さいたま市(旧大宮市)見沼区蓮沼。岩槻から大宮氷川神社に抜ける道は岩槻道と呼ばれ中世から開けた街道であった。見沼区蓮沼の地名はその名の通り、蓮の生じた沼が見える場所であったという。また当社の鎮座する区域は字薊ケ谷戸と呼ばれ、昔は薊(あざみ)が多く自生したところだったともいう。
薊(あざみ)は「あざむく」から転じた雑草で美しいと思って触れば棘があるという、古代から知られる華であったという。草冠に魚の利と書いてあざみ。リとはすなわち魚の小骨であって、鋭い棘を表している。
創建の年代は明らかでないが、口伝によれば古く古呂利(コレラ)などの疫病にたびたび見舞われたことから、これを防ぎとめようと牛頭天王を勧請したことを起源とし、獅子頭を作り、氏子の安泰を祈願するようになったという。
古くは牛頭天王社と称したが、明治期に八雲社と改めている。ご祭神は素戔嗚命。
社殿は質素な一間社流造りで内陣に白幣を安置する。改築が嘉永五年(1852)に行われたと記録にあるようだ。
年間の祭祀として獅子回しと天王祭りがあるという。獅子回しは一頭の獅子をもって氏子各戸を祓って回る。回った家々ではお供え物として胡瓜を差し出したという。きゅうりの切り口は八雲神社の神紋に似ているからである。また初生りは神社へ備える習慣があったともいう。
キュウリの切り口が八雲、八坂の神紋に似ているというのは各地で伝わることで、区域によってはきゅうりの作付けを憚るところもある。これはいわゆる禁忌伝承であって、稲作中心の農地における、他作物の転帰を暗に禁じる意味合いもある。
岩槻から大宮氷川神社へと抜ける道は岩槻道とよばれ、内陸の重要街道の人一つであった。よって人の往来も多く、人流の激しさから疫病が運ばれたことはおそらく史実であろう。こうしたところに道の神、祓いの神を祀ることは至極自然な流れであり、牛頭天王が勧請された理由がよくわかる。また現在でも県道として非常に日中から車の往来も多い。
岩付城の城鎮守が久伊豆社であり、太田氏がこの道を通って氷川一之宮に参拝しその庇護を求めたのだろうか。
一間造の小さな社の裏には六道を案内する地蔵尊が建っている。今なお、コロナという疫病の蔓延によって社会が不安になっているが、江戸期以前にもこの地で道に迷う旅人や行商人は多かったことだろう。時代を超えて、流行病が治まるよう牛頭天王と六道の地蔵尊に祈る人々が後を絶たない。
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