国道125号城西交差点、今は動かなくなったからくり時計の反対側に持田口御門跡が建っている。
忍城西口の固めとしての役割は大きく、この御門から城内となって侍以外の出入りは困難であったという。皿尾口、大宮口と並んで二重の曲輪と水路で守られていた上に持田口は二重の橋で隠された上に門番が厳重に警護したという。いもでも道幅が広くなっているのは当時の名残である。
「成田記」によれば天正18年(1590)6月館林城を落とした石田三成軍は忍城を完全に包囲したが十日に及ぶ総攻撃にも忍城を落とすことはできず、水攻めの命を受け、丸墓山から堤根、吹上、久下へと石田堤を築き上げた。
同年7月1日真田昌幸、信繁親子が援軍に来て持田口を総攻撃。守兵も良く耐え忍びここを守り抜く。4日に信繁は馬に乗り紅白の陣羽織を纏って陣頭にて攻め立てるも、本丸から駆け付けた甲斐姫は大将を務めて「敵大軍為れども臆するな」と叱咤激励し応戦すると、石田軍は夕刻を迎えて引き上げたという。
明治六年(1873)、行田町から持田口御門まで現在の国道125号を造ることとなったが、市役所から諏訪曲輪までは当時も沼で、難工事が続き、完成まで20年間近くかかったという。
また成田氏落城後、家臣退去の折にはここを出て皿尾の長大道を通り熊谷の旧成田地(上之)に落ちていったことから、長大道のことを成田道と呼んだという。
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