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私の住む街の堤防の上からの写真である。大津波のあと,海岸線には何キロにもわたってこのような堤防が築かれた。先日、私はジョギングコースに使ってみた。空は曇っており,私以外に人は見当たらなかったが、海を見ながらのジョギングはなかなか快適だった。
ところで、私の住む街には、いまでも堤防建設そのものに反対する人々が多数いる。堤防建設を渋々容認しつつも、できるだけ低いものにするよう訴えている人たちも多数いる。
堤防は、「人の命が一番大切」という国や県の主張のもと次々建設され、既成事実が積み重ねられていった。説明や話し合いを十分に行ったということになってはいるが、結論ありきの国や県のやり方は、反対派の人たちの立場から見れば、暴力的ともいえるものだったろう。
それにしても、本当に「人の命が一番大切」なのだろうか。「人の命が一番大切」という言い方は、一見もっともで批判できない言葉のように思える。けれど、そもそも「人の命が一番大切」というからには、「命」とは何かが問われなければならない。震災直後には、そのことが問われる可能性があった。社会の中で議論が深められる可能性があった。震災の後、復興を論じるテレビ番組の中で「人の命が一番大切なのではない」と喝破した評論家がいた。勇気ある発言だった。私は共感を禁じ得なかった。しかし、多くの犠牲者を出した震災後の風潮とテレビ局の自粛(自己防衛)のためか、その主張はかき消され、その評論家がテレビに出ることはなくなった。「命」についての思考は停止し、「命」の語は奥行きのない漠然とした記号として流布するようになった。
「生命」とはあるいは「生きる」とは何なのだろう。生きるとは、どのように生きるかという問題と表裏である。脳死の問題ともリンクすることだが、心臓が動いて、食べて排せつして寝るだけで生きているといえるだろうか。生命あるいは生きるということは、人間が何かを感じ、考え、そして生活するということと大きく関係しているように思える。人間の尊厳の問題といってもいいだろう。堤防は生活の場と海とを遮断し、視界から海を消し去ってしまう。漁師や海辺に生活する人々にとって、海の見えない生活は、彼らの生きる意味や人間としての尊厳と大きく関係しているのだ。
縄文時代以来、海辺に住む人たちは津波と戦ってきた。家を流されるたびに街を再建し、生活してきた。もちろん命を守ることは必要である。けれども、彼らが長い歴史の中で海を離れることはなかった。それが自然とともに生きるということなのであり、自然に敬意を払うということだろう。堤防は、海と人々の生活を隔ててしまったが、自然と我々をもべててしまったように思う。
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