「行田」の地名は沼地を田としたことから≪田が業(な)ったので業田が転じて行田となる≫という説が有力で、中央小学校の南側を「なり田郭(くるわ)」と呼んでそこに門を立てたことから「成田門」となったという。
「行田」という地名は千葉県船橋市にもあり、江戸時代行徳と田尻の間に新田を造り、それぞれの頭文字をとって「行田新田」と称したことから今でも船橋市行田の地名がの残っている。
藤原氏を祖先とする(諸説あり)成田氏の初代武蔵守忠基から数えて五代目助高は現在の熊谷市上之の地を本拠として従五位下を賜る。その長男六代助広は成田太郎を名乗り、四兄弟は別府次郎、奈良三郎、玉井四郎と現在の熊谷市東部にそれぞれ拠点をなしている。
助広の三男成田助忠は五郎を名乗り、源義経に従って、一の谷合戦にて功をなし、現在の行田の地を賜ったという。(吾妻鏡)皿尾久伊豆神社縁起によれば文治四年(1188)成田五郎長景が平家追討の折、伊豆三嶋大社に戦勝祈願し、功を成したことから皿尾地に三嶋大社の御祭神「大山祇神」を勧請したと記されており、文献等に長景の記述はないが年代的にはこの助忠こそが成田五郎長景ではないかと考えられる。
助忠の次男助任は行田兵衛尉と名乗り、行田の地に館を構えたとされている。
兵衛尉とは「兵衛府に属し、朝儀の儀仗をする役目」の意味で督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)といった役職のうちの小隊長格を表している。『吾妻鏡』には承久三年(1221)宇治川の合戦で行田兵衛尉が負傷したと記されている。尚助忠の長男道忠(行田兵衛尉の兄)は一の谷合戦で戦死している。
内行田近辺を行田氏館の内として地名が残っている。商工会館南の路地を行田氏の氏神久伊豆神社参道であるとして、久伊豆神社を長野の地に移したのは文明年中の十四代成田顕泰であったという。
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