WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ボッサ・アンティグア

2007年05月17日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 166●

Paul Desmond

Bossa Antigua

Scan10011_1  1964年録音のボッサ・ジャズの傑作、ポール・デズモンドの『ボッサ・アンティグア』。ポール・デズモンドといい、スタン・ゲッツといい、この時期にボサノヴァに接近したのは、黒くファンキーなジャズから、白人としてそれとは異なるスタイルを模索する過程でのことだったのではなかろうか。かなり昔のものだが、小野好恵との対談における村上春樹の次の発言は示唆的である。

 

「というか、結局イミテーションでしょう、当時のね。そういうのはわりに昔から好きなんですよ。内在的な必然というのが、黒人の場合には、歴史的というか人種的なものが一応あるわけですよ。白人の場合には借りものという感じがあるんですよ。やっぱりアーティフィシャルなものが好きだというかね。ナマのままのものというのはもうひとつしっくりこない。」(『ジャズの事典』冬樹社1983)

 つまり、黒人のジャズが歴史的人種的に内在的な必然性をもっているのに対して、白人のそれはいわば「借りもの」であり、イミテーションであるというのだ。村上自身は、白人のジャズをアーティフィシャルなものとして、好きだといっているわけである。

 

 ポール・デズモンドのアルトの特徴といえば、優しさ溢れるソフト&メロウな音色、都会的な軽い孤独感、誠実な人柄がにじみ出た雰囲気ということになろうか。ポール・デズモンドのプレイを聴いていつも感じるのは、「ファンキー」や「黒い」ということとは無縁の、あるいはその対極にある音の響きだということだ。パーカーの影響からすら、もっとも遠いところにあるといえるかもしれない。それはしいて言えば「白人的」といえるのかも知れないが、そういうことが憚られるほど、オリジナリティーに溢れる響きである。

 

 ポール・デズモンドの音は、誰が聴いてもポール・デズモンドの音なのだ。

 

[関連記事] ポール・デズモンド・カルテット 『ライブ』


80/81

2007年04月02日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 148●

Pat Metheny

80/81

Watercolors0001_11  快作である。1980年録音の『80/81』。時に叙情的に、時に激しく、時に元気いっぱいに……、パット・メセニーの才能全開だ。

 本当は全8曲入りの作品なのだが、私の持っているCDは何故か6曲のみである。「オープン 」と「プリティ・スキャタード」 が入っていない。CDがではじめの頃の短縮盤なのだろうか。名曲 Goin' Ahead も本来は最後の曲のはずであるが、私の持っている盤では③曲目となっている。いつか、ちゃんとしたCDを買わねばならないと、今でも考えている。

 それにしても、今考えると何と豪華なパーソネルなのだろう。

    パット・メセニー(g)、

    チャーリー・ヘイデン(b)、

    ジャック・ディジョネット(ds)、

    デューイ・レッドマン(ts)、

    マイケル・ブレッカー(ts)

 CDの裏の写真をみると、みんな若々しい。80年代の新しいジャズを創造しようという清新な息吹が感じられる写真だ。 

 Goin' Ahead の美しさに涙するのみである。パット・メセニーは多くのアコースティックなフォーク曲を残しているが、この曲はその1,2を争うものと断言してもいい。胸がしめつけられ、熱いものがこみ上げてくる。80年代前半、渋谷の町を駆け巡った私の頭の中ではいつもこの曲が鳴り響いていたような気がする。

 


シークレット・ストーリー

2006年11月05日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 82●

Pat Metheny     Secret Story

555  年月がたつのは速いものである。しばらくぶりにこのアルバムを取り出してみたら、1992年にリリースされたものだということに気づいた。私の記憶の中では、つい最近のことのように思えるのだが……。

カンボジアの子ともたちの声をサンプリングしてつくったという民俗音楽風の魅惑的な旋律からはじまり、全編にわたって飽きることがない。途中には矢野顕子のvoiceやトゥース・シールマンズのハーモニカも登場して興味深い。

 パット・メセニーのすごいところは、ずば抜けたテクニックをもつギタリストでありながら、決してその腕前を披露するような音楽をつくらず、トータルなサウンド世界を創造するところだ。その意味では、マイルス・ディヴィスに重なるかもしれない。マイルスのトランペットの力量とパット・メセニーのギターの力量とを考えるなら、このことは特筆すべきではないか。

 感動的な音楽だ。初めて聴いた時の胸の震えを今も覚えている。私の汚い心が洗われ、繊細でセンシティブな何かが確かに伝わってくる。私は思うのだが、このアルバムはその素晴らしい出来に比して、正統な評価を受けていないのではないか。パットのプライベートアルバムという色彩が強いものの、それまでの音楽の集大成という意味合いが強く、パットの多方面にわたる音楽性が良質な形で表現されている作品だ。その後、リリースされた『ミズリーの空高く』の影に隠れてしまった印象があるのだがどうだろうか。『ミズリーの空高く』はいうまでもなく、素晴らしい作品だ。けれども、今日しばらくぶりにこの『シークレット・ストーリー』を聴いて、『ミズリーの空高く』に勝るとも劣らず、場合によってはそれを凌駕する作品だと私は確信している。

 このCDを何年も聴いていなかったなんて……、不覚だった。などといって、本当はパット・メセニーを聴き始めると、仕事に支障がでるので、しばらく封印していたのだが……。まずい、明日から仕事にならないかもしれない……。


激高気質のフィル・ウッズ

2006年10月24日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 74●

Phil Woods     Alive And Well In Paris

2006 中山康樹ジャズの名盤入門』(講談社現代新書)という本で知ったのだが、あのビリー・ジョエルの名曲『素顔のままで(Just The Way You Are)』の中で、エモーショナルで哀愁を感じさせるサックスを吹いていたプレーヤーは、このフィル・ウッズだ。

 ジャズを聴き始めて20数年になるが、どういうわけかフィル・ウッズの作品を聴いたことがなかった。もちろん名前は見たことがあったし、文字を通じてどのようなプレーヤーかは情報としては知っていた。しかし、何故だかわからないが、レコードもCDも購入することなく今日まできたわけだ。一方、ビリー・ジョエルの『素顔のままで』は、個人的に思い入れの深い、想いでの曲であり、特に間奏の哀愁のサックスはずっと気になっていたのだ。

 我ながら不覚だった。ちょっと、調べればわかったものを……。前記の本でそのサックス・プレーヤーがフィル・ウッズだと知ったのはつい数ヶ月前のことである。そんなわけで、初めて手に入れたフィル・ウッズの作品がこの『フィル・ウッズ&ヨーロピアン・リズム・マシーン』である。

 しかし、活字では知っていたが、1曲目から何と直情的な演奏なのだろうか。誤解を恐れずにいえば、最初の一音から何か頭にカーッと血が上ったような吹き方だ。一階から一気に三十六階まで上っていくような気合の入り方だ。情熱のアルト吹きとか激高気質とかいわれるのも頷ける。さすが、チャーリー・パーカーに憧れ、パーカー亡き後、未亡人と結婚した男だけのことはある。

 二曲目(② Alive And Well)になって、さらにその思いは強まる。しかし、何という入り方だ。かっこいい。そう来なくっちゃ、これぞジャズだ。③ Freedom Jazz Dance の頃にはすっかりウッズの世界に引きずりこまれ、激しいアドリブの嵐の中で、知らぬ間に身体がリズムをキープしている。いつの間にか、最初に感じていた激高ウッズへの違和感は影をひそめ、アグレッシブなアドリブ演奏に共感さえ覚えていた。ゆっくりとしたテンポではじまる④ Stolen Moments でもアドリブ演奏の妙技はつづく。しかも音色が良い。力強く、張りのある、艶やかな音色だ。

 『素顔のままで』よ再び、という私の期待は裏切られた。ここには、『素顔のままで』の面影はほとんどない。彼は本来そういうプレイヤーではないのだろう。哀愁のバラードプレイなど求めるべきではないのかもしれない。それでも十分聴くに値する演奏である。別の意味でジャズの面白みを、あるいはジャズ本来の面白みを再認識させてる作品である。


ピンク・フロイドの狂気

2006年10月15日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 69●

Pink Floyd    

The Dark Side Of The Moon

Scan10012_12  The Dark Side Of The Moon を「狂気」と訳すセンスはなかなかいいと思う。月の裏側……。私ならもっと拡大解釈して、ニーチェにならって「善悪の彼岸」などと訳したいところだ。ちょっと、スノビッシュな発想だろうか。

 君は僕の中にある狂気を閉じ込めようとするが、そうはいかない / 僕の中に住み着いた僕でないものはもう動きはしない / 君だって僕たちのたたき出す異音を聞いてしまったら、異質な場所にたっている自分を発見するようになるだろう (⑨ Brain Damage

 ここで語られているのは、誰でもがもっている狂気の側面であり、それを狂気として排除する構造、すなわち自らが正常の側にたって狂気を異常として退ける心性や社会構造への懐疑である。

 渋谷陽一が『ロックミュージック進化論』(新潮文庫)で述べたように、「ロックとはもともと現実との違和感を徹底的に増幅し、そのひずみを音にしてきた音楽」である。そして、「その違和感を対象化し、原因をあらわにしていくのがプログレッシブ・ロックだった」といってよい。ところがピンク・フロイドはさらにすすんで、「ただ単に我々の存在の不幸と不条理を嘆くだけでなく、その不幸を乗り越える方法論を求めるべく、新しい表現領域に進んでいった」のである。それがより鮮明な形になったのがアルバム『アニマルズ』や『ザ・ウォール』であり、その中で彼らは(特にロジャー・ウォータースは)疎外論的な社会主義思想に接近していったのだ。この『狂気』はその出発点になったといっていいかもしれない。

 こんなことを書くと何か小難しい音楽のように見えるが、もちろんそんなことはない。非常に大衆的なつまりポップな側面をもっており、受け入れられ易いサウンドだと思う。1973年作品のこのアルバムが、それ以後ビルボードTOP200に15年間(850週)もチャートインし、日本においても並みいる歌謡曲のレコードを押しのけ、チャートの1位となったことはそのことをよくあらわしている。

 私がこのアルバムを最初に聴いたのは高校生の頃だったが、この作品のすごさに気づきに本当にハマッてしまったのは30代も後半を過ぎてからだ。若い頃はどうもその前衛性にだけとらわれ、トータルに感じ評価することができなかったのだ。その外見の前衛性に反して、非常に気持ちの良いサウンドであり、聴いていて落ち着くアルバムだと思う。何というか、人間の生理的なリズムに合致したサウンドなのだ。① Speak To Me の出だしの心臓の鼓動のような音を聴いて、初期の村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を想起するのは私だけではないだろう。ビートが心臓の鼓動に共振し、素直に音楽に同化することができる。サウンド全体が非常に安定しているように感じるのはそのためだろう。しかも、安定したサウンドではあるが、決して予定調和的なものではない。時折聴こえてくる「叫び」や「つぶやき」や「笑い声」は、人間的な生々しさを感じさせ、自分自身を揺さぶり覚醒させる効果をもつ。レジや時計の鐘の音などの挿入も一見前衛的に見えるが、決して奇をてらったものでなく、聴くものを覚醒させるという効果を十分に発揮していると思う。

 最初に聴いた高校生の時以来長い間く取り出すことはなく、レコードは埃をかぶっていたが、10年ほど前にたまたま乗り合わせた友人のカーステレオでかけてあったのを聴いて衝撃を受け、再び聴くようになった。今ではハイブリッドCDも購入し、しばしば再生装置のトレイにのるようになっている。ジャズを中心に聴くようになって20数年、ロックに対する興味はすっかり薄れてしまったが、このアルバムは別である。聴くたびに発見があり、インスパイアされる稀有な作品といっていいであろう。


ポール・デズモンド・カルテット/ライブ

2006年09月27日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 57●

Paul Desmomd Quartet Live

Scan10008_13  ポール・デズモンドに熱狂したことはない。けれども、好きか嫌いかと聞かれれば、迷わず好きと答えるだろう。そして年齢を重ねるたびその傾向は強まっていく。

 『Swing Journal』2006-10月号によると、あのフィル・ウッズは、「ポールのアルト・サックスの音色がわたしは好きなんだね。あんなにウォームでクリアな音色を持っているアルト・サックス・プレイヤーは珍しい。考えてみれば、テクニックや音楽性よりも、あの音色に私は魅了されているのかも知れない。トーンのカラーをあまり意識しないプレーヤーもいるけれど、わたしはまずそこに耳が向う。個性的な音色や美しい音色を身につけているひとが羨ましいんだ。その中でトップクラスのひとりがポールだよ。」と語ったらしい。

 フィル・フッズの言を待つまでもなく、ポール・デズモンドの聴きどころは「音色」である。ウォームで優しくしかもどこか孤独を匂わせるような音色。実際、ポール・デズモンドは孤独を愛する多少変わった人物のようだ。ジェームス・ジョイスを愛するこの男はライブの自分の出番が終わると先にステージを降りてレストランに行ったり、楽屋で本を読んだり、あるいは、ジャズ関係者とはあまり付き合わずに演劇や映画やバレエの関係者と付き合いが多いようなタイプだったようだ。

 1975年録音のこの作品は、そんなポール・デズモンドの特質が最良の形で現れているようにおもう。アット・ホームでくつろいだライブの雰囲気が伝わってくる。ポールのアルトはどこまでも優しく、どこまでも温かい。そしてどこか寂しげで人恋しいような音色に共感する。鬼気迫るデーモニッシュな演奏も素晴らしいが、時にはこういう音楽を聴いて人間性を回復したい。ポール・デズモンドの音楽を聴いていると、なぜだか人間を信じてみようという気になってくる。不思議なことだ。


パプロ・カザルスの「鳥の歌」(ホワイトハウス・コンサート)

2006年07月31日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 21●

Pablo casals    

A Concert At The White House

Scan10007_5  クラシックものである。チェロの神様パプロ・カザルスのライブ盤である。1961年、大統領J.F.ケネディの招きに応じて、ホワイトハウスで行った貴重なドキュメント盤だ。

 1939年、スペイン内戦は独裁者フランコ軍の勝利に終わる。第二次大戦以降もフランコ独裁政権は続き、失望したカザルスはスペインに民主政府のできるまでステージに立たないと、事実上の引退を宣言してしまう。その後、多くの彼の支持者たちによって何度か音楽祭のステージに引っ張り出されたが、祖国スペインのフランコ独裁政権を承認する国ではコンサートを行わないとの信念を持っていた。したがって、フランコ政権の承認国であるアメリカでコンサートを開くというのはひとつの驚きであったのだ。一般には、ヒューマニズムの指導者ケネディに対する信頼と誠意をあらわそうとしたためだといわれる。

 85歳の誕生日をまじかに控えたカザルスであったが、瑞々しく力強い演奏だ。スペイン民謡の⑪鳥の歌は短い演奏ながら、やはり感動を禁じえない。長くその土地をふんでいない祖国スペインへの深い想いが察せられる。ライブ盤ならではの臨場感も伝わってくる。特に、会場に立ち込めるピレピリした緊張感がすごい。カザルスのチェロの音は、どこまでも深い。クラシックはまったくの素人の私だが、カザルスのチェロの響きには思わす゛聴き入ってしまう。

 1960年代、音楽家も歴史や政治のなかで生きていたのであり、それとの格闘の中で、音楽をつむぎ出していたのである。