレルのギターがほんとうによく歌っている。ケニー・バレルというギタリストをテクニック的にすごいと思ったことはないが、時としてあるいはしばしば、たまらなく味のあるプレーをする。この美旋律のスウェーデン民謡 にはいうまでもなくいくつかの名演があるが、私としてはスタン・ゲッツやマイルス・デイビスやバド・パウエルの演奏と肩を並べるものといってもいいほど気に入っている。ケニー・バレルのブルージーな音の振るわせ方、スライド奏法による音の流し方が、他のミュージシャンの演奏とは一味もふた味も違うテイストをこの名曲に付与しているように思う。Mr.PCの太くたくましいベースもよく歌っているが、それをサポートするギターの控えめなバッキングがまたたまらない。唯一の不満は、曲の終わり方があまりに唐突で、サウンド的にもスカスカな感じを受けることだろうか。