教育基本法改正論議で、愛国心が注目を浴びつつある。ところで、愛国心論議のとき、よく国家権力が心の中に入り込めるのかということがテーマになる。それももちろん重要だが、私がいつも素朴に感じるのは、世間でいうところの愛国心というものが実体がない空虚なことばなのではないかということだ。それは、① そのばあいの国とはどういうものかということが不明であることと、② どのような条件の中で国を愛するべきなのかがいまひとつ不明であるという2点においてである。
① 愛国心の国とは、「天皇が治める神の国」なのか「自由・平等・博愛の国」なのか。青臭いことをいうようだが、やはりその点が漠然としている。対象が漠然としているかぎり、国を愛する心も漠然とせざるを得ないだろう。「周辺事態法」の「周辺」概念と同じでどのようにでも解釈できることばである。
②①と関連するが、神様でもない限り、ある対象を無条件に愛することはできない。愛する対象である《国》がどのようなものであるかによって、愛し方や愛せるかどうかは変ってくるだろう。私に即していえば、安倍極右政権の支配する日本など愛したくはないし、愛するにも値しないと思う。あるいは、その安倍首相が70%もの支持率があるのであれば(私はこの数字にはかなりの疑問があると考えているが)、なおさらそのような国は愛するに値しない。
政府関係者は「国を愛する心」を牧歌的ニュアンスで説明するが、明確でない対象をいかなる場合も愛することを教え込もうというのであれば、改正教育基本法は、近頃はやりの洗脳/マインド・コントロールをめざした法であり、その意味で明確なファッショ法典といわねばならない。
その意味では、教育基本法改正によって「愛国心」を奪われる人たちも大勢いるのだろう。そのような人たちにとっては、教育基本法の改正される日は「国恥記念日」というべきであろう。
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