皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

グループ研究発表を前に

2018-02-19 22:47:13 | 生涯学習
行田市民大学9期生研究発表が今週木曜日に迫りましたが、今日は研究発表資料の提出日でした。場所は行田市教育委員会会議室です。会計報告も済み、後は当日の発表を残すのみです。限られた時間のなかで、ここまでまとめられたことに充実感を覚えますが、やはり当日、短時間(持ち時間15分)で、自分たちの研究成果を伝えるために必要なことは何かを自問しています。要点を絞ること、掘り下げすぎず、興味が向きそうなテーマで話を広げること。また時間は厳守しながらも話す速度に余裕を持つこと。
普段の生活で多くの人前で話すこと(プレゼン)の機会はあまりありません。こうしたチャンスを活かせるか、楽しみのほうが多く、機会を与えていただいたことに感謝しています。教育委員会の各校の取り組みです。市街地の中心校では、神輿など祭りに参加する学校が多いようです。更に少子化、過疎化の進む農村部は農作業や年配者との交流をしているところもあります。私の子供の学校は後者です。待っているだけでは何も変わらない、始まらない。そういう気持ちで今年一年過ごして来たように感じています。
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北新宿 山神社

2018-02-19 21:45:43 | 神社と歴史
旧吹上町北新宿の山神社。JR行田駅から吹上方面に向かって一キロほどにあります。ここ数年で商業施設ができ、新興住宅が増えましたが、昔から元荒川左岸に位置し、自然堤防上に集落があったとされています。古くは忍領の太井村に含まれ、その太井村も熊谷市太井、門井、棚田(行田市)、そして新宿と別れました。明治期に同じ北埼玉郡に新宿村(蓮田市南新宿)があり、北新宿と改めているそうです。また読み方は「しんじゅく」ではなく、「しんしゅく」あるいは「しんしく」と濁らずに読むようです。
住宅地として周辺区域が開発され、見晴らしも様変わりしましたが、平成20年頃までは木々も多く、まさしく山神社といった感がありました。主祭神は大山祇神。
境内社として、浅間神社を祭祀していたことが見れます。昭和二十年頃までは鳥居には「正一位山神社」の篇額が掛かっていたそうです。恐らく土地柄荒川の洪水にも悩まされた処だったのでしょう。小高い塚に建てられた社殿は周辺区域の開発が進んだ今も、地域を見守るよう静かな佇まいを留めています。
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忍の涙橋

2018-02-19 21:10:59 | 行田史跡物語

忍東照宮北にある涙橋跡の石碑。天正元年(1573)成田氏長は、その妻、横瀬成繁田の娘と離縁したといわれます。縁切り橋で別れを惜しんだ妻は次の橋にて振り返り、涙を流して皿尾門から出ていったとされている。即ち涙橋として後世までつたえられた。その時忍城に残された一人娘甲斐姫はわずか二歳。それから十六年後、長刀の名手となった甲斐姫は、大宮口御門にて城兵を鼓舞し、忍城を守り抜いたと「成田記」は伝えている。
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